四.決意の夜
水の匂いがする。
それは仄かに甘く、懐かしく馨る。
ふと仰げば、夜空はまるで宝石箱をひっくり返したよう。幾千幾万もの小さな光が瞬いている。
気配を感じて、ヨンジュは背後を振り返った。
闇に包まれた外廊を、従者に松明を持たせ歩いてくるヘランの姿が見えた。
彼もヨンジュに気が付いて、片手を軽く振り、従者の動きを制した。
花宴は遠くでまだ続いている。その声が闇に溶けながらも聞こえてくる。
遠くで聞いている分には楽しげに思えるが、ヒギョンが嵐を巻き起こし、だが自身は颯爽と退席し、テソン王も気分を害しながら席を立った後の宴である。
空々しさが場を支配し、居たたまれなくなったヨンジュもこっそりと席を立った。
――もはや、あの場には戻れない。
ヨンジュがテソン王に呼ばれたのは、自室に戻ってすぐのことだった。
父王の話を察して、ヨンジュは身に着けていた宴の衣装がずっしりと重くなるのを感じた。
おそらく、河伯に嫁ぐように言われるのだろう。人々は皆、それを望んでいる。
父王には、親として望まなくとも、クムサ王として受け入れなければならないことがあるのだ。
ヨンジュは宴用の衣装を脱ぎ捨てると、普段着に着替え、手早く髪を結い直し、自室を後にした。
夜闇に染まった外廊に出ると、桜の幹の脇を通り抜けた風がヨンジュの簪を揺らし、涼しげな音を奏でた。
庭院の闇に浮いた薄紅を眺めながら、侍女を後ろに従えて、しずしずとテソン王の居室に向かう。
時より、外廊の屋根の下まで迷い込んだ花びらが、ヨンジュの衣の柄の一部になりたがり、ヨンジュの袖を擦り抜けていった。
それらを見やって、ヨンジュは頬に淡く笑みが浮かべた。
――ヘランと鉢合わせになったのは、そんな時だった。
従者を置いてヘランだけがヨンジュに歩み寄ってくる。
ヨンジュは俯いた。ヘランを前にすると、なんて自分は無力なのだろうと、劣等感に苛まれるのだ。
(私には何もできない)
苦しくて、悲しくて。
なぜ、自分がこの世に存在しているのか分からなくなる。
――ヘランがあまりにも完璧だから。
闇が濃くなる。
薄紅の色が遠く、消え失せてしまうように感じられた。
すぐ目の前にヘランを感じて、ヨンジュはますます下を向いた。
(なぜ来るの? 私なんかに構わず行ってくれればいいのに)
話しかけて欲しくない。
近付いてきて欲しくない。
無視してくれたら、どんなにかありがたいだろう。体が震え出す。
ヘランに何を言われるのかと思うと、怖くて仕方がなかった。
「ヨンジュ」
びくん、と肩が跳ね上がる。
泣きたくなった。
ヘランも先の宴の席にいたので、ヒギョンが何を提案したのか知っている。
ヒギョンの息子である彼が、そのことについてどう思っているのか聞いてみたい気がしたが、やはりヘランが怖い。
ヨンジュは彼に問いかけることも、彼の前から逃げ出すこともできずに体を固めた。
――いったい、いつからだっただろう。ヘランを恐ろしいと思うようになったのは。
幼い頃は、仲が良かったような気がする。
少なくともヨンジュは、何でもできて格好良い年上の従兄が自慢で、大好きだった。
ヨンジュがヘランに遊びを強請ると、父王は僅かに困ったような表情を浮かべたが、父王を困らせてもヨンジュはヘランと一緒にいたかった。
ところが、ある日、ヨンジュは自分に向けられるヘランの冷めた瞳に気が付いた。
そして、それはヨンジュにとって世界が反転するほどの衝撃だった。
――お前は無能だ。何の役も立たない。
そう責めるかのような冷めた瞳に、ヨンジュの心は凍りついだ。
王族でありながら雨を降らせることのできない自分を、ヘランは蔑んでいる。
直接的なことを彼は言って来ないけれど、ヨンジュには分かった。
自分は、大好きだった従兄に軽蔑されてしまったのだ。
そして、ひどく嫌われた!
「……ヨンジュ」
名を呼ばれ、不意に、ヨンジュは顎を掴まれた。
ぐいっと、強引に顔を上に向けさせられる。驚いたヨンジュの瞳と鋭いヘランの瞳が合う。
そして、いつも先に目を逸らすのはヨンジュだ。
ヘランの整った眉が歪んだ。
「すぐに俯くのはやめろ。王女がそんなにも自信なく下ばかりを見ていては、民が不安になる。顔を上げて堂々としていろ」
(堂々と……?)
たちまちヨンジュの胸に苛立ちが込み上げてきた。
やり切れない怒りがヨンジュを支配する。
(どの面を下げて堂々としていろと言うの! ヘランは完璧で、やるべきことをしっかりとやれているからそんなことが言えるのよ。誰からも頼られて、どんなことを任せられてもそつなくこなす貴方は、さぞ堂々としていられるんでしょうね!)
じわりと、ヨンジュは目頭が熱くなるのを感じた。
(これは僻みだ)
ヘランが嫉ましくて仕方がない。
なぜヘランのような完璧な人間が自分の近くにいるのだろう。
ヘランなんかいなければ良かったのに。
(違う!)
ヨンジュはすぐに自分の考えを否定した。
(ヘランはクムサ国にとって大切な存在だ。いなければ良かったのは私。そう、私だ!)
ヘランではなく私の方こそ不要の存在であるのに、ヘランを妬むだなんてどうかしている。
――醜い。心が。
ヘランを前にしていると、自分がどうしようもなく醜く思えて仕方がない。
欲しい。欲しい。欲しい、と。
彼が持っているものすべてが欲しくて堪らなくなる。恨めしい。
(嫌い。私なんか)
つぅーっと、ヨンジュの頬を涙が伝う。
それに気付いたヘランの瞳が大きく見開かれた。
「ヨンジュ、お前はたかだか雨を降らせることができないだけだ。そんなこと、他の多くの者だってできやしない。たとえそれが王族としてあるまじきことだとしても、どうしてそこまで自分を卑下する必要がある?」
「どうして……?」
ヨンジュはヘランの手を払いのけ、涙を流しながら歪んだ笑みを浮かべた。
「雨を降らせることができる貴方には分からないわ。できない者の気持ちは、できない者にしか分からないからよ。貴方はそうやって私を上から見ていればいいわ。私が河底に沈むところを見ていなさい!」
ヘランに自分を分かって欲しいなんて思わない。
どうせ分かるはずがないのだ。
ヘランに望むことは一つだ。視野に入ってこないで欲しい。
完璧すぎる彼は自分にとって刃でしかないから。
きっと、一生掛けたって分かり合えない。昼と夜ほど自分たちは違いすぎる。
それなのに、どうして、と自分に問うヘランの姿がどうしようもなく癪に触った。
(分かろうとする振りなんてしないで! どうせ、貴方は私のことが嫌いなのでしょ!)
ヘランがいない世界があるのなら、河伯のもとへ行くのも悪くないように思えた。
ヘランさえいなければ、自分はもっと幸せになれるのではないだろうか。
だが、ヘランはクムサ国に必要だ。
必要ではない自分は、王女として唯一できる勤めを果たして死んでしまおう。それが一番良いのだ。きっと。
ヨンジュは袖で頬を拭うと、ヘランを置いて外廊を駆けた。テソン王の部屋に向かう。
一刻も早く自分の決意を告げるために。
◇◆
怒られる、と思った。
愛想を尽かされる、と。
けれど、父王の瞳は赤く潤み、今にも涙が溢れようとしていた。
ヨンジュは震える拳を胸元に押し当てた。
「父上……」
ヨンジュは見つめる父王の顔に、しわが深くなっていることに気が付いた。白髪も増えた。
自分が成長するにつれて、父王は小さくしぼんでいくように思えて、ヨンジュは悲しかった。
愛娘に王位を譲りたいと側近に漏らした時を境に、父王は変わった。
――いや、変わったのは父王の周囲の者だ。
臣下たちは、テソン派かヒギョン派かで別れ、今では多くの者たちがヒギョン派である。
表だってヒギョンの肩を持たない大臣とて、テソンが玉座にある限りはテソンに仕えてくれるだろうが、ヘランが王位に着けばテソンなど見向きもしなくなるだろう。
――まして、ヨンジュなんて。
まさにテソンの心痛の種は、自分が退位し、ヘランが玉座に着いた後のヨンジュのことである。
ヨンジュはどんなにか肩身の狭い思いをすることだろう。
ヘランは、もはや二十一歳。いつ自身の正統性を訴え、玉座を返せと言い出してもおかしくない年齢だ。
残された時間は僅かにもない。そうと悟り、テソンは愛娘の第二の道を模索するようになっていた。
――何としてでもヨンジュに王位を譲ることが適わないというのであれば、せめて不自由のない穏やかな暮らしを用意してやりたい。
しかし、その願いは華陽殿の主によって、春嵐に晒された桜の花びらのように、儚く散らされてしまった。
テソンはヨンジュの両手を握り締めて、すまないと詫びた。
力を持たない愛娘が哀れで堪らなかった。
「あのような場で言われては、もみ消すこともできない。よほどのことがない限り、お前を河伯のもとにやるしかないだろう」
めったに公の場に姿を出さないヒギョンが宴に姿を現したその瞬間から、テソンの胸はざわついていた。
何を言い出すのか。何をしでかすのか。
常に自分の想像をはるかに超えたことをやってのけるヒギョンが、テソンは恐ろしくて堪らなかった。
はたして不吉な予感は当たり、彼女はヨンジュを河伯に嫁がせるよう、テソンに迫った。
とんでもないことだ。すぐに彼女の提案を退けようとした。
だが、テソンが口を開くよりも早く彼女は皆の賛同を得、退路を断つために前例まで持ち出し、たった一つの答えしか許さなかった。
勝ち誇ったヒギョンが、花宴の席を立つ時に優艶と浮かべた笑みを思い出して、テソンの胸に煮え立つような怒りが込み上げてきた。拳を方卓に叩き付ける。
「あの女! よりによってお前を生け贄にするだなどと言い出すとは!」
ばしゃん、と音を響かせて、方卓の上に用意されていた水差しが倒れた。
止める間もなく水は流れ、方卓から床へと流れ落ちていった。
床に水たまりが広がり、ヨンジュの長い裳を濡らした。
方卓の上では、龍の彫刻が施された青銅の水差しが小さく孤を描きながら揺れている。
ヨンジュは、そっと腕を伸ばして水差しを起こすと、方卓の上に置き直した。
「……すまない」
申し訳なさそうに眉を下げたテソンに、ヨンジュは緩やかに頭を振る。
謝られるようなことではないのだ。むしろ、自分のために怒りを露わにしてくれた父王が愛おしい。
そう伝えたくて、ヨンジュは父王の肩に優しく手を置いた。
すると、父王は、あともう少し時間さえあれば、と呟き、額を両手で覆った。
「――時間?」
ヨンジュは怪訝そうに眉を寄せた。
「時間があれば、何か変わったのですか?」
「ああ。お前が如何にしても雨が降らせることが適わないならば、トガム国に嫁がせようと考えていた」
「トガム国?」
「クムサの西に位置する国で、近年もっとも勢いのある国だ。トガムの第一王子にはまだ正妃がないと聞く。年頃もお前と丁度良い。――そう思い、水面下で話を調えていたのだが」
ヨンジュは瞳を大きく揺らした。思いも寄らない話だった。
まさか自分に縁談の話が持ち上がっていようとは。
――トガム国
他国の情勢に疎いヨンジュは、隣国であるにも関わらず、その国名を初めて耳にした。
その第一王子とはいったいどういった人物なのだろうか。水波に引き寄せられるようにヨンジュの心が乱れた。
見知らぬ、そして縁の無かった許嫁に思いを馳せて。
だが、それもごくごく一瞬のことだった。
父王が頭を左右に振るのを見て、ヨンジュは唇を固く結んだ。
ヨンジュ、と名を呼ばれて、父王に手を取られる。
「クムサの女王になれぬのなら、せめて力のある国の正妃にと願っていた。ヨンジュ、お前のことが案じられてならなかったのだよ」
「……はい」
分かっています、とヨンジュは頷いた。
父王の想いは胸が苦しくなるほど分かっている。
だからこそ、それに何一つ応えることのできない自分が悲しいのだ。
せめて1つくらい、自分でもできる何かをやり遂げたい。
それがたとえ寝台に体を括り付けられ河底に向けて投げ入れられるようなことでも。
ヨンジュは震える声で、だが、しっかりと言葉を放った。
「父上、私はクムサの王女として河伯に嫁ぎます。国のため、民のため、そして父上のために」