三.花宴
若葉に七色の輝きを放つ雫を落として、雨がやんだ。
柔らかな旋風が大地を駆け抜け、賑やかに囀る鳥たちを昊へと舞い上がらせる。
やがて、鳥たちが飛び去った木々が淡く紅色に染まり、クムサ国は春の盛りを迎えた。
その日、クムサの人々が待ちに待った花宴が王宮で催された。
王宮で花宴が開かれない限り、民も花見ができない。
雨が降り、散りゆく花びらを眺めながら民は王族を恨めしく思ったものだが、雨が止み、王宮で宴が開かれると聞くと、晴れ渡る昊のように王族への恨み言を忘れ、酒と食事を持って桜の木の下で円陣をつくっている。
クムサの民とはそういうものなのだ。
城下から響いてくる嬉々とした笑い声に耳を澄ませながら、ヨンジュは王宮の庭院に造られた舞台に目を向けた。
舞台の上では、桜の木々と、それら木々が囲むように掘られた人工池を横目に、妓生たちが華やかに舞っている。
座した貴族たちの前に女官たちが次から次へと膳を運んでくる。
その色彩の多さは、妓生たちの華やかさにも負けてはいない。
父王も上座に腰を降ろし、膳に箸を付けながら、大臣たちと和やかに言葉を交わしている。
ヘランの席は父王の左隣に用意されていた。
彼のもとには、大臣や貴族たちが入れ替わり立ち替わり酒の酌をしにやってくる。
彼らは先日の祈雨祭を讃える言葉を口にして、ヘランからも酌を受けると、場を次の者に譲り、ちらりとヨンジュに視線をくれた。
それだけで立ち去る者もいたが、今日ばかりは春の訪れを共に喜び分かち合おうと、幾人かはヨンジュの席に寄ってきた。
彼らがやってくると、ヨンジュはわずかに顔を上げて微笑みを浮かべた。
もっともわずか過ぎて、彼らがヨンジュの微笑みに気が付いたかどうかは不明だが、ヨンジュが薄紅の花びらを浮かべた杯を静かに差し出すと、彼らも微笑んで、ヨンジュの杯を満たしてくれた。
穏やかな時が流れる。
ヨンジュは柔らかな夢の中にいる心地だった。
雅楽の音に合わせるかのように舞い散る花びら。
妓生たちが七色の衣を昊高く振り上げると、暖かな風が吹き抜けた。
淡い香りがヨンジュを包む。
ヨンジュは、心の澱を優しく溶かされていくようだった。
(ずっと、この宴が続けばいいのに)
しかし、それは突然に、ヨンジュの思いがけない形で崩された。
静寂が降りてきて、ヨンジュは空気の色が一変したことに気が付いた。
父王を振り返る。父王はじっと一点を見据えていた。
その眉間には深い皺がつくられ、先程まで陽気に杯を傾けていた様子が嘘のように不機嫌を露わにしている。
ヨンジュは恐る恐る父王の視線の先を振り返った。そして、はっと息を呑んだ。
重く濁ったような甘い香りが漂い、重ね着された絹が擦れる音が響く。
鮮やかに青い衣装を纏った女が人々の視線を受けて、紅の唇を横に引いた。
華陽殿の主――ヒギョン。
彼女が公の場に姿を現さなくなってから久しい。
そのめったにない人物の登場に、人々は色めき立ち、またその攻撃的な美しさに目を奪われた。
彼女は、まるでその場の主のように歩みを進める。
優雅に腰をくねらせ、裾を翻す。
成人した息子がいるにも関わらず、衰えることのない美貌を持った彼女に、誰もが支配され、身動きを取ることさえできなかった。
静まり返る中、ヒギョンはテソン王の前まで進み出た。
「王様、まことに華やかな宴です。賑やかな楽の音が妾の宮にまで届き、妾も共に花を楽しみたくなりました」
その声音は、テソン王への敵意を押し殺した穏やかなものだった。
微笑む表情にもヒギョンの悪意は欠片も見えない。
対して、テソン王はあからさまに警戒の色を濃くし、強張った表情でヒギョンを見据えた。
「……そうでしたが、ヒギョン様。貴女のお席もご用意してある。あちらだ。座られよ」
「じつは、王様。今日のこの華やかな宴に相応しい良案があるのです」
ヒギョンは指し示された席など一瞥もせずに、テソン王に向かって話し続けた。
「良案とは、ヨンジュ姫のことです。きっとクムサ王家にとっても、姫にとっても素晴らしいことになるに違いありません。お聞き下さいますか?」
彼女がこうして王に意見することは珍しい。
だが、先王の妃であったヒギョンには許されたことであり、テソンもまた先王の妃の言葉を容易に切り捨てることができない立場にある。
テソンは忌々しげにヒギョンを見やった。
「お聞きしましょう、ヒギョン様」
「ヨンジュ姫を河伯に嫁がせてはいかがですか?」
「何? 河伯に?」
ヒギョンの瞳の奥が、きらりと輝いた。
それは彼女が笑顔の奥に押し隠した悪意の現れに他ならない。
堰を切ったように漏れ始めたそれを、もはや彼女は隠しておくつもりがない様子だ。
紅を塗った唇を横に引き、艶やかに笑みを浮かべる。
「さすれば、河伯はますます我が国のために力を貸してくれることでしょう」
「……」
楽の音など、疾うに止まっている。
皆、息を殺してヒギョンを見つめ、そして、テソン王の顔を仰いだ。ヨンジュも同様だ。
ヒギョンの言葉はまさに青天の霹靂であり、何を言われたのか一瞬その意味を捉えかねた。
(河伯に嫁ぐ……?)
ヨンジュにとって、ヒギョンの口から自分の話が出てきたことさえ驚きだった。
これまで彼女は、まるでヨンジュの存在など無いように振る舞うことが多かった。
その態度からヨンジュは、彼女に好かれているとは、間違っても思えなかったし、むしろ、厭われているのだろうと感じていた。
そして、ヨンジュもヒギョンが恐ろしかった。
厭われていると思えばこそ、ヒギョンに対して、どのように接すればいいのか分からないのだ。
ならばいっそ自分の存在など無視してくれた方が幾分も救われる。
そう思うくらいにヨンジュは彼女を恐怖していた。
しかし、ヒギョンほどヨンジュの存在を意識している者は他に無いだろう。
ヒギョンにとってヨンジュは、無視したくとも、無視できぬ存在なのである。
ヨンジュが誕生したその時から、彼女はヨンジュの言動一つ一つに心を乱され、その行く末と息子ヘランの身を案じ、強く強くヨンジュを恨み、憎んできた。
そして、ついにその憎しみが、桜舞うこの華やかな宴の席で、一気に溢れ、濁流となってヨンジュに襲いかかった。
「ヨンジュを河伯に嫁がせるのです!」
それは生け贄を意味した。
花嫁衣装を着させられ、金、銀、玉と共に河伯が棲むという河に沈められる。
クムサの民ならば、その意味を知らぬ者はいないだろう。
ヨンジュもヒギョンの言葉の意味を察すると、瞳を揺らして父王の顔を仰ぎ見た。
ぎゅっと拳を握り、震える膝に添えた。
(大丈夫。父上が私を河伯の生け贄にするはずがない。そんなこと許すはずがない)
テソン王は怒りに顔を赤らめてヒギョンを睨み付けている。
しかし、王の怒りを買ったというのに、ヒギョンはまったく怯む様子がない。優艶な笑みを浮かべる。
「妾はヨンジュ姫のために申し上げているのです。これは名誉挽回の機会なのです。無力な姫がこのまま王宮に留まり続けていれば、民は王族に不信を抱きましょう。クムサの王族は、クムサの民のために力を尽くしてこそ、クムサの王族だからです。雨を降らせることのできない姫が、民のために何ができましょうか。王女として河伯に嫁せば、これ以上の功績はありません」
よく通る澄んだ声音で、高らかに声を張るヒギョンに、ヨンジュは唇を噛みしめて俯いた。
民のために何ができるか。ヨンジュにとって、これほど胸の痛い問いは無い。
(何もできない。私には何の力もないのだから)
けれど、と、ヨンジュはヒギョンの冷ややかな美貌を見つめた。彼女の言葉が正しいような気がして、涙が溢れそうになる。
(――たしかに、河伯の生け贄になることはできるわ。私にだって)
王女として河伯に嫁げば、人々はクムサの王族が河伯とますます親密になったことを喜び、クムサの地で安心した暮らしを送ることだろう。
そして、ヨンジュは讃えられる。王女として、王族として、これ以上の勤めはない。
父王は哀しむかもしれない。
だが、誇りに思ってくれるはずだ。
国のため、民のため、王族のために河底に沈む自分を、父王は初めて自慢に思うに違いない。
(だけど、怖い)
ヨンジュは震えの止まらない膝を両手で押さえつけた。
寝台に括り付けられ、崖の上から河に放り込まれる自分の姿が脳裏に浮かんだ。
抑えきれず、やはり膝が震えてしまう。
――いや、膝だけではない。全身で震えている。
はっとして、ヨンジュは人々の顔を見渡した。
大臣も貴族たちも皆、ヒギョンの言葉に神妙な顔付きで頷いている。
王族として生まれ、敬われて育ってきたのだから、それに見合うだけの働きをしてみろと言うのだ。
そうした人々の反応に満足げな笑みを称えると、ヒギョンは言葉を続けた。
「神殿の巫女たちに調べさせたところ、過去にもヨンジュ姫同様に力を持たずに生まれてきた王族があったそうです。その王子や姫たちも、国のため民のために、オクチョンに赴いたと聞きました」
河伯が棲むという聖地、オクチョン。クムサ国の北方に位置し、乾燥した大地が広がる場所である。
雨を降らせることのできない王族が過去にも存在して、その者たちが河伯の生け贄になったという事実は、ヨンジュの心を打ちのめした。
先例があるということは、先例がないことよりも現実的で、逃れようにないものとなって襲いかかってくる。
人々の雰囲気はすっかりヒギョンの言葉に賛同し、ヨンジュを生け贄になることを促している。
ヨンジュはテソンを振り返った。
青ざめた顔。唇を震わせ、バケモノを見るかのようにヒギョンを凝視している。
「王様」
ヒギョンは瞳を細め、美声を響かせた。
「この華やかな場で、ヨンジュ姫の嫁入りをご決断なさって下さい。姫とってこれ以上に善き話はないでしょう」
決断を、と迫る眼。
しかし、テソン王は苦しげに眉を歪めただけで、拒絶の言葉も承諾の言葉も口にしなかった。