三十二.雨降る
上から下、左から右へと吹き荒れる風。
その暴力的なまでの力の中心にヨンジュは呆然と、たった独りで佇んでいる。
一刻も早く、ヘランは彼女のもとに駆け付けなければならなかった。
「ヨンジュ!」
近付きながらヘランが呼ぶと、ヨンジュは長い髪を風に靡かせながら振り返った。
――青い。
オクチョンの山頂から覗き込んだ河伯が棲むと言われるあの河の水のように、ヨンジュの髪は青く青く染まっていた。
「ヨンジュ!」
喉が裂けても構わないと思った。
ヘランは力の限り、己の半身とも思える大切な者の名を呼んだ。
止まらなかった。
泉のように次々と湧き、止めどなく溢れ出てくる。
もうたくさんだ、と思うのに、ヨンジュには、それの止め方が分からなかった。
ただ、ただ、自分がしでかした目の前の惨劇に、ヨンジュは恐怖で気が狂いそうだ。
声が聞こえたのは、その時だった。
ヨンジュは胸を突かれたように振り返った。
会いたいと強く強く願っていた相手が、襲い来る風に耐えるようにして、そこにいた。
「ヘラン!」
ヨンジュは顔を歪めた。
ヨンジュが起こした竜巻は、人も建物も見境無く破壊し続けているのだ。
誰よりも護りたいと欲する彼さえも、きっと傷付けてしまう。
「来ては駄目。貴方まで傷付けてしまう!」
逃げて、と叫ぶ。
しかし、そんなヨンジュの言葉に逆らって、ヘランはゆっくりと近付いて来る。
膝を震わせながら、一歩一歩。押し飛ばそうとする風に逆らって。
「どうして来るの! お願い。来ないで! どうすればいいのか。どうやって風を止めればいいのか分からないの!」
「ヨンジュ、大丈夫だ。落ち着け」
「ヘラン!」
落ち着いてなんかいられなかった。
奥歯を噛み締めながら地面を踏み締めるようにして近付いてくるヘランが憎いとさえ思う。
どうして言うことを聞いてくれないのだろうか。ヨンジュは彼を傷付けたくないのに!
だが、不意に大気の流れが変わったのが分かった。
それはヘランが、手を伸ばせば届くほどの距離まで近付いた時だった。
ヨンジュは、はっとしてヘランを見上げる。
傷付けるどころか、ヨンジュの風は彼を迎え入れていた。
まるで彼と自分を包み込む繭のように渦を巻いている。
「ヨンジュ、手を」
言って、ヘランは両手をヨンジュに差し伸べてきた。
促されるまま、ヨンジュがその手に両手を重ねると、彼はヨンジュの手を柔らかく握った。
どうするのだろうかと、ヨンジュが訝しく思っていると、彼はヨンジュの手ごと両手を上に上にと、ゆっくりと掲げた。
とたん、体が持ち上げられるような不思議な感覚がした。
下から上へと大気が移動していく。
地上を荒れ狂っていた蒼い龍がその動きを止めた。
みるみるうちに龍は、幾万の青白い光の欠片となって、ヨンジュとヘランに向かって降り注いでくる。
やがて、二人の体は青白い光に包まれた。
そして、その光りは昊に掲げられた両手に集まる。
だが、それは一瞬のこと。すぐにその両手から解き放たれ、光は昊高く一直線に昇っていった。
(雨の匂い)
ヨンジュは昊を仰いだ。
すると、分厚い雨雲から、ぱらりぱらりと雨が降り出した。
やがて、雨は本降りとなり、すだれのようにクムサの大地に降り注いだ。
乳白色の世界。
少し先も目を凝らさなければ見えないくらいに雨が降り注いでいる。
ヨンジュは、ぐったりと両腕を下ろした。
瓦礫の山となった城跡に、次々と水たまりができていく。
大量に水を吸って、たちまち重くなった礼服が、ずっしりと苦しい。
暴風が止んでくれた安堵感に足の力が抜け、膝から地面に崩れ落ちると、次は自分のしでかした事の大きさに恐れ戦き、震えが止まらなくなった。
――なんて大変なことをしてしまったのだろう。
ヨンジュは耐えきれず、雨音に紛れるように嗚咽を響かせた。
(これが私の力。河伯の力……)
なんて恐ろしいのだろうか。とてもひとりでは支えきれないと思った。
クムサの王族の力は、とてもひとりでは耐えきれないと。
それ故に、かつて河伯は己のもとにクムサの巫女を欲したのかもしれない。
そんなことを考えながら、ヨンジュはすぐ傍らに気配を感じても、項垂れたまま顔を上げることができなかった。
すると、すかさずあの言葉が頭上で漏らされる。
「ヨンジュ、俯くな。顔を上げろ」
「でも、私のせいで」
「お前のせいじゃない」
言うと、ヘランはヨンジュの傍らに膝を着いた。
そこには静かに横たわるヒギョンがいる。
ヨンジュは僅かに顔を上げて、濡れた瞳でヘランを見つめた。小さく謝る。
「ヒギョン様をお助けすることができませんでした」
「……いや、母上は救われたはずだ。穏やかな顔されている」
嘘でも慰めでもなく、ヘランは言った。
真実、ヒギョンの死に顔は、その生前にヘランが見たことがないくらい穏やかなものだった。
まるで憑きものが落ちたようだ。
実際、ヨンジュの力を封じていたヒギョンは、その力に憑かれていたようなものだったかもしれない。
それを解き放つことのできた彼女の心は、安らかなものに違いない。
とは言え、母を亡くして悲しくないわけがなく、その最期を知りたいと願わないはずがなかった。
それでも、ヘランは口を閉ざし、ヨンジュに何も尋ねようとしなかった。
だから、ヨンジュが彼の代わりに泣いた。
肩を小刻みに震わせてヒギョンの上衣を掴むと、むせび泣く。
「ヨンジュ……」
切なげな声がヨンジュの耳に届いた。
手を伸ばせば触れられる距離にいて、もはやヘランにもヨンジュにも迷いはなかった。
雨に濡れたヨンジュの体をヘランは力強く自分の胸の中へと抱き寄せ、ヨンジュもその胸に顔を埋めた。
もう二度と離れたくないと思った。
到底、ひとりでは生きてはいけないと。
――そして、ヨンジュもヘランも、けして互いを独りにはしたくないと思った。
震えの止まらないヨンジュを慰めて、ヘランの手が何度もヨンジュの髪を梳く。
その色は、もはや青くはなく、いつもの黒髪に戻っていた。
「ヨンジュ。クムサの雨は、その雨を降らせた王族の心に従うことを知っているか?」
優しく問われれば、ヨンジュは小さく身動いだ。
「……どういう意味ですか?」
「お前が泣きやめば、この雨も止むということだ」
ヨンジュはヘランの胸から顔を上げて、彼に向かって瞳を瞬いた。
心なしか、雨音が弱まった気がした。