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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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三十一.対峙



 ――あれは、まさか。


 郭壁の大門を攻め破り、城下町を進軍したヘランたちは、そこに住まうクムサの民を避難させながら城壁を目指した。

 ユジンの指揮ではないのか、トガム軍はどこか浮き足だっており、城壁までの道のりを難なく攻め落とすことができた。

 そして、問題はトガム兵が我が物顔で占領している王宮だった。

 だが、もともとクムサ国の城は敵襲を防ぐのに優れた造りをしていない。長すぎた平和のせいだ。

 統制の取れていないトガム兵たちが、城門を守りきることは極めて困難なことだった。

 大きく地響きを立てて城門が破られた。そして、それは、ヘランが突撃命令を下そうと片手を振り上げた時だった。

 城内から悲鳴が上がった。トガム兵のものだ。

 ヘランの側で、ひとりの兵士が昊を指差しながら声を上げた。


「何だ、あれは!」


 兵士が指差す方に視線を向け、他の者たちも声を上げる。

 ヘランも馬上からそれに気付いて、唖然と城の上空を仰いだ。

 蒼い龍が、大蛇のようにとぐろを巻きながら昊へと駆け上っていくではないか。

 龍は、ある程度の高さまで昇ると、再び大地へと体をくねらせるようにして下っていく。

 そして、触れたものすべてを呑み込み、砕き、辺りに散らす。

 その様子はまさに無差別で、ヘランたちが打ち破った城門からトガム国の兵士たちが争うように逃げ出てくる。


「あれは、いったい……」


 上空を仰いだままジヌが馬を並べてきた。

 ヘランは手綱を握り直す。


「あれは、……ヨンジュだ」


 予感だった。

 根拠など何もなく、何故かと問われても説明などできない。

 だが、ヘランには分かる。あれはヨンジュだ。


(まさか、封印が解けたのか?)


 あの蒼い龍がヨンジュの力であるのならば、考えられることは、ひとつだけだった。

 ヒギョンが水晶に封じたヨンジュの力が解放されたのだ。

 いつだったか、ヒギョンはヘランに告げたことがあった。

 ヨンジュの力は、いつかヒギョンの水晶を内側から打ち破るほどの強いものだと。

 そして、ヨンジュの力が水晶の封印を打ち破ったとき、誰もがヨンジュをクムサ王にと望むだろう、と。

 ヘランは昊を仰いだ。

 うねるように昊を暴れる蒼い龍が、自身に触れた殿舎を薙ぎ払っている。

 その姿は、すべてを破壊し尽くそうとしているかのようだ。

 なんという強大な力だろうか。恐ろしい。

 ――だが、ヘランにはその龍が途轍もなく懐かしいもののように感じられた。

 傍に行き、触れたい。

 近付きたくて、胸が騒ぐ。

 どうしようもなく、心が引き寄せられ、いてもたってもいられなくなった。

 ヘランの気持ちが伝わったのか、彼が騎乗する馬が嘶いた。

 今にも駆け出しそうな馬を、手綱を引いて宥めながら、ヘランはジヌを振り返った。

 声を張り上げる。


「お前たちはここにいろ。けして追って来るな!」

「ヘラン様!」


 背後で慌てたようにジヌの制止の声が響いたが、それが耳に届いた時には既にヘランは馬を駆けさせていた。

 旋風のように駆ける馬の足さえもどかしく思うくらいに気が急いていた。

 早く。早く。彼女のもとに行かなければと、そればかりを考える。

 惹かれる。どうしようもなく引き付けられる。

 それは、もともと一つであったものが二つに裂かれ、それらが再び元の姿に戻ろうとしているかのようだ。

 胸が苦しい。締め付けられるように。

 この苦しみから自分を解き放ってくれるのは、ただひとり。――彼女しかいない。

 逃げ出てくるトガム兵を蹴散らすように城門をくぐる。

 そして、そこで息を呑み、ヘランは馬から下りた。

 これ以上、馬で走ることができないくらいに城内は荒れ果てていた。

 神殿も、後宮や内宮の殿舎も崩壊され、大臣たちが政治を行う外宮の殿舎など跡形も無い。

 それらすべて蒼い龍に呑まれてしまったのだ。

 ヘランが背から降りたとたん、馬は暴風に恐れを成して城門の外へと逃げ出していった。

 それほどの凄まじい風だ。

 そして、それは、持ちうるすべてを投げ出して、平伏したくなるような圧倒的な力だ。

 ヒギョンの言うとおり、ヨンジュの力を目の当たりにした民が彼女を女王にと望むのであれば、ヘランも彼女の前で膝を屈しても構わないという気持ちにさせられた。

 元来、人智を越えた河伯の力には、そういった力があるのかもしれない。

 強制的に、暴力的に、地面に頭を押し付けるようにして人を従わせることのできる絶対的な力だ。

 だが、ヘランはその力に屈するわけにはいかなかった。

 たとえ、いつかヨンジュが王位に着く日が来るのだとしても、ヘランがヨンジュの前に膝を折るのは、今ではない。

 ヨンジュが己の力を制御できていないのは、明らかだった。

 彼女の力の暴走を止められるのは、力のことを誰よりも承知している自分しかいない。

 そして今、彼女を、この荒ぶる強大な力から救い出せるのは、自分だけなのだ!

 ヘランは襲いかかってくる激しい暴風から視界を護り、顔の前で両腕を交差させた。

 少しずつ向かい風に抗って足を前へ前へと進めていく。


「ヨンジュ!」


 声は、どんなに張り上げても、風音に呑まれていく。瞼が重い。

 正面から受ける風圧で、思うように眼を開けていられない。

 そんな狭い視野の中、ヘランは影が近付いてくるのが見えた。殺気を感じて、本能的に後ろに飛び退いた。

 がつん、と鈍い音が響いた。

 一瞬前まで立っていた場所に振り下ろされている剣を目にして、ヘランは声を荒げ、目の前の人物の名前を呼んだ。


「ユジン!」


 空を刃物のように飛ぶ木片や石に傷付けられたのだろう。彼の姿は無惨だった。

 その身に着けられた黒光りする鎧が無ければ、命さえ奪われていたかもしれない。

 それでもユジンはヘランに向かって剣を突きつけてくる。


「これがお前たちの力か。……河伯の力なのか」


 忌々しげに低く喉を鳴らすユジンに、ヘランも剣先を向けた。額に汗が浮く。

 呼吸を忘れ、先に目を逸らした方が負けだと言わんばかりに睨み合う。

 そんな彼らを荒れ狂った風は絶えず襲い続け、ますますその威力を強めていった。

 やがて、どちらも立っているのもやっとな状態になり、先に剣を下ろしたのはユジンの方だった。

 だが、それはヘランとの勝負に屈したからではない。

 彼の部下たちが彼の姿を見つけ、這いずるように駆け付けてきたのだ。


「お引き下さい、ユジン様。トガム国に退却するのです!」


 駆け付けてきたトガム兵の中にヘランを執拗に追っていたトガム国の大将軍もいて、彼は野太い声でユジンに向かって声を張った。


「我が国の兵士たちが次々に逃げ出し、城の周りはクムサ兵で囲まれています。急いでください。このままでは逃げることもできなくなります!」

「……致し方ない」


 口惜しげに呟いたユジンの瞳が暗く暗く沈んでいく。

 静かすぎる怒りを含んで、纏う闇が深くなったようにも見える。

 ヘランが闇に呑まれまいと身動ぐと、ユジンの鋭利な眼がヘランをじっと映した。優艶と嗤う。


「此度はわたしの負けのようだ。諦めるしかない。だが、いずれ手に入れる。この地も、あの力も!」


 布音を打ち鳴らして指し示した先にあるのは、蒼き龍。――そして、その中心にいるヨンジュだ。

 ヘランは奥歯を噛み締め、ユジンを睨み付けた。だが、次の瞬間、ふっと不敵な笑みを浮かべる。


「あれはお前には手に余る品物だ。でなければ、お前が一度手にした物を手放し、諦めるわけがない。早々に立ち去れ。そして、二度と、この地に足を踏み入れるな!」


 声を荒げると、ヘランは手にしていた剣をユジンに向かって投げ付けた。

 剣は風に乗って、矢よりも素早くユジンに飛んでいく。まるで急降下する鷹のようだ。

 だが、その剣がユジンを傷付けることはなかった。彼の肩を掠めて、さらに遠くへと飛び去っていった。

 ヘランは踵を返し、暴風の中心へと駆け出した。

 その瞳は、もはやユジンなど映していなかった。


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