三十.水晶の封印
突然、ユジンの名を呼ぶ声が響いた。具足が鳴る音が響き、息を切らした兵士がひとり駆け込んできた。
転げるようにしてユジンの足下に跪く。
「何事だ」
「敵襲です。クムサの残党がこの城に攻めてきます!」
「何だと!」
鬨の声が上がった。
地響きのようなそれは、城を大きく揺らす。
指示を促す部下の声で我に返ったユジンの漆黒の瞳がヨンジュを一瞥する。
ヨンジュは、ごくりと咽を鳴らした。
(ヘランが攻め上ってきた)
戦の声が響く城壁の向こうに彼がいるのだと思うと、胸が騒いだ。会いたい。すぐに。
だが、ユジンが、今にも駆け出して行きそうなヨンジュの腕を強く掴んだ。
ヒギョンから引き離そうとする。
「貴女に出陣の号令を掛けていただきます」
「嫌です。私はヘランと戦いたくありません」
「だが、貴女がクムサの女王だ。貴女の名のもと、反乱軍を討っていただく」
「ヘランは反乱軍の指導者ではありません。彼はクムサの王子です。いいえ! クムサの主。――彼こそがクムサ国です!」
ヨンジュはユジンの手を振り払うと、その胸に両手を着いて、彼の体を力一杯に突き飛ばした。
不意を突かれたユジンが隙を見せている間に、ヨンジュはヒギョンの腕を掴み直す。
逃げなくては。ヘランの元に二人で帰るのだ!
城門に向かって駆ける。正気を取り戻したユジンの低い声が響き、ヨンジュを捕らえようと兵士たちが駆け付けてきた。
彼らを縫うように避けて、ヨンジュは駆けた。
細やかな刺繍が施された紅の闊衣は体に食い込むように重く、足首を隠すほどに長い深紅の裳はヨンジュの動きを妨げる物でしかない。
それでも、ヨンジュはヒギョンの腕を強く掴んで、裳を蹴り飛ばすように両足を必死に動かし続けた。
あと少し。あと少しで城門だ。すぐそこにヘランがいる。城門の向こう側に彼がいる。
しかし、ヨンジュは強く後ろに引かれた。
城門へと駆ける足を残酷な力に止められる。呼吸が止まり、その苦しさに喉が鳴った。
だが、苦しげな声はヨンジュの口からではなく、別のところから漏らされた。
「ああっ」
ヨンジュは弾かれるようにして後ろを振り返った。ヒギョンが苦痛に顔を歪めている。
信じられなかった。ゆっくりと地面に崩れ落ちていく彼女が、ヨンジュには到底信じられなかった。
「ヒギョン様!」
倒れ込む彼女を抱き止めようとして、支えきれず、ヨンジュはヒギョンの下敷きになるように尻餅を着いた。
ヒギョンの体を揺さぶる。
「ヒギョン様、どうして!」
背中を晒して倒れたヒギョンは血で濡れている。
血はその背中のぱっくりと大きく切り裂かれた傷口から溢れ出て、彼女の上衣を赤く赤く染めている。
ヨンジュはヒギョンの頭を己の膝の上に乗せると、半狂乱になって両手で傷口を抑えた。
だが、血は溢れ出て止まらない。
みるみるうちにヒギョンの顔が青白く、そして、土色に変わっていった。
「嫌です、ヒギョン様! もう少しでヘランに会えるのに! ヘランのもとに帰れるのに!」
泣き叫ぶヨンジュに、血に濡れた手が伸ばされる。
ヨンジュがその手を両手で覆うと、ヒギョンの唇が僅かに動いた。
だが、それは声にはならず、彼女は胸に抱えていた水晶を最期の力を振り絞ってヨンジュに押し付けた。
そして、ヨンジュの両手からヒギョンの手が抜け落ちた。
「ヒギョン様!」
ぐったりと動かない体を必死に揺さぶる。
しかし、それは彼女の体を悪戯に傷付けるだけだ。
ヨンジュは涙で濡れた瞳をゆっくりと上げた。傍らに佇む人物を睨む。
――ユジン。
闇のように黒い。
いや、闇よりも黒い。
冷ややかな瞳がヨンジュを見下ろしている。右手に握るのは血で濡れた剣。
ヒギョンを切り裂いた剣だ。
「わたしは一度手にしたものを手放すつもりはないと申し上げたはずです」
ぞっと震えがくるほどに低い声。
だが、ヨンジュは怯むわけにはいかなかった。
けして屈しない。彼だけには、けして。
ヒギョンの骸をその場に横たえさせると、彼女に手渡された水晶を片手に抱きながら、挑むように立ち上がった。
喉が裂けても構わない。そう思うくらいの大声を張り上げた。
「私は貴方の思い通りにはなりません。戦います。愛しい人たちを護るために。これ以上、誰ひとりとして傷付けさせはしない!」
――ばりんっ――
砕かれた。
それは盛大に音を立てて砕かれた。弾ける。溢れる。粉々に散る。
悲鳴のような声が響き渡った。それはトガム兵たちのもの。
ユジンに駆け寄ってくると、切羽詰まった声を張り上げる。
「城門が破られました!」
「持ちこたえられません! お逃げ下さい、ユジン様!」
だが、ユジンは動かなかった。――否、動けなかったのだ。
目の前の少女にキラキラとした欠片が降り注いでいる。
それはヨンジュが片手に抱えていた水晶の欠片だった。
ヨンジュがユジンに向かって戦意を示した時、水晶は青白く輝き、やがて激しく熱く燃えるように光りを膨れ上がらせると、内側から弾け飛んだ。
世界をも切り裂くほどの大きな音を立てて砕け散ったのは、その水晶だったのだ。
朝露のように光り輝く無数の欠片がヨンジュの体に降り注いで、やがてヨンジュの体は青白い光で包み込まれた。
ヨンジュの瞳が青く染まる。
その瞳にユジンの驚愕する顔が映った気がした。
だが、次の瞬間、ヨンジュの中で光が弾けると、辺りを爆風が襲った。
ヨンジュを中心に竜巻のような風が暴れ狂い、人も、柱も、石畳さえも、何もかも破壊しながら吹き飛ばした。
それはユジンの体も例外ではない。
一瞬にして、彼はヨンジュの傍らから遙か遠くへと弾き飛ばされた。