二十九.想いに気づく
(ヘランに会いたい。彼のもとに帰りたい)
手を繋ぎ、共に歩みたい。
彼の瞳に自分を映らせたい。
彼に自分の名前を呼んで貰いたい。
そして、ヨンジュ自身も彼の名前を呼びたかった。
彼が自分に振り返ってくれるまで。何度も。何回も。お互いの力が尽きるまで。
そこでヨンジュは見開いた瞳を細く細め、曇らせた。
ヘランのことが分からない。
父王が生きていた頃、ヨンジュはヘランにとって己の命を脅かす存在だった。
ヘランはヨンジュのことを疎ましく思っていたことだろう。
だが、オクチョンの村にいた時のヘランは、ヨンジュにとても優しかった。
好かれているのではないかと思ってしまうくらいに優しかった。
(なぜ、優しくしてくれたの?)
ヨンジュが唯一の身内だと思ったからだろうか。
そんな単純な理由ならば、それなりに納得できる気がした。
ヘランには父親がいない。
母親も敵に捕らわれ、叔父も死に、あの時のヘランには、従妹のヨンジュしか残されていなかった。
たとえヨンジュが煩わしくとも、大切にするだけの理由がある。
(だけど、それだけなの? 身内だから?)
心のどこかで、それだけが理由なのかと、がっかりする気持ちがあって、ヨンジュを途方もなく淋しくなった。
(もっと他の、しっくりと納得できる答えが欲しい)
ヘランを理解したい。
彼がヨンジュのことを分かろうとしてくれたように、ヨンジュも彼をもっと知りたいと思う。
(きっと、それは今からでも遅くはないはず。ううん、手遅れにしてはいけないのだわ)
手遅れになるか、ならないかは、すべて自分の行動しだいなのだ。
そして、ヨンジュはヘランのことを誰よりも護りたかった。
彼を中心に回っていくクムサ国ごと、彼を包み込んであげたかった。
――護りたい。
己の心に弱く響いた声を、ヨンジュは頭を左右に振って否定する。
(いいえ、護るのよ! 私がヘランを、クムサ国を護るの!)
ヨンジュはヒギョンに大きく歩み寄ると、その手首を掴んだ。
あれほど恐怖していた彼女を、今は少しも恐ろしいとは思えなかった。
「何をするのです、ヨンジュ! 離しなさい!」
「いいえ、離しません! ヒギョン様がここにいらしては、ヘランの妨げになります。城を攻めるにしても人質を取られた状態で戦に望まなければなりません。私が手をお貸しします。ここからお逃げください!」
「余計なお世話です。妾はそのような甘い考えを持つようにヘランを育てておりません。妾のヘランは、何を犠牲にしてでもクムサの王となります。たとえ、妾の屍を踏み付けてでも玉座を望むように育てて参りました。情に囚われることなく己の目的を果たせと。――故に、妾がヘランの足枷になることはありません!」
ヒギョンはヨンジュの手を振り払おうと、体を捩り、両腕を振り回し暴れた。
露草色のヒギョンの上衣の袖が、ヨンジュの頬をしたたかに打つ。
ヨンジュは負けじと大声を張り上げた。
「お黙りなさい、ヒギョン様!」
はっきりとした口調で、あの鬼女のように恐ろしかったヒギョンをヨンジュは叱りつけた。
それから、切なげに眉を寄せた。
――悲しかった。無性に悲しかった。苦しかった。
ヘランには情がないのだと思っていたのは、他でもない、ヨンジュだ。
思い返せば、ヨンジュはずっと、ヘランのことを心のどこかでそう思っていた。
ヘランは、必要な物と不要な物を仕分ける時のように、人間を相手でも表情を変えることなく、必要な人間と不要な人間を仕分けるに違いない。
血も涙もない、と。
(だけど、違う)
違うと分かった今、彼が彼の実母からそのように思われていることが悲しかった。
彼の力は天から無条件に与えられたものではなく、彼の懸命な努力の上にあったものだということを、ヨンジュは知っている。
王子であるために必要な努力をしている彼は、王子という立場上、表に出せない感情を押し殺しているのかもしれない。
そうであるのならば、自分はなんてひどいことをヘランに対して思っていたのだろう。
ヨンジュは自分に向かって罵声を浴びせ続けるヒギョンに、大きく頭を左右に振ってみせる。
「ヒギョン様、ヘランはけして非情な人間ではありません。自分の身代わりに誰かが亡くなれば、心を痛めることができる人です。涙を見せないようにと育てられ、そのようにできるようになったとしても、その心まではヒギョン様の思うようにはならなかったのです。なぜなら、ヒギョン様が処刑されると聞いて、ヘランは悩み苦しみ、この王都まで馬を走らせたのですから!」
そうだ。思い返せば、オクチョンでヘランがヨンジュに意見を求める時は、いつもそういう時だった。
人としての感情を優先すべきか、君主としての政を行っていくべきか、迷った時にヘランはヨンジュに意見を求めてきた。
ヨンジュが意見しても、それをヘランが採用してくれたことはなかったが、ヨンジュのどんな言葉でも彼は楽しげに耳を傾けてくれていた。
おそらく、ヨンジュが平然と口にしてきたそれらの言葉は、ヘランには口にしたくても、けして口にできない言葉だったからだ。
そうだとしたら、ヒギョンが処刑されるとの話をヨンジュに聞かせたのは、彼はヨンジュに言って貰いたかったからだ。
自分の代わりに、ヒギョンを救いたい、と。
(ヒギョン様をお救いしなければ)
――おそらくそれがヘランにできなくて、自分にはできることだと思うから。
ヨンジュはヒギョンの腕を握る手に力を込めた。
何があっても、けして離さぬように。




