二.華陽殿の主
後宮の端に華陽殿がある。
王の寝室から最も遠いその殿舎は、贅を尽くした造りをしている。
朱塗りの柱がほとんどの王宮において、漆塗りの柱は華陽殿のみに使用されており、その黒光りする柱には琥珀や鼈甲による螺鈿細工が施されていた。
この絢爛な殿舎の主は、先王の妃ヒギョンである。
彼女の暮らしぶりは、殿舎の華やかさに比べて、一見すると慎ましいものだ。 日長、水晶ばかりを見つめて過ごしている。
この日も、彼女は翡翠の装飾を施された椅子に腰掛け、膝に抱いた大きな球体をじっと見つめていた。
側に侍女の姿はない。燭台は一つのみ。
薄暗い部屋の中、じりじりと、炎の囁きだけが聞こえる。
祭事用の衣装から普段着に着替えたヘランが彼女の部屋を訪れたのは、雨が降り始めた数刻後のことだった。
音もなく部屋に入ってきたヘランに、ヒギョンはゆっくりと振り返った。
「見事です」
ヒギョンに勧められて椅子に腰を降ろすと、ヘランはヒギョンの膝の上の水晶に気が付いた。
眉を寄せる。
その水晶のおかげで自分は命を長らえているのだと言い聞かされていても、ヘランにとってそれは嫌悪の対象だった。
触れることはもちろん、視界に入ることさえ不快である。
それでもそれを凝視していると、ヒギョンが察して席を立った。
大事そうに水晶を抱くと、遠く離れた小卓の上にそれを置き、ヘランの目に触れないように紫草で染められた絹で覆った。
ヒギョンは振り向いて、ヘランに向かい薄く笑みを浮かべた。
「妾が生きている限り、ヨンジュが雨を降らせることはありません。ヨンジュが無力であれば、テソン王はお前に王位を譲るしか他ない。――いいえ、譲るのではありません。返すのです。王位は元よりお前のもの。真のクムサ王は、お前なのですよ!」
ヒギョンは声を荒げ、顔を上気させて方卓を叩いた。
このように彼女が怒気を露わにして、ヘランの王位を臨むのには理由がある。
クムサ国では、王は神として崇められているからだ。
そもそも、クムサの王族は河伯の子孫である。
河伯は河の神であり、風雨を操った。
そのため、クムサの王族は雨を降らせる力を持つが、その中で最も強大な力を持つ者が王位を継承してきた。
王族が天に祈りを捧げない限り雨の降らないのがクムサの地である。
故に、大地を潤すことが王族の一番の努めであり、その力があるからこそ民は王族を、さらには王を神として敬うのである。
ところが、現王テソンは、愛娘であるヨンジュに王位を継がせようとしている。
しかし、ヨンジュには雨を降らせる力がない。
幼い頃から幾度も天に祈っているが、その度に失敗を繰り返し続けている。
対して、ヘランはテソン王の兄である先王の王子として生まれた。
五歳にして雨を降らせたヘランは、初代クムサ王の再来と持てはやされ育ち、誰もが彼の王位継承を信じて疑わなかった。
そんな中、ヘランの父王は崩御してしまう。
突如として空となった玉座にクムサの民は騒然となった。
五歳の王太子に玉座は大きすぎると、ヘランの即位に異論が出たのである。
結果、その成人後に王位を譲るとの約定の下、テソンが玉座に着いた。
この約定が交わされたのは、ヨンジュが誕生する以前のことである。
ところが、ヘランが六歳の時、妃の命と引き替えにヨンジュが誕生すると、テソン王はヨンジュを溺愛し、王位を愛娘に継がせたいと願うようになり、ついにはヘランから王太子の座を奪い、ヨンジュに与えてしまった。
それ以来、ヘランは怒りに任せ方卓を叩く母親の姿を幾度も見るようになったのである。
そして、その度に、ヘランは母親に叱られているような自責の念に駆られた。
父王が亡くなった時、もう少し自分に力があったならば、と。
だが、それも以前のこと。
今はそんな感情さえ起きない。
母親が怒気を露わにすればするほど、ヘランは自分の心が冷え切っていくのを感じた。
母親を一瞥すると、ヘランは席を立ち、小卓から水差しを手に取った。
花の彫刻が施された青銅の水差しをゆっくりと傾けると、水が涼しげな音を響かせて金属の器に満たされていった。
一呼吸を置く。そして、ヘランは、いつもそうするように柔らかな笑顔をヒギョンに見せるために振り返った。
静かに器を差し出す。
「まったく。そなたもそなたです。悔しくはないのですか!」
「母上、お飲みください。オクチョンから汲んできた水です」
再度、促すと、ヒギョンは渋々、器に唇を押し当てた。
それを見届けながら、ヘランは笑顔で続けた。
「ご安心下さい。わたしにも妙案があります」
「妙案ですって?」
ヘランは母親を安心させるためだけに頷いた。
だが、実際には妙案などといったものはヘランには必要がない。ヘランにとって王位とは、生き延びる術でしかないからである。
どうやら自分は母ほど執着心というものが強くないらしい。
貰えるはずだったものが貰えなくなったくらいでは、母ほどに憤りを感じないのだ。
それは、もともと自分の手の中になかったものだからかもしれない。
王位とて、父王が自分に譲るはずだったものかもしれないが、まだ自分の手の中にはなかった。
なかったものを奪われても、悔しいという感情は起こりにくいのだ。
まして、母のように口惜しさと怒気を十数年間も持続させるなど、ヘランにはできなかった。
――だが、それが自分の生死に関わることとなれば、話は別である。
ヨンジュが皇太子に任命された後、ヘランの存在はテソン王にとって、邪魔者以外の何者でもなくなった。
ヘランが優秀な王子であればあるほど、テソン王のその想いは強く、いっそのことヘランを亡き者にしてしまおうと考えているのは明らかだった。
かといって、テソン王は容易にヘランを排除することができない。
なぜなら、愛娘には雨を降らせる力がないからである。
現在、雨を降らせることのできる王族は、テソン王とヘランだけだ。
ヘランを亡き者にした後、テソン王に何かあっては、クムサの地から水が消えることになる。
それは国の滅亡を意味した。
故に、ヨンジュが王族としての力を開花させるまで、テソン王はヘランに手出しができないのである。
しかし、ヘランは知っている。ヨンジュが力を開花させることなど有り得ないということを。
なぜなら、ヨンジュは無力などではない。
彼女は父王から河伯の能力をしっかりと受け継いでいた。
ところが、彼女の能力は小さな小さな蕾のうちにヒギョンによって摘み取られてしまったのである。
そう、ヨンジュの能力はヒギョンに封印されている。
――彼女の持つ水晶の強大な力によって。
万が一、ヨンジュの封印が解けてしまえば、ヒギョンはもちろんのこと、ヘランもその場で取り押さえられ、命を奪われることは間違いない。
だが、それを大人しく受け入れ死ぬなんてことはできない。そうなるくらいならば、全力で玉座を手に入れる道を選ぶ。
――それが自分に残されたただ1つの生きる道であるならば。
ふと、昊から降り注ぐ雨で、ずぶ濡れになったヨンジュの姿が脳裏に浮かんだ。
ヘランが雨を降らせ、皆からの賞賛を受けていた時、ヨンジュだけが俯き、小柄な体をますます小さくして肩を震わせていた。
この気持ちは罪悪感だろうか。
ヨンジュが泣き出しそうな表情をする度に、ヘランは胸を締め付けられた。
きっと、あの時も雨に打たれながら泣いていたに違いない。
(――いけない。ヨンジュに情けをかけては)
ヘランはヒギョンに気付かれないように小さく頭を左右に振った。
自分の命はヨンジュに握られているに等しい。
だから、母のようにもっとヨンジュに冷酷になるべきなのだろう。
もっと憎んで。
もっと徹底的に。
だが、なぜだろう。ヨンジュのことが、もどかしくて仕方がない。
ヨンジュは、ちっぽけな少女だ。
口数は少なく、いつも陰気に俯いている。
華やかな衣装を着れば、衣装だけが浮いて見え、誰もが口を濁すほど似合わなかった。
けれど、幼い頃からそうだったわけではない。
数年前までのヨンジュは、ころころとよく笑い、誰にでも分け隔て無く接することのできる無邪気な少女だった。
人懐っこい彼女は、自分がその命を握っていることも知らず、ヘランにも無垢な笑顔を向けてきた。
王に溺愛され、望むものはすべて与えられてきた彼女は、その時、ヘランが自分のせいで、どのような立場にあるのか、ちらりとも考えたことはなかっただろう。
自分に向けられる汚れのないヨンジュの笑顔を見る度に、ヘランは彼女を憎たらしく思ったものだ。
王に守られ、何も知らずに育った彼女を切り刻んでやりたいと、幼いヨンジュを前にしてヘランは幾度も暴力的な想いに駆られた。
だが、同時に、彼女の笑顔ほど美しいものはないと思っていた。
まるで大雨が去ったあとに天に掛かる七色の橋のようにヨンジュの笑顔はキラキラと輝いて、ヘランの澱んだ心を晴れやかにしてくれた。
――そう。怒りを露わにしたヒギョンによって自責の念に囚われたヘランを慰めてくれたのは、他の何でもない、ヨンジュの無垢な笑顔だった。
――あのね。遊んで欲しいの!
きっと偶然なのだろうが、ヘランが華陽殿から出てくると、決まってヨンジュが、断れることなど予想だにしていない満面の笑顔で駆け寄って来たものだ。
そして、暗い瞳をしたヘランの袖を引っ張り、半ば強引に後苑まで連れてくると、ヨンジュは咲き乱れる花々を両腕いっぱいに摘み取りながら、ひとりで、はしゃいでいた。
ヘランがヨンジュと一緒になって花を摘むことはなかったが、そうしてヨンジュと過ごしているうちに、ヘランは彼女につられて笑みを浮かべるようになっていた。
ヨンジュがあまりにも楽しげに笑うものだから、自分まで楽しいような心地になったのだ。
(あの綺麗な笑顔に救われていた)
――だが、もう、ヨンジュは笑わない。
ヨンジュが笑わなくなったのは、自分の無力を悟ってしまった時からだ。
雨を降らせることができない。ただそれだけのことで、ヨンジュは煌めく虹のようであった笑顔を失ってしまった。
ヘランの瞳が紫草で染められた絹を映し出す。
そして、絹に覆われた水晶の存在を感じ取り、きつく拳を握った。
(――駄目だ)
ヘランは奥歯を噛み締める。
一瞬、封印を解いてやりたいと思ってしまった自分がいた。
あの笑顔が見たくて。
だが、封印を解くことはできない。ヘラン自身が生き延びるために。
「ともあれ――」
金属の器が軽い音を立てて方卓に置かれた。
その音にヘランは、はっとして母親に視線を転じた。
どうやら、だいぶ落ち着きを取り戻したようだ。
「もはやヨンジュを玉座に据えようと言う者はいないでしょう。テソンに媚びるためにそのような戯言を口にしていた者も、己の愚かさを思い知ったことでしょう。されど、安心してはいけません。ヨンジュはもう十五歳。無力な王女をいつまでも王宮に置いておくことはできないはずです。近々、テソン王が何か仕掛けてくるに違いありません。その前にこちらから手を打つのです」




