二十八.力を欲す
――俯くな。顔を上げろ。
ヘランの声が聞えた気がした。ずっと嫌いだった言葉だ。
ヘランはヨンジュのことを何も知らないくせに、彼自身は雨を降らせることができるから、ヨンジュに対して上から物を言うのだ。
そう思い、ヨンジュを卑屈にさせた言葉だった。
だけど、今なら分かる。ヘランはずっとヨンジュに言っていたのだ。
――雨なら俺が降らせる。お前にはお前のできることがある。だから、俯くな。顔を上げろ。
ヘランはその口では何も語らない。けれど、オクチョンでの日々がそのようにヨンジュを悟らせる。
オクチョンで関わった民の顔が、次々と思い起こされた。
ソナ、ギナム、鍛冶場の親方、炊事場の女たち。ヨンジュは彼らと語らい、彼らと笑い合った。
彼らの中にいることが、クムサの王族の勤めだとヘランが教えてくれたからだ。
そして、それは時間の取れないヘランがやりたくてもできないことなのだ、と。
ヘランの代わりに王族の勤めを果たし、彼らの中に馴染むことのできたヨンジュは、けして無力ではなかった。
誰ひとりとして、ヨンジュを侮り、蔑んだ瞳で見る者はいなかった。
人々は皆、ヨンジュという個人を認め、暖かく笑いかけてくれた。
だからヨンジュも自然な笑みを返すことができたのだ。
自分は無力ではない。もし、本当にそうだとしたら、きっと――。
(私を無力にしてしまったのは、私自身なのだわ!)
ヨンジュは爪が食い込み、痛いと思うくらいに強く拳を握り締めた。
できないのだということばかりが見えていた。
そのせいで、できることさえ、できないものだと思い、やろうとしなかった。
祈雨祭で失敗する度に、父王はヨンジュの幼さを理由にしていたが、それに甘え続け、幼いままでいたのは、ヨンジュ自身だ。
どうして自分を成長させようと考えなかったのだろう。
どうして自分ができることを探そうとしなかったのだろう!
オクチョンでヘランに、クムサ国や隣国の話を聞くまで、ヨンジュはそれらのことを何一つ知らなかった。
自分は途轍もない無知だった。
どうして今まで無知な自分で甘んじていたのだろうか。
無力な自分を自覚していたのなら、せめて熱心に学ぶべきだったのだ。
――つまり、自分には自覚が足りなかったのだ。王族としての自覚が。
ヘランはずっと教えてくれていた。
オクチョンで彼がヨンジュを伴い、訓練所や鍛冶場を訪れたのは何のためだろうか。
ヨンジュに人の役割と立場を教えるためだ。
ヨンジュが兵士のように剣を扱える必要はない。鍛冶職人のように鉄を打てる必要もない。
だが、その代わり、ヨンジュは王族として、彼らを護らなければならない。
護りたいと思う。
彼らのことを。クムサの民すべてを、護りたいと強く欲する。
しかし、何かを護り抜くためには、力が必要だ。
力。――それはけして雨を降らせる力ではない。
護り抜くのだという強い意志と、けして敵に屈しない王者の心だ。
俯くな。顔を上げろ!
ヨンジュは、ぐっと奥歯を噛み締め、真っ直ぐと顔を上げた。
(大きな力が欲しい。小さな力では、また犠牲を出して終わるだけ。だから、大きな力が欲しい)
きっと、その力は自分の中にあるはずだ。
なぜなら、自分は無力などではないのだから!
その時だった。
ヨンジュの胸の中で、ばちん、と何かが弾けた。
そして、抑えきれない何かが、どくどくと堰を切ったかのように溢れ出てくる。
悲鳴が上がった。
恐怖に支配された女の悲鳴だ。
ヨンジュは弾けるようにヒギョンに振り返った。
だが、彼女はトガム兵に無体な扱いを受けたわけではなく、神殿を背にしてひとり立ち尽くしている。
彼女は両腕に大人の頭ほどある水晶を抱えている。
水を固めたかのように澄んだ、その球体を覆っていた紫色の絹が、はらりと地面に流れ落ちた。
「亀裂が! ああっ! 妾の水晶に亀裂が!」
狂乱したかのように喚くヒギョンの左右にトガム兵が駆け寄る。
再び彼女を拘束しようと、熊のように太い腕を彼女に伸ばす。
ヨンジュはひどい胸苦しさを覚えた。
ヒギョンを助けねばと思うのだが、彼女が抱える水晶から目が離せない。
(あれは――何?)
恐ろしい。
だけど、なぜか、懐かしい。
胸の中を渦めく何かが、水晶に強く強く引き寄せられている。
いや、違う。引き寄せられているというよりも、吸い寄せられているのだ。
ヨンジュの中で生まれた何かは水晶に吸い寄せられ、水晶を内側から大きく大きく膨らませる。
今にも水晶は粉々に弾け飛びそうだ。
ヒギョンの悲痛な声が響く。
「ヨンジュ!」
我に返ってヨンジュは、怯え、そして、怒り狂うヒギョンの顔を見つめた。
「お前に玉座を渡してなるものか!」
喉を切り裂かれたようなその叫びに、何が何でも応えなければならないと思った。
ヨンジュは制止するユジンの手を払いのけ、ヒギョンに向かって駆け寄った。
その拍子に、黄金の冠がヨンジュの頭から外れて、カランと高い音を立てて地面に落ち、転がった。
ヨンジュはヒギョンを真っ直ぐに見据えた。
「私は玉座などいりません! この、まやかしの国の女王にはならない。ユジン、貴方の妃にも!」
――私は。
ヨンジュは声を張り上げた。
「私は、ヘランのもとに帰ります! ヒギョン様と共にヘランのもとに、クムサ国に帰ります!」
ヒギョンの罵声が、ぴたりと止んだ。
その表情はひどく歪み、今にも泣き出しそうだと、ヨンジュは思った。
けれど、それは一瞬。すぐにヒギョンは細く整った眉を釣り上げた。
「ヨンジュ、お前……まさかヘランのことを」
わなわなと体を震わせるヒギョン。
彼女の言わんとした言葉を察してヨンジュは瞳を見開いた。ああ、そうなのか、と納得する。