二十七.即位式
物事は、ヨンジュを置き去りにして、しかしヨンジュを中心に動き始めた。それも急激に。
さらに一ヶ月の月日が過ぎ、ヨンジュの即位式の準備が整った。
ユジンはヨンジュを己の婚約者として傍らに置き、ヨンジュの即位式と反乱軍討伐の指示を下していった。
しかし、それらはヨンジュを主体として行われるべきことであるのに、ユジンはヨンジュが口を挟むことを許されなかった。
即位式の日取りが決められ、衣装を用意されると、それを身につける他ない。
このまま自分はクムサの女王となり、本当にヘランと戦うことになるのだろうか。
こうなることをヘランは予期していたはずだ。そして、ヨンジュに警告してくれた。
それを守らなかったから今こうして自分は礼服に身を包んでいるのだ。
すべては自分の行いのせいだ。後悔などできる道理がなかった。
紅の闊衣を身に纏ったヨンジュが、袖に刺繍された銀の龍がよく見えるように手を腹の前で重ねると、髪を結い上げた頭の上に黄金の冠を被せられた。
厳かな雰囲気の中、優雅な仕草でそれをヨンジュに被せた人物は、ユジンである。
ヨンジュがトガム国の後ろ盾で女王に登ったということを明らかにするために、外殿で、皆が見守る中、ユジンがヨンジュに王冠を被せたのだ。
そうした儀式も、あとはヨンジュが神殿で自身の即位を神に報告すれば終わる。
ヨンジュはユジンに手を引かれて、王宮から神殿への道のりをゆっくりと歩いた。
見守る眼はすべてトガム兵のもの。
ヨンジュの後ろに付き従う女官さえも、ユジンがトガム国から連れてきた女たちだ。
彼らは自分たちが滅ぼした国の姫が女王になる姿を、感情のない顔で見つめている。
神殿の入口にやってくると、ヨンジュは見知った顔が並んでいるのに気が付いた。
さすがのユジンも神に仕える巫女には手が出せなかったのだろう。
加えて、トガム国の巫女たちをクムサ国まで連れてくることが適わなかったのかもしれない。
元来、巫女とはひとつの神殿に生涯を捧げるものだからだ。
とは言え、巫女たちも敗戦国の民の一員には違いない。
いつ、どのような不興を買い、不条理な理由をつけられ殺されるのか分からない立場にある。
そんな不安と恐怖を含んだ巫女たちの瞳に迎えられて、ヨンジュは神殿の中に入ろう足を進めた。
その時だ。
神殿の大きな白塗りの扉は内側から開かれた。何事かと誰もが息を呑み、突如として現れた女を凝視した。
扉の奥から現れた女は、険しい表情を浮かべ、藍色の裳を蹴り上げるようにして、真っ直ぐにヨンジュに向かってくる。
ヨンジュは呼吸が止まる心地がした。体が動かない。
「ヨンジュ! お前はなぜ、まだ生きているのですかっ! トガム国に利用されるしか道のないお前など、河底に沈んでしまえば良かったのです。死ねる機会は幾度もあったはずです。なぜ死ななかったのですか!」
「ヒギョン様……」
女――処刑を免れたヒギョンは、神殿で幽閉の身となっていた。
ユジンから伝え聞いた話によると、この一ヶ月、ヒギョンは紫草で染めた絹に包まれた水晶を眺めるだけの日々を送っていたようだ。
その彼女がなぜ今、片手に大きな水晶を抱え、ヨンジュの目の前に立ち塞がっているのだろう。
ヨンジュに戦慄が走る。
幼い頃からそうだった。ヒギョンを前にすると、ヨンジュはどうしようもない恐怖に襲われる。
常に彼女はヨンジュなど存在していないかのように振る舞った。
だが、ひとたびその瞳にヨンジュを捕らえれば、今度はヨンジュの存在を無力で無価値なものにしようと、あらゆる刃を投げ付ける。
そして、無力で無価値な王女など、存在する意義など無いのだと、ヨンジュを責め立てるのだ。
――お前など生きている価値もない! 死んでしまえ!
この時もヨンジュはヒギョンに投げ付けられた刃に耐えきれず俯き、打ちのめされながら全身を震わせた。
「お前が女王になるなど妾は認めない! お前にはその器も、力も備わっていないのです。無力なお前など、せいぜい河伯に嫁ぐくらいしかできることはなかったはずです。なぜオクチョンで死ななかったのですか! 怖じ気づいたのですか! 死を恐れて飛び込めなかったというのですか! なんて愚かな。なんて役立たずな。なんのために王女として生まれてきたのか、その価値も見出せない無能者!」
俯いたまま、顔を青ざめさせるヨンジュの傍らでユジンの声が高らかと響いた。
彼の命令で、ヒギョンを拘束しようとトガム兵が動く。はっとしてヨンジュは制止の声を上げた。
「待ってください! ヒギョン様に手を出さないでください」
「なりません、あの者は貴女を愚弄しました。クムサの女王である貴女を侮辱したのです。許しておくことはできません。首を刎ね、ヘランに送り付けてやりましょう」
もはやヨンジュを手に入れたユジンにとって、ヒギョンの使い道は、ヘランを激怒させることくらいしかないのだ。
ヒギョンの首を送られたヘランが逆上し、無謀な戦いを挑んでくれば、それはユジンの望むところなのだろう。
だけど――。
「駄目です!」
ヨンジュは頭を大きく横に振った。
ホウォル国とサファ国からの書状が届き、その協力を得るまで、ヘランはユジンに戦いを仕掛けてはいけない。
勝つために準備してきたことが、すべて無に消えてしまう。そんなこと、絶対に駄目だ!
ふとヨンジュは不思議な気持ちに気が付いた。ヘランに負けて欲しくないと思っている自分がいる。
それは、クムサの女王になろうとしている今の自分の姿と相反する想いなのではないだろうか。
(私、いったい、何をしているの? 何がしたいの?)
ヨンジュは顔を上げて、辺りを見渡した。
そこは生まれ育ったクムサの城で、祈雨祭のたびに足を運んだ神殿の前庭だ。
馴染んだ場所であるはずなのに、なぜだろうか、見知らぬ場所であるように思える。
(ここはどこ? 私はなぜ、ここにいるの? ――帰りたい)
昊を仰ぐ。
青く澄んだ昊は、雲一つない。
当然のことながら、雨の気配は感じられず、あの甘く、懐かしい水の匂いも感じられない。
言い様にない孤独感がヨンジュを襲った。身包みを剥ぎ取られたような頼り無い心地になる。
(帰りたい。あそこに帰りたい)
騒ぐ胸を押さえつけるように、ヨンジュは己の胸元を握り締めた。
帰りたい、帰りたい、と望めば望むほど、ヘランのことが思い起こされた。
彼から馨る水の匂いは、雨が降り始める直前の匂い。
甘く優しげで、暖かい。
そのヘランが纏う水の匂いに、ヨンジュはオクチョンの山頂でクムサ国の未来を見出し、水を欲するように、人々は皆、彼を求めるだろうことを予感した。
そして、きっと彼のある場所が国になる、と。
その通り、オクチョンではヘランを中心にして軍の編成が成されている。
皆、ヘランを新たな王だと認めて、彼を中心とした新たな国をつくろうとしているのだ。
国。――それこそがクムサ国だ。
トガム軍に占拠されている城はもはやクムサの王城とは言えない。
トガム兵が我が物顔で歩いている都もクムサの王都ではない。
今はヘランがいるその場所こそがクムサの城であり、都なのだ。
(ヘランこそがクムサ国)
父王の顔がヨンジュの脳裏に浮かぶ。
父王はヘランに外套を渡し、彼が生き延びることを願ったという。
ならば、父王は河伯の力を生かそうとしたということだ。
河伯の力を持つヘランが生きている限り、クムサ国がクムサ国であり続けることが、父王の望みではないだろうか。
そうだとしたら、いったい自分は何をしているのだろうか!
ユジンの言葉に惑わされていたつもりはなかった。
けれど、彼や、彼がつくる流れに身を任せていたのは確かだ。
駄目だ。悲劇を受け入れているだけではいけない。戦わなければ。
さもなければ、自分は本当に、ヒギョンの言うとおりに無力で、無能で、無価値な存在となってしまう。