二十六.雷雨
腕を上げるように請われて、ヨンジュは両腕を軽く持ち上げた。
すかさず、ユジンがトガム国から連れてきた女官が、ヨンジュの腕に上衣の袖を通した。
滑らかな肌触りな衣は、それが上質な絹であることを物語っている。
ヨンジュは、絹の光沢の美しさに見入りながら、小さく息をついた。
――クムサ国よりもトガム国の方が、技術力がある。
衣ひとつ取っても、トガム国の方が優れていることが分かるのだ。
おそらく、ユジンの言う通り、優れた治水技術を持っているのだろう。
――王族の力を必要とせずに雨の降る地。
多くの国がそうであるように、クムサの地もそのような土地に、本当になれるのだろうか。ヨンジュには想像が付かなかった。
ヨンジュの支度を終えた女官が部屋を去ると、入れ替わるようにユジンが入室を求めてきた。
許可を出すと、すぐに戸が開かれ、ユジンが部屋に入ってくる。
彼は、トガム国から持ち運ばれた絹を纏ったヨンジュを認めると、大きく歩み寄ってきた。
「トガム国の将軍たちが、クムサの女王にご挨拶申し上げたいと申しています。受けて下さいますか?」
「私はまだ女王になったわけでは……」
「直にそうなります。さあ、王太女。臣下たちが貴女を待っています」
王太女とは、王位継承権を有する王女のことだ。
皇位継承権を持った皇子が皇太子であれば、王位継承権を持った王子は王太子となる。
そして、王太女は王太子と同等の地位にある。
ユジンはヨンジュを王太女と呼びながら、ヨンジュに向かって手を差し出してくる。
ヨンジュはその手を見下ろして、表情を強張らせた。即座にその手を取ることはできなかった。
ヨンジュが城に戻ってから駆け抜けていくように数日が過ぎている。
――にも関わらず、ヨンジュの心は時が止まってしまったかのように、覇気としない。
どうすればいいのか分からない。
どうするのが一番良いことなのか。
自分はどうするべきなのか、分からない。――それが、今のヨンジュの正直な気持ちだ。
ならば、このままユジンに流されてしまうのが、ヨンジュにとって心安いことなのではないだろうか。
ユジンの言葉を信じて、彼の手を取ってしまえばいい。
そうすれば、ヨンジュは父王に護られていた頃のように、何の憂いもなく王宮で過ごすことができるだろう。
政など知らない。民の暮らしがどのようになっているのかなんて、ヨンジュには関係がない。
ただヨンジュは、絹を着て、甘い菓子を口にして、庭院の花々に心を奪われていればいいのだ。
――そんな以前と変わらない王宮の暮らしが、ユジンの手を取りさえすれば、ヨンジュに与えられるはず。
ところが、なぜだろう。ユジンの手を取ることに躊躇する自分がいる。
(本当に、これでいいのかしら?)
ユジンを見れば、ヘランのことが思い起こされる。彼は今、どうしているのだろうか。
みすみすユジンの手に落ちてしまったヨンジュに、呆れているだろうか。
ついに、無知で無力な従妹に愛想が尽きたかもしれない。
(いいえ、違うわ。そもそもヘランは私のことを憎んでいるのよ)
憎んでいる相手に愛想など尽きようはずがない。
自分を脅かすかもしれない面倒な存在が敵の手に渡ってしまったことを苦々しく思っていることだろう。
こうなるのだと分かっていたのなら、あの時――オクチョン山で崖から突き落としておくべきだった、と。
ヨンジュが裳を両手で握りしめると、ユジンは差し出していた手を引いた。
先に立って、回廊を歩き出す。ヨンジュも彼に従って外殿へと向かった。
外殿では既に多く人々であふれていた。
その多くが、トガム国の武官たちだったが、ユジンがトガム国から連れてきた文官も幾人かいる。
そして、ユジンに命乞いをし、命を長らえさせたクムサ国の厚顔な貴族の姿も見える。
ヨンジュは彼らを一瞥して、玉座の前まで進んだ。
だが、玉座に座ることはせず、その手前で踵を返し、人々に振り返る。
クムサ国の貴族たちが顔を俯かせたのが見えた。
ユジンがヨンジュの傍らに立ち、ヨンジュの手を掴み、胸元の位置まで掲げる。
「クムサ国の王太女、ヨンジュ様である!」
ユジンの声が外殿の響き渡り、高い天井に幾度か反響する。
「王太女は、近々、即位され、トガム国王子ユジンの妃となる!」
歓声が上がった。外殿に立ち並んだ臣下たちは、ははぁ、と承知の声を上げると、深く頭を下げる。
そして、口々に大声を張り上げた。
「トガム国、万歳! ユジン王子、万歳!」
「トガム国、万歳! 王太女、万歳!」
「トガム国、万歳! クムサ国、万歳!」
外殿に入れない兵士たちも武器を地面に打ち鳴らして、声を響かせる。
それは、まるで雷鳴のようだ。
――雷鳴?
ヨンジュは、はっとして天井を仰いだ。五彩の雲と龍の天井絵。
しかし、ヨンジュが本当に確かめたかったものは、それら天井絵ではない。昊だ。
(雨の匂い……)
そう思った時だった。
昊を切り裂くような雷鳴がクムサ国を襲う。とたん、辺りは暗くなった。
まだ正午前だというのに、まるで夜のような暗さだ。
「何事だ!」
「雨です! 雨が降っています!」
外殿の外の兵士たちが騒ぎ出す。彼らは、彼らに降り注ぐ雨に唖然と昊を仰いだ。
雨は激しく音を打ち鳴らしながら、まるで矢のように兵士たちに降り注いでいる。
「なぜ雨が?」
「クムサ国ではクムサの王族しか雨を降らせられんと聞いたが」
「自然に降った雨なのか」
「まさか!」
「王族は、王太女しか生き延びていないはずだ」
ヨンジュは胸の血が、さっと引いていくのを感じた。手の先がひどく冷たくなる。
とてつもなく大きな失敗をしてしまったような気がした。
雨は間違いなくヘランが降らせたものだろう。
雨を降らせてくれと彼に告げたのは、他でもない、ヨンジュなのだから。
――だけど、なぜ、こんな雨を?
ヘランが降らせる雨が、未だかつてこんなにも荒れていたことがあっただろうか。
いや、無かった。少なくとも、雷を鳴らせたことは無かったはずだ。
まるで雷は、ヨンジュを責めるように鳴り響いている。
ヨンジュがユジンの手を借りて、クムサの女王になろうとしているからだ。
不意に、視界に影が差した。ユジンがヨンジュに向かって屈み込み、耳元で静かに声を響かせる。
「王太女、兵士の多くはヘランが生き延びていることを知りません。故に、この雨は貴女が降らせたことにして頂く」
「ですが、私は、雨を降らせることが……」
「できる、ということになって頂く!」
ユジンは握ったヨンジュの手を高く高く掲げた。
「皆、聞くがいい! この雷雨は王太女の力の表れである。この雷雨のように、トガム国とクムサ国は強く結びつき、共に強い国を作り上げていこうぞ!」
――雷雨のように強く!
ユジンの言葉に、それまで雷雨の激しさに恐怖していた兵士たちの顔色が変わったのが分かった。
その場の雰囲気が、がらりと変わる。
雷鳴が強く激しく鳴り響けば響くほど、稲妻が昊を力強く引き裂けば裂くほど、兵士たちはそれに負けじと声を張り上げた。
「トガム国、万歳! ユジン王子、万歳!」
「トガム国、万歳! 王太女、万歳!」
「トガム国、万歳! クムサ国、万歳!」
それはまるで、戦前の咆哮のようだった。外殿が揺れる。
続いて、何者かが叫んだ。
「反乱軍を討つべし!」
「王太女に仇なす者たちを屠るべし!」
「反乱軍、討つべし!」
「トガム国とクムサ国に平穏を!」
昊に稲妻が走る。
切り裂かれた昊は、まるでヨンジュとヘランのようで、兵士たちが口々に叫ぶように、クムサ国をひとつにするためには、どちらかがどちらかを討ち果たすしかないように思えた。
(もう敵同士なんだわ)
ヘランは二度とヨンジュを受け入れてくれない。
お前は敵なのだと、彼が降らせた雨が告げている。そう、ヨンジュは感じた。