二十五.本当の敵
「もう決めたことです。貴女をわたしの妃にします。――それに、わたしは一度手にしたものを手放すつもりはありません」
低く重く響いた声は、相手に有無を言わさぬもの。
そして、ヨンジュはようやく理解した。ユジンという人物は、己が纏う闇を自在に操ることができるのだ。
常には相手に恐怖を与え、時にそれを和らげ、相手を服従させる。
ユジンの中に優しさを感じとって戸惑えば、それは彼の思うつぼなのだ。
ヨンジュは抗う術を探して、ユジンの漆黒の瞳を正面から見据えた。
戦場においては鬼神と称され、政においても冷酷無慈悲だと噂される王子が、今、ヨンジュにだけ優しく微笑んでいる。
貴女だけが特別なのだと告げる瞳は、過去にどれだけの人間を魅了してきたのだろうか。
だけど、そこに真実など無い。
彼が見せる優しさは幻であり、見惚れてしまうほど綺麗な微笑みは彼の武器でしかない。
引き寄せられて止まない強大な力に、屈するな、とヨンジュは自分を叱咤した。
だが、未だヨンジュの左手はユジンのひんやりとした手の中にあった。
振り払いたくとも、しっかりと握られて自分の方へと引き戻すことさえ適わない。
ユジンが纏う闇がまた一段と和らいだ気がした。
「このクムサの地を愛らしい貴女に捧げます。吉日を選び、姫の即位式を執り行いましょう」
「できません。私には河伯の力がありません。王位を継ぐ資格がないのです」
「貴女が女王になれば、クムサ国は王族の力を必要とせずに雨の降る地となります。トガム国が貴女の国に技師を派遣しますので。そうなれば、トガム国の水路がクムサの大地にも広く引かれるようになります。必要ならば井戸も掘りましょう」
「水路? 井戸……?」
「ええ、そうです。トガム国にはそれだけの技術力があります。貴女がわたしの妃となれば、その力は貴女のものとなるのです。そして、貴女が女王になれば、亡くなったテソン王もきっと喜ばれます」
彼を拒絶する自分を籠絡しようと、ユジンが言葉を重ねているのがヨンジュには分かった。
父王のことを持ち出されてしまえば、そうなのかもしれないと思ってしまう自分がいるからだ。
ヨンジュは父王の顔を思い出し、自由な右手で裳を握り締めた。
クムサ国が滅んだあと、王族の力が無くとも雨が降る土地になるようヨンジュをオクチョンに向かわせたのは、他の誰でもない、父王だ。
――では、本当に、父王はクムサの大地がそのように王族の力を必要としなくなることを望んでいたのだろうか。
トガム国の技術で水路を引いて、井戸を掘って、河伯の力を必要としなくなったクムサ国。
クムサ王は天に祈る必要はなく、雨は王の意思ではなく、天の気まぐれで大地に恵みをもたらす。
そうなれば、クムサ王は神でも河伯の子孫でもなくなり、ただ人となる。
――それでも父王は、ヨンジュが女王になることを望むだろうか。
揺れるヨンジュの瞳を見て、ユジンが優しげな微笑みを浮かべる。
「貴女の力と、わたしの力を合わせて、新たなクムサ国をつくるのです。そのためにも古き力の象徴であるヘラン王子を打ち倒しましょう。彼は貴女に逆らう謀反人です。貴女の敵。――そう、貴女の敵はわたしではない。彼だ。ヘランこそ、貴女と貴女の父君の敵なのです」
「ヘランが……。父王の敵?」
ユジンの言葉に耳を貸すべきではないと分かっていた。
けれど、聞き捨てならない言葉にヨンジュはユジンを見つめ返す。
心を乱さずにはいられなかった。
すると、ユジンは蝶を捕らえた蜘蛛のように優艶と笑む。
「クムサ王の貴女への溺愛ぶりは我が国まで聞こえていました。そしてクムサ王は、ヘランに王位を譲るとの約定を先王と交わしたにも関わらず、貴女が可愛いあまりに、貴女に王位を譲ることを宣言された。しかし、ヘランは有能過ぎた。彼を支持する者も少なくない。貴女を次期女王に据えたいクムサ王がヘランを邪魔に思うのは当然のことでしょう」
事実、クムサ王が無くなった今、ヘランの存在は、ヨンジュが女王になるためには邪魔でしかない。
ヘランが生きている限り、クムサの民は彼を玉座へと押し上げるだろう。
それだけの力と魅力がヘランにはあるのだ。
けれど、とヨンジュは反論の言葉を絞り出した。
「父王はヘランが祈雨祭に成功すれば、とても誇らしげにしていらした。ヘランのことを誰よりも頼りにしていたのです。父王がヘランを殺そうと考えていただなんて思えません」
「いいえ。それは貴女に河伯の力が無いからでしょう。貴女にその力があれば、ヘランなど疾うに用済みになっていたはずです」
「まさか……そんな……、私が雨を降らせることができないために、父上はヘランを生かしていたということなのですか!」
さっと、血の気が引くのが分かった。
そうなのかもしれない、と思ってしまった。
おそらくユジンの言っていることは正しい、と。
ヨンジュはこれまで一度も、はっきりと玉座を望んだことはない。
けれど、ヘランのように雨を降らせることができたなら、と願っていた。
だが、もし、自分が雨を降らせることができていたら、いったい今ごろ、どうなっていただろうか。
想像するのは易い。
父王はヨンジュの地位を盤石なものにしようと、あらゆる手を尽くして、ヨンジュの妨げとなるものを除いていったはずだ。
そして、その中には当然、ヘランが含まれていたはずなのだ。
(ヘランは父上に命を脅かされていた!)
今なら理解できる。ヘランの自分を見る眼が冷たかったのも当然のことだ。
ヨンジュの存在こそがヘランの命を脅かしていたのだから。
「……知らなかった。私、ヘランに嫌われていても当然だったのだわ」
呆然して、独り言のようにヨンジュは呟いた。何も考えられなくなる。
不意に柔らかい感触がして、びくん、とヨンジュの肩が震えた。
視線を向けると、ユジンが掴んだヨンジュの手の甲に己の唇に押し当てていた。
だが、もはやヨンジュに彼の手を振り払うだけの気力は無かった。