二十四.闇を纏った王子
掴んでいたはずのものが、するりと手のひらから抜けていくのが分かった。
駆けていく後ろ姿にヘランは胸を締め付けられて、綺麗に整った眉を歪めた。
「私がクムサ国第一王女、ヨンジュです!」
白い上衣を着て、顔を泥で汚したヨンジュがユジンを正面から睨み、声を張り上げた。
黒光りする鋼の鎧を身につけたユジンの瞳がヨンジュを映す。
その瞳が細められ、不敵な笑みが浮かべられた。ヨンジュの前に歩み進む。
「わたしはトガム国の第一王子、ユジン。貴女に危害を加えるつもりはありません。城にお戻り下さい。貴女の城です」
優しく、穏やかな声音だ。まるで、語り掛けるような、諭すような。
ヘランは遠目に、ヨンジュの肩の力が抜けるのが分かった。
ヨンジュは揺れる瞳でユジンを見つめている。
ヨンジュに差し出された手。恐る恐るといった様子で、彼女はその手に自分の手を重ねた。
その光景に、ヘランは指の爪を手のひらに食い込ませる。
かっと、胸を熱くした何かが、長く長く燻った。無性に苛立つ。
あの場に駆け寄り、ヨンジュの細い腕を掴んで怒鳴り散らしたい。
お前がいるべき場所はそこじゃない! 俺の傍らなのだ、と。
「ヘラン様」
耳元で気遣わしげなジヌの声が響いて、はっとする。
つい先程まで自分が抱いていた想いに苦笑を漏らし、ヘランはジヌに振り返った。
あれでいいのだ、と無言で頷く。そして、再びヨンジュとユジンの姿を目で追った。
ユジンがヨンジュを立たせ、城門の中へと促している。
ヨンジュはヒギョンを振り返り、一度、不安げな視線を民衆の中に投じたが、ユジンに従って城内へと入っていった。
(――あれでいい)
ヨンジュがヒギョンを助けるためにユジンの前に飛び出すことは分かっていた。
誰かが自分のせいで死ぬのを黙って見ていられないのがヨンジュだからだ。
そして、ユジンはヨンジュを殺さない。彼はヨンジュの利用価値を知っている。
だから、ヨンジュは安全だ。あれでいい。――良いはずなのに、どうしてだろうか。
手が冷たくなっていく。
掴んでいたはずのものが、手の中にない。きっとそれが自分を暖めてくれていたのだ。
――寒い。
城門が閉ざされていく。その音が胸に鈍く響いて、気持ちが重く沈んだ。
ユジンの手を取り、ユジンと共に城内に消えたヨンジュ。
つい先程まで自分の傍らに彼女はいたのに。
――苦しい。息ができないくらいに。
ヘランは頭を左右に振った。そして、踵を返した。
「行こう」
思いを振り切るように短く言葉を放つと、ぐっと、唇を結んだ。
(必ず取り戻す)
国も、そして、彼女も取り戻す。
そのために、こんなところで立ち止まってはいられなかった。
◆◇
この世の闇をたった一人で背負っているかのようだ。
漆黒の髪と瞳。
色鮮やかな世界で、彼だけが暗く沈んで見えた。重苦しい。
その重圧に負かされるようにヨンジュは顔を俯かせた。下へ下へと、頭が下がっていってしまう。
――俯くな。顔を上げろ。
ヘランの声が聞えた気がした。ぐっと、唇を噛み締める。
(負けるわけにはいかない。クムサの王女として対等にユジンと向き合わなければ、ヒギョン様を救うことなんてできないのだから)
ヨンジュは顔を上げて、ユジンの顔を真っ直ぐに見据えた。
ユジンに手を引かれて城に戻ったヨンジュは、その足で後宮の一室に案内された。
そこは、自分が使用していた部屋だった。
部屋を荒らされた様子はない。高価な物で無くなっているものもなく、城内をトガム軍に占領されているなど嘘のように、以前と何ら変わった様子がなかった。
ヨンジュはユジンがトガム国から連れてきた女官たちの手を借りて、顔を洗い、衣服を整えた。
ユジンの訪れを受けたのは、薄紅色の上衣を着て、緋色の裳を穿き、髪に瑠璃の簪を挿し終えた時だった。
方卓の前に腰を降ろしたユジンは、強張っているヨンジュの顔を見て、ふっと表情を和らげた。
細められた瞳の奥に、思いがけない優しさを感じ取って、ヨンジュは戸惑う。
ユジンを取り巻いていた闇が薄らいだように思った。
だが、容易く気を許すわけにはいかない。彼は敵だ。
父王の仇だ。ヨンジュは表情を引き締めた。
「ヒギョン様はどちらですか? ご無事なのですか?」
「あの者の命は貴女しだいです」
「どちらにいらっしゃるのですか? 無事を確認させてください」
「神殿です。――まずは、お掛けください」
はぐらかされるように椅子を勧められて、ヨンジュは苦々しく思う。
僅かに睨んでから、ユジンと向かい合うように腰を下ろした。
さらりと、布の擦れる音が小さく響く。その音が沈黙に溶けるのを確認してから、ユジンが口を開いた。
「ここは貴女の城です。ご自由になさってください」
「では、廊下にいる兵士を遠ざけてください」
「あの者たちは貴女の安全を守っているのです」
見張っているの誤りだと、ヨンジュは思った。
生まれ育った城に帰ってきたというのに、少しもそういう気がしない。
居心地が悪く、ヨンジュの吐息さえ何者かが聞き耳を立てているような気がしてならなかった。
ヨンジュが方卓の上に置いた左手を、すっと腕を伸ばしてユジンが取った。
突然のことにヨンジュは驚き、息を詰めた。
「貴女をわたしの妃にします」
「……い、嫌です。私は貴方の妃になどなりません」
「なぜですか? 貴女の父君が望まれたことです」
「その父上を貴方が殺した」
「それで?」
「それで……っ」
すぅっと細められた瞳に見つめられてヨンジュは言葉を失った。
そこには先程感じた優しさなど欠片もない。
暗く濃い闇が果てしなく広がっている。怖い。ヨンジュは、ぞっとして体を震わせた。
だが、そんなヨンジュの様子に気が付いて、ユジンが再び表情を和らげる。
闇が薄らいで、ヨンジュは体の緊張を解いた。
ユジンを見上げる。彼はヨンジュの左手を優しく握ると、綺麗な微笑みを浮かべた。