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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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二十三.王都へ


 示し合わせたかのような白い上衣に、ヨンジュは驚いた。

 いや、それ以上に、誰もが寝静まったはずのこの時刻にヘランが自分を待ち伏せていたから言葉がない。

 馬小屋である。村長の屋敷の外。

 馬は村長のもので、軍馬ではない。その中でも特に性格の大人しそうな馬に手を伸ばした時、背後から声が響いた。


「やめておけ。怪我をするだけだ」


 びくり、と肩が跳ねる。まるで悪戯を見付けられた幼子のように体が強張る。

 水の匂い。振り返るまでもなかった。ヘランだと知って、ヨンジュは瞳の色を強くした。


「止めないでください。止められても私は行きます」

「止めない。俺も行く」

「え」


 ヨンジュは耳を疑った。その一瞬、ヘランはヨンジュの腕を掴んで、馬小屋の外へと連れ出した。

 抗議の口を開きかけたヨンジュの耳に蹄の音が響く。振りかえると、ジヌが二頭の軍馬を引いて歩み寄ってきた。

 どちらの馬も村長の馬とは比較にならないほど鍛えられている。


「この馬なら正午までに王都に着く」

「けれど、こんな馬、乗れません」

「これは俺の馬だ。お前に手綱を任せるわけがない」


 では、どういうつもりでヘランはヨンジュの前に馬を連れてこさせたのだろう。

 ヨンジュは眉を寄せた。

 暗やみに薄ぼんやりと浮かぶのは、二人が身に纏う白い上衣。

 民が着る簡素なもの。はっとしてヨンジュはヘランの顔を仰ぎ見た。


「もしかして、一緒に来てくれるのですか?」


 返事はなかった。

 だが、その無言は肯定を意味するのだと、ヨンジュは察した。


(どうして?)


 ヘランは昼間、ヒギョンを見捨てるつもりだと言っていたはずだ。

 それなのになぜ王都まで馬を駆けさせるというのだろうか。


(気が変わったのだろうか……)


 彼はそんなにも簡単に意見を覆す人だったのだろうか。怪訝に思う。

 けれど、ヨンジュはそんなヘランの心変わりを嬉しく思った。

 王子として完璧な彼が初めてヨンジュに見せた人間らしさのように思えたからだ。

 ヨンジュは差し出されたヘランの手のひらに自分の手を重ね、馬の背に乗せて貰う。

 すぐにヘランもヨンジュの後ろに騎乗して、彼はジヌを振り返った。


「行くぞ」


 ジヌがもう一頭の馬に騎乗した。どうやら彼も共に来てくれるようだ。

 馬の背に横乗りになっている自分を、抱きき込むように手綱を握るヘランに顔を向けた。


「大丈夫なのですか?」

「何が?」

「貴方もジヌもいなくて」

「ここは大丈夫だ。やるべきことはやり終えた。あとはホウォル国とサファ国からの使者を待って、出陣号令を出すだけだ。兵たちにしても、どれだけの訓練を積めるかの問題だな。一日、二日、俺がいなくとも構わないだろう」

「けれど、貴方がいるいないでは士気が違うのでしょう?」


 ヨンジュの言葉にヘランの形の良い眉がわずかに歪んだ。

 ヨンジュは余計なことを言ってしまったのだと察して、視線を馬の流れるような黒い鬣に落とした。

 ヘランの声が響く。


「しっかり捕まっていろ」


 視線はジヌへ。目だけで出発の合図をし、言葉はヨンジュに放る。

 ヨンジュがこくりと頷いて彼の胸に腕を回すと、ヘランは馬の脇腹を蹴った。




◇◇




 森は静かだ。兵士の姿もなく、草地を蹴る馬の蹄の音だけが響いている。

 王都に入る手前で、ヨンジュたちは馬を降りた。

 ヘランの立派過ぎる馬では、民の扮装をしていても、身分を知られてしまうからだ。

 怪しまれることを避けて、ここからは徒歩で行くしかない。

 ヨンジュは昊を仰いだ。陽はすでに地平線から顔を覗かせている。

 森の中に馬を隠しに行ったジヌが戻って来ると、ヨンジュたちは街道に出た。

 国同士の争いごとを避けて王都から逃げていた町人が、再び戻ってきたという顔をして、郭壁の大門をくぐった。


 街の雰囲気の異様さは、城から出ることの少なかったヨンジュでさえ、すぐに分かった。

 人々は皆、他人と視線が合わないように地面ばかりを見つめている。まるで怯えているかのようだ。

 これがクムサ国の王都だっただろうか。

 堂々と、真っ直ぐ正面を見つめているのはトガム兵ばかりで、まるで知らない国に来てしまったかのように感じられた。

 澱んだ空気が街を覆っている。

 希望と活気に満ちたオクチョンの村とは違いすぎて、ヨンジュは、もはやこの王都がクムサ国のものではないことを悟った。


 城は街の北方にある。

 処刑が行われるとしたら、城門前の広場で公開されるはずである。

 ヨンジュたちは、街の中を行き交う人たちの間を縫うようにして北を目指した。

 不意に、追い越していった男に肩をぶつけられ、ヨンジュはよろけた。

 倒れそうになったヨンジュの腕をヘランが掴み、引き上げる。

 そして、そのまま自分の方へとヨンジュを引き寄せ、彼はヨンジュの手を握った。

 どきりとした。ヘランの大きくて固い手に、ヨンジュの胸が跳ね上がる。

 ヨンジュはヘランの顔を盗み見た。

 彼は平然とした顔でヨンジュの手を引いている。

 ざわつく胸が気恥ずかしくなるくらいに彼はちらりとも動じていない。

 まるで、ヨンジュの手を引くことが当然だといったようだ。


 思えば、オクチョン山を下りる時から、ヘランはごく自然にヨンジュに触れるようになった。

 城にいた頃には考えられなかったことだ。

 あの頃の彼はいつも遠くから、ひどく冷めた眼でヨンジュを見つめていた。

 ヨンジュはその眼が嫌で、彼の視野に入らないように、また、自分の視野に彼が入って来ないように振る舞ってきた。


 けれど、今の彼は誰よりもヨンジュの近くにいて、暖かな瞳でヨンジュを見つめてくる。

 なんて広い背中だろう。なんて力強い腕だろう。

 安心する。父王の隣にいる時のような安堵感。

 だけど、父王の隣にいる時には感じられなかった胸の高鳴り。

 彼の傍らにいることが気恥ずかしくて、消えたくなってしまう。

 ヨンジュは俯いて、自分の足下を過ぎ去っていく小石の数を数えた。

 握られた手がひどく熱を持っている。


 ざわめきが耳に届いて顔をわずかに上げると、ヨンジュは人の流れの中にいた。

 不安を顔に浮かべて人々は皆、ヨンジュたち同様に北を目指している。

 皆、広場へと向かっているのだ。

 人に流されるようにして広場に着くと、すでに陽も高く、何重にも人垣ができていた。

 ヨンジュはヒギョンの姿を探した。

 広場の四方には、集まってきたクムサの民たちを威圧するように槍を手にして佇むトガムの兵士たちの姿がある。

 だが、まだ広場にはヒギョンの姿は無かった。

 ヨンジュは頭上を見やった。雲一つない昊。

 やがて陽は広場の真上へと移動した。

 城門が開く。

 具足の音が鳴り響いて、城内から四人の兵士が出てきた。

 目を見張る。兵士たちに囲まれてヒギョンが城門から姿を現した。

 その姿を目にして、ヨンジュは胸が詰まった。

 鮮やかだった唇は色を失い、彼女を煌びやかに飾り立てていた簪も、首飾りも、腕輪も失われている。

 白い上衣を身につけ、髪は無造作に後ろでひとつに括られたその格好は、矜持の高い彼女には耐え難いものに違いない。


 ヒギョンは多くの視線に晒されながら広場の中央に移動し、地面に敷かれた茣蓙の上に、トガム兵たちに突き飛ばされるようにして座らされた。

 たちまち罵声が上がる。ヒギョンは化粧気のない顔で自分を乱暴に扱った兵士をきつく睨み上げると、口汚く喚き散らした。

 だが、それは、ほんのわずかな時間だった。

 ヒギョンに続いて城門から広場に出てきた人物と視線が合うと、彼女は忌々しげに唇を噛み締めて顔を背けた。

 ヨンジュの耳元で、ヘランの声が響く。


「――ユジンだ」


 囁かれた言葉に驚いて、ヨンジュはヘランを振り返った。

 そして、ヘランが見つめる方に視線を向ける。ヒギョンにゆっくりと歩み寄る人物。


(あれが)


 ぐっと、息苦しくなる。周囲の大気が、ずしりと重たくなったように感じる。

 目が離せない。金縛りに会ってしまったかのように身動きが取れなくなった。

 強烈な存在感。白の中に落とされた黒のように彼だけが異質で、彼に視線が固定されてしまう。


(ユジン。――彼がトガム国の王子)


 すっと伸びた手脚。姿勢が良く、立ち姿が綺麗だ。

 闇色の髪の下から覗く眼は鋭く、まるで研ぎ澄まされた刄のようで、ヨンジュの体は竦む。

 彼は、この期に及んでも尚、不貞不貞しい態度を取るヒギョンの前に立つと、彼女をその鋭い眼で見下ろした。


「どうやら、クムサの王女は現れないようだな」


 広場に響いたのは、氷のように冷たいユジンの声だった。

 ぞくりとして、ヨンジュは己の両肩を抱いた。


「――処刑せよ」


 ユジンは右腕を振り下ろし、踵を返した。

 漆黒の外套が大きく翻る。指示を受けた兵士が、ユジンと入れ替わるようにして、剣を手にヒギョンに歩み寄った。

 逃げて、とヨンジュは心の中で悲鳴を上げる。

 けれど、ヒギョンは血の気のない顔を真っ直ぐに上げてユジンを睨み返し、動かない。

 振り上げられた剣。陽の光を受けて輝く。その眩しさにヨンジュの頭の中は真っ白になった。


(殺されてしまう。ヒギョン様が殺されてしまう!)


 地を蹴った。夢中で。ヘランの制止の声が響いたが、もう止まれなかった。

 彼の手を振り払って駆ける。助けなくては。自分にしか助けられないのだから!

 ヨンジュは無我夢中で人垣を押し退け、広場の中央に飛び出した。



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