二十二.感情と責務
ヨンジュの背を隠した垂れ幕を、ヘランはしばらく見つめていた。
天幕の外にいた兵士にヨンジュを彼女の部屋まで送るよう指示をし終えたジヌが、天幕の中に戻ってきて声を掛けてこなければ、ヘランはもうしばらくその姿勢のまま固まっていただろう。
ジヌに向き直って、ヘランは苦笑を漏らした。どこか弱々しい。
「水をお持ちしましょうか?」
ジヌが言うと、ヘランは緩やかに頭を左右に振った。
「いや、いい。――それより今から仮眠を取りたい」
「仮眠? お疲れですか?」
ヘランは口の端から息を吐き出して、再び頭を振った。
「違う。おそらく今夜、徹夜で馬を駆けさせることになりそうだからだ」
「馬を?」
ようやく気付いてジヌは、まさか、という表情を浮かべた。
「ヨンジュ様ですか? ヒギョン様を助けに王都に戻られると?」
その問いには答えず、ヘランは、ふっと地図の上に視線を落とした。
クムサ国とホウォル国、そして、サファ国に囲まれるようにトガム国がある。
その国の上を指先で突いた。こん、こん、と軽い音を立てて。
「――お前はヨンジュを知らない」
呟くように言葉を零すと、人差し指を地図の上で滑らせた。オクチョンからクムサの王都まで。
ヨンジュがヘランの知っている通りのヨンジュならば、おそらくヨンジュは夜中に村を抜け出すはずだ。
なんだかんだいって、ヘランは幼い頃からヨンジュのことが気になって仕方がなかった。
彼女が誕生したその日からずっと彼女のことを見つめてきた。
そのため、ヨンジュの考えそうなことは、ヘランには手に取るように分かる。
「普段のヨンジュは陰気なくらいに大人しいが、時に、ひどく大胆でもある」
「それは……」
ジヌは口籠もった。
短い間だったが、ヨンジュと二人きりで行動したことのあるジヌには思い当たるところがあったのだろう。
ひとつ頷くと、そうですね、と零した。
「ヘラン様に面と向かって、あのようなことを言える方だったとは思いもしませんでした」
「皆が知らないだけで、ヨンジュは幼い頃からずっと俺にはあんな感じだった。小犬みたいに、きゃんきゃんうるさく吼えてくる」
誰も知らない。おそらく自分以外は誰も。
テソン王の蔭に隠れた王女のことを弱々しく思い、侮るばかりで、彼女自身を見ようとしなかったからだ。
村に着いたばかりの頃も、ヨンジュは皆にとって頼り無い王女であり、はっきりと口には出さないが、誰もが足手まといに思っていた。
しかし、ヨンジュは無力などではない。
そのことに、オクチョンでヨンジュに接した者たちは少しずつ気が付き始めている。
彼らがヨンジュに微笑んで貰おうと、他愛もない話を、大きな身振りで話して聞かせている姿をよく見かけるようになった。
だが、ヘランがヨンジュに求めているのは、彼女の分け隔て無い笑顔だけではない。
ヘランはヨンジュが自分のもとにやって来ると、必ず傍らにヨンジュを呼び、彼女の席を用意した。
そして、可能な限り彼女に国々の情勢を教え、時々、意見を求めた。
しかし、ヘランは、けしてヨンジュの意見を取り入れない。
無知なヨンジュは見当違いなことを言うことが多かったし、何より自分の感情を優先するからだ。
先のヒギョンの件が良い例だ。
――私は嫌です。嫌なんです。もう誰であろうと、死んで欲しくはありません。
皆を率いて行かなければならないヘランには、口が裂けても言えない言葉である。
だが、ヨンジュはそれで良いのだ。――そう、ヘランは思う。
感情で動くヨンジュが嫌なものを嫌だと主張し、別の方法を求め動き出せば、ヘランもヨンジュが求める方法を探したくなるからだ。
一個人としての顔の他、王子としての顔も持ち合わせているヘランは、己の感情を押し殺した判断を下すことができる。
だが、真実、ヘランが感情を殺し切れるのならば、ヨンジュは疾うにヘランの手によって消されていたことだろう。
思えば、その押し殺された感情を蘇らせていたのは、いつだってヨンジュだった。
彼女はいつもヘランに情けを思い出させ、彼の心を乱してきた。
故に、これからもヘランが下した判断にヨンジュが否を唱え、ヘランに考え直す機会を与えてくれることだろう。
ヨンジュさえヘランの傍らにいてくれるならば――。
ヘランは椅子の背もたれに深く寄り掛かりながら、側らに立つジヌを見上げた。
「ヨンジュは母上を助けに行くだろう。自分のせいで誰かが殺されると聞いてじっとしていられるやつじゃない。それが名も知らない民でも、俺の母上であってもだ。何もできないかもしれない。却って事態を悪くするかもしれない。それでもヨンジュは何かせずにはいられないのだろうな」
「そうと分かっていながら、ヨンジュ様にヒギョン様のことをお伝えしたのは何故ですか?」
顔を顰めるジヌにヘランは、さあ、と短く答えて苦笑した。だが、その答えは自分の中にある。
それを他人に明かしたくなかった。
ヘランは地図の上のホウォル国を、続いてサファ国を指先で軽く数度突いた。
「ホウォル国とサファ国から書状が届いたら、王都に進軍する。それまでに王都の様子を実際この目に見ておきたい」
「しかし、ヘラン様が直々に行かれることはないでしょう」
「ヨンジュを送りがてらだ」
「ヨンジュ様を止めて下さらないのですか!」
「止めても無駄だろう。あれは行くと決めたら行く。まして、城に戻ることはオクチョン山のあの崖から飛び降りることよりも容易い。――ならば、ヨンジュを城に行かせてやるしかない」
だが、と声音を低めて、ヘランは続けた。
「一つ問題なのは、ヨンジュがユジン相手にどれほど戦えるか、だ。ユジンの手中にヨンジュが取り込まれてしまったら、俺は負ける。クムサ国は滅びるの道をたどるしかない。だが、ヨンジュも共にトガム国と戦ってくれるのなら、俺たちは負けない。絶対に俺たちの国を取り戻してみせる」
言って、ヘランは再び視線を地図の上に落とした。
クムサ国とトガム国を隔てるように険しい山がある。ソルソン山だ。その地で、一瞬だけ姿を見た。
黒い甲冑に身を包んだ青年。――ユジン。
戦場から逃げる途中だった。振り返る余裕などなかったはずなのに、ヘランはその鋭い視線に振り返りざるを得なかった。
彼の周りだけ重たく沈んで見えた。闇。大きくて強い。強烈な存在感に呑まれそうになる。
(あれがユジンだ、ヨンジュ。お前はこれからあれと戦わなければならない。――勝てるだろうか。もしもヨンジュがユジンに取り込まれてしまったら、どうする?)
ばん、とヘランは方卓を手のひらで打った。どろどろとしたものが胸の中で渦巻く。
それらを振り払いたくて立てた音だったのだが、胸は少しも軽くならなかった。
眉を顰めたジヌの視線に気が付き、ヘランは薄く息を吐いて形ばかりの笑みを浮かべた。