二十一.殺されていく命
再び訓練所に着くと、そこでひとりの兵士に声を掛けられた。
ヘランは訓練所の隅に張られた白い天幕の中にいるらしい。
その天幕の入り口に立つと、確かに、ヘランは中にいるようだ。ヨンジュの耳に、彼とジヌの話し声が届いた。
小さく声を掛けてから、そっと入り口の幕を巻き上げて中に入ると、ヘランの鋭い視線がヨンジュを迎えた。
彼は天幕の中央に置かれた方卓を前にして、椅子に腰を降ろしている。
かたん、と音がして、ヘランの向かいに座っていたジヌが方卓に両手を着き、弾かれるように腰を浮かせた。
「今の話、お聞きになっていらっしゃいましたか?」
「なんのことですか?」
ヨンジュは眉を寄せる。ジヌはそのまま立ち上がると、その椅子をヨンジュに勧めた。
「お聞きになっておられないのなら、それで良いのです」
「どういうことですか? ――何かあったのですか?」
「……」
何かあったのだ。
押し黙ったジヌにヨンジュはますます眉を歪めた。嫌な予感がする。
武官らしく頑固で、口の重いジヌを問い詰めるのは困難だと判断して、ヨンジュはヘランに向き直った。
すると、ヘランはなんてことのないように簡単に口を開いた。
「トガム国の王子がお前を捜している。――で、お前は何か用か?」
「私を? ――用? ええ、私は雨を降らせて欲しいと、貴方に告げに来ました」
「雨? ああ、そういう時期だな。分かった。数日中に祈雨祭を行おう」
礼を言いながらヨンジュはジヌに引いて貰った椅子に腰を降ろすと、ヘランを怪訝顔で見据えた。
「それで、なぜ、トガム国の王子が私を捜しているのですか?」
「トガム国の第一王子ユジンは、クムサ国の王女が生き延びていることを知っている。だから、お前を捜して、王都の者たちを殺戮している」
「それは、どういうことですか!」
「一日に十人。逃げたクムサの王女が投降するまで、無作為に選んだクムサの民を殺し続けると宣言し、その宣言通りにクムサの民を殺している」
「なんてことを!」
ヨンジュは信じられないと青ざめて、ヘランの顔を凝視した。
ヨンジュが城から脱出し、トガム軍がクムサの城を占領してから、百日は過ぎている。
いったい、いつ頃からユジンはヨンジュの捜索を始め、王都に残ったクムサの民を殺し始めたのだろう。
――いったい、どのくらいの命が無惨に奪われた?
(私のために! なぜ!)
オクチョンの村で親しくなった者たちの顔を思い浮かべる。ソナやギナム、火事場の親方。
王都に残った者たちも、彼らと同じクムサの民だ。
それなのに、ヨンジュがオクチョンで楽しく笑っている間に、王都ではなんという惨いことが起きていたのだろう!
ヨンジュは憤りを拳の中に押し殺しながら、俯き、震える声を響かせた。
「分かりません。なぜ、ユジン王子は私を捜しているのですか。そんな、非情な真似までして私を捜す理由は何ですか?」
ヨンジュには何もなかった。
雨を降らせることもできない、王女とは名ばかりの無力な少女だ。父王を失って尚、その価値が下がったように思う。
おそらくユジンは、ヨンジュが無力であることを知っているはずだ。
ヨンジュが無力であるがために、父王はヨンジュを隣国の王子の妃に据えようと考えたのだから。
過去にクムサの王女が他国に嫁いだ例はない。
それは、河伯の力が他国に渡ることを防ぐためだ。
ならば、他国に嫁ごうとしている王女ヨンジュには力がない。考える力がある者であれば、すぐにそのことに気が付くだろう。
賢いと言われる、トガム国の第一王子ユジンが、それに気付いていないはずがないのだ。
――なのに、なぜ、彼はヨンジュを求めているのだろうか。
俯いたヨンジュにヘランは、分からないか、と静かに声を放った。
「ユジンがヨンジュを必要としているのは、トガム兵の犠牲を少なくクムサの地を手に入れるためだ。――ユジンは俺が生きていることを知っている。オクチョンで兵を募っていることも分かっているはずだ。それでもユジンがオクチョンに軍を差し向けてこないのはなぜだと思う? トガム国は、お前をクムサの女王にして、女王であるお前の名でクムサの民で編成した軍を使い、俺を討たせるつもりなのだ」
そうなれば、自分はクムサの王子ではなく、反乱軍の指導者として討たれることになるだろう。――そう、ヘランは言い加えた。
ヨンジュの体が強張る。瞳だけを瞬かせ、ヘランの顔を凝視した。
彼のその言葉はあまりにも冷静な響きをしていて、まるで他人事のように聞こえた。
だが、それが却ってヨンジュの心をかき乱す。
(私が女王になって、ヘランを討つ? 反乱軍の指導者として、ヘランを討つ?)
あまりのことにヨンジュは言葉がなかった。想像ができない。
自分を置き去りにして、しかし、自分を中心として事態は刻々と移ろいでいるというのに!
「俺を討った後、トガム国はクムサ国を属国にし、末には取り込むつもりだろう」
「私はいったいどうしたら……」
こうしている間に、死を待つクムサの民がいる。
しかし、彼らを助けるためにユジンに投降すれば、次にヨンジュを待ち受けているのは、ヘランと戦う道だ。
トガム国の後ろ盾を持つヨンジュの国軍は、けしてヘランの率いる反乱軍に負けないだろう。
脳裏にヘランの無惨な死が浮かんだ。彼の首が城壁に下げられている。
今度は身代わりのものではなく、本物のヘランの首だ。
ぐっとヨンジュの咽が鳴った。脳裏の映像を振り払おうと、頭を左右に振った。
とたん、目尻が燃えるように熱くなって、ヨンジュは唇を噛みしめた。
自分がどうすればいいのか、さっぱり分からなかった。
ヨンジュ、と呼ばれて、ヨンジュはヘランに向かって、ゆっくりと顔を上げた。
「俺がどうにかする」
「どうにかって……?」
ヘランはジヌに命じて地図を取らせると、それを方卓に広げ、その上に長い指を滑らせた。
「分かるか? ここがクムサ国だ。トガム国はここ」
王宮の外のことにことごとく鈍いヨンジュは初めて目にする地図に目を見張り、地図とヘランの顔と見比べながら、彼の指を必死に追った。
「クムサ国の西がトガム国だが、更に西に行けば、ホウォル国がある。そして、トガム国の南にはサファ国。俺はこのホウォル国とサファ国に使者を送った。クムサ国が滅びれば次は貴国の番だという内容のものだ」
「脅しをかけて、助力を求めたのですか?」
「あながち真実をついていると、俺は思っている。――数日のうちに使者が戻ってくるだろう。よほどの愚者でない限り、ホウォル国の者もサファ国の者も、トガム国の脅威に気が付いているはずだ。善い返事を期待していい。出陣はその後だ」
「けど、それでは、それまでに多くの民が殺されてしまいます」
今日にもユジンはクムサの民を見せしめに殺すのだ。
明日にも十人。その翌日にも十人。彼らを救うには一刻も猶予はないはずだ。
はっとして、ヨンジュはヘランに振り向いた。
彼の瞳は地図に落とされたまま、ヨンジュを見ていなかった。
確信した。ヘランは彼らを見捨てるつもりなのだ、と。
ヨンジュは、がたん、と音を立てて椅子から立ち上がった。
「駄目です! 彼らを見捨てないでください。家族だと言ったではないですか。そうです。貴方は言いました。クムサの民は家族だと。家族を見捨てるのですか!」
沸き上がった感情を、ヨンジュはどうしていいのか分からなかった。
悲しいのか、怒りたいのか、それすら分からない。
ただ、ヘランが再び誰かを犠牲にしようとしていることが、悔しくて堪らなかった。
おそらく彼は、多くを救うために、少しの犠牲は致し方ないと考えているのだろう。
だが、本当にそれは『致し方ない』ことなのだろうか。そうとは、ヨンジュには思えなかった。
「何か方法があるはずです。考えてください! きっと彼らを救う方法があるはずなのです!」
しかし、ヘランは頭を左右に振った。
ヨンジュは救いを求めるように、ヘランの側らに立つジヌに視線を向ける。縋るような想いだった。
だが、ジヌの返事は、ヨンジュが求めたものと程遠い。
「ヨンジュ様、ヘラン様もお辛いのです。――やはり、ヨンジュ様にこのような話をお聞かせするべきではありませんでした」
ヨンジュは顔を上げて、ジヌに瞳で問う。いったいそれはどういう意味だ、と。
ジヌは答えない。重苦しい沈黙の中、口を開いたのはヘランだった。
ヨンジュの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「母上が王宮で生きておられる」
「ヒギョン様が?」
「だが、明日の正午までにお前が投降しなければ、処刑される。おそらくユジンは、お前が俺と共にいることを知ったのだろう。――これはユジンの俺に対する宣告だ。母親の命を助けたくば、お前を差し出せ、と」
まさか、とヨンジュはヘランの顔を見つめたまま、その瞳を大きく見張った。
「それで、貴方はヒギョン様をどうなさるつもりですか?」
「――どう、すると思うんだ?」
ヘランは逆に聞き返すと、ヨンジュの瞳から目を逸らし、押し黙った。
ヨンジュは頭に血が上るのを感じた。これほどの怒りを感じたのは生まれて初めてのことだった。
(信じられない! ヘランは母親を見殺しにするつもりだ。明日の正午にヒギョンは殺されてしまうというのに、それでもホウォル国とサファ国の返事を待つつもりなのだ)
ヨンジュはヘランの瞳を自分の方に向けようと、方卓を両手で叩いた。激しい音が響く。
ヘランとジヌの驚愕の視線が向けられると、ヨンジュは声を荒げた。
「貴方は間違っています! ヒギョン様を救えなければ、人々は言うかもしれません。自分もトガム兵のせいで家族を失ったけれど、ヘラン王子も母君を失われた。哀れな王子。自分たちと同じ悲しみを知る王子。我らの王子、と。――けれど、クムサの民は愚かではありません。母親を見殺しにした者に、いったい誰が従うと言うのです! 犠牲にされた命は、貴方の母親も犠牲になったところで、何一つ慰められないのです。私は嫌です。嫌なんです。もう誰であろうと、死んで欲しくはありません!」
それが例え、ヨンジュにとって、妖女のように恐ろしいヒギョンであっても。
――助けに行こう。
唇を結ぶと同時に、ヨンジュは決意した。
ヘランが見捨てると決めたヒギョンを、いったい自分以外の誰が助けられるだろうか。
(私が助けに行くしかないんだわ)