二十.雨を望む声
いつの間にか、季節は初夏に移ろいでいる。
ヨンジュは、渇いた畑の中に立ち、まだ地平線から上ったばかりだというのに、皓々と照りつけてくる太陽を仰いだ。
額から玉のような汗が浮く。泥で汚れた裳が足に絡みつき、鬱陶しい。
ずっと屈めていた背中が、ひどく痛かった。
「ねぇ、少し休みましょう?」
ヨンジュは傍らの少女に声を掛けた。そして、その少女の祖父に視線を向ける。
少女はヨンジュと共に畑に茂ってしまった雑草を抜いており、彼女の祖父は渇いた土に水を撒いていた。
桶と柄杓を手にした初老の男が振り返る。
「そうですなぁ。ソナ、王女様を日陰にお連れしなさい」
「はい、おじいちゃん。――王女様、こちらに。朝餉にしましょう」
ヨンジュよりも二つほど年若い少女――ソナに頷くと、ヨンジュは彼女と木陰の下に移動した。
少し遅れて、桶の水を空にしたソナの祖父もやってくる。
ソナはヨンジュと祖父に、彼女の拳ほどの握り飯を差し出した。
彼女たちの朝餉は、いつも、その握り飯ひとつきりだ。
ソナの祖父――ギナムは、孫娘から握り飯を受け取ると、土の上に腰を下ろした。
ヨンジュもソナから朝餉を受け取って、腰を下ろす。
ヨンジュが人々に声を掛けて巡るようになってから、ひと月ばかりが経ち、今ではすっかり彼らと同じ食事を取ることにも慣れてしまった。
そして、ヨンジュは、この頃になると、ヘランに支持された場所だけを巡るのではなく、それ以外の場所――村の畑まで顔を出すようになっている。
戦時の村だけではなく、民の普段の仕事を知りたくなったのだ。
当初、人々はヨンジュの姿に気付けば、即座に手にし農具を投げ出し、その場に深く深く叩頭したものだ。とても言葉を交わすことのできる状況にない。
だが、ヨンジュは毎日、親しく声を掛け続けた。
爪の中に泥が入るのも厭わず、彼らの畑に混ざり、彼らの仕事を手伝い続ける。
すると、次第に王女の存在に慣れてきた彼らは、様々な話をヨンジュに聞かせてくれるようになった。
彼らの話は、他愛もないものがほとんどだ。誰某の妻がつくる酒は絶品だとか、誰々は戦が終われば祝言を挙げるのだとか。
だが、時には不満も口にする。
息子が兵士に志願してしまったため、老人や女が力仕事をするより他がないのだとか。
それら不満にもヨンジュは真剣に耳を傾けた。
すると、彼ら競うようにヨンジュに話を聞かせてくれるようになった。ヨンジュの姿を見つけて、駆け寄って来る者までいる。
そんな彼らの中で過ごすうちに、ヨンジュは自然と笑みを浮かべるようになっていた。
彼らの愉快な話で笑い、彼らの悩みに彼らと同じように眉を寄せる。
彼らと同じ気持ちになれたような心地がして、ヨンジュは嬉しくなるのだ。
王宮には、心を添わせることのできる者など、ただひとりとしていなかった。
そもそも、誰かの心に添いたいと思ったことがあっただろうか。
少なくとも、民の心を知りたいなど思ったことはなかったはずだ。
だが、今、ヨンジュにとって彼らは何よりも自分に近しい存在になっている。
ヨンジュはソナから受け取った握り飯を、大きく頬張った。
「王女様、どうも、いけませんなぁ」
不意に、ギナムが握り飯を齧りながら、言葉を零した。
ヨンジュは小首を傾げて彼に振り返る。
「どうかしたの?」
「いくら水を撒いても、土が渇いてしまうのです。これでは作物が枯れてしまいます」
「どうしたらいいの?」
「雨です。雨が降らねばなりません」
「雨……」
ヨンジュはギナムの言葉を繰り返し、呟いた。
すると、他の畑からも老人や女たちがやってきて、ヨンジュの呟きを拾うと、大きく頷く。
「そうです、王女様。わしらがいくら水を撒いても、こう陽の光が強くちゃ畑は、からからだ」
「直に井戸も枯れてしまう」
「川の水も随分と減ってしまったしのう」
ヨンジュは瞳を大きくして、彼らを見やった。
「井戸や川が枯れてしまったら、水がなくなってしまう!」
「仰せの通りです。水がなくなれば、作物が育たず、食べ物が尽きてしまいます」
「その前に、水がなければ、わしらも涸れる」
「それに、これからの時期、疫病も流行りましょう」
「雨です、王女様」
雨を望む彼らの瞳に、一瞬、ヨンジュは怯んだ。
クムサ国では王族以外に雨を降らせることのできるものは、何者にもいない。
たとえ、天でも、クムサの地では王族の意思なく雨を降らせることができないのだ。
握り飯の最後のひとくちを口の中に放ったソナが、ヨンジュに視線を向ける。
「王女様は、まだ、雨を降らせることができないのですか?」
「こら、ソナ!」
「私、王女様はもっと、お小さい方だと思っていました」
「……」
ヨンジュは顔を強張らせた。言葉が何も出て来なくなる。
――幼いから。
父王の言葉が蘇る。
祈雨祭の時、ヨンジュが失敗する度に父王が言い訳に使う言葉だ。
――幼いから。
ヨンジュはソナを見やった。
二つ歳下のソナは、ヨンジュよりも痩せていて、ちっぽけだ。
彼女の前で果たして、ヨンジュの幼さが理由になるのだろうか。
(いいえ、ならないわ!)
もうヨンジュは幼子ではない。
何も知らずにいることが許される子供ではないし、今まで無条件に護ってくれていた父王はもういないのだから。
とは言え、事実、ヨンジュは王族として無力だ。雨を降らせる能力がない。
雨を望む民の声に応えることができなかった。
そのことを詫びようと、ヨンジュは目の前の彼らに頭を下げた。
「ごめんなさい。必ずヘランにあなた方の言葉を伝えます」
「王女様、そんな! 頭を上げてください!」
「そうです、そんなことをなさらないでください!」
「お忙しいヘラン様に、わしらが声をお掛けすることは適いますまい。だが、わしらの傍らには王女様がおられます」
「王女様は、わしらの言葉を聞いてくださる」
「それだけで、私どもは有難いことなのです!」
ヨンジュは何度も頷き、詫びながら彼らの薄汚れた手を順に握りしめた。
爪や、皮膚の細かい皺にまで潜り込んでしまった泥は、いくら洗っても落ちないのだという。
今やヨンジュの手も、彼らほどではないが、爪に取れない泥が入っている。
同じだ。同じ手だ、とヨンジュは彼らの手を見ると思う。
そして、彼らと気持ちを共有できたように感じるのだ。
ヨンジュは立ち上がると、裳の皺を両手で叩いて直した。
さっそくヘランのもとに行こうと思った。この時刻であれば、きっと訓練所にいるはずだ。
畑仕事に戻ったソナやギナムたちと別れて、ヨンジュは訓練所に向かう。
訓練所の入り口にたどり着くと、兵士たちはすぐにヨンジュに気が付いて、武器を傍らに掲げ、一礼した。
ところが、その中にヘランの姿はない。
兵士たちに尋ねれば、鍛冶場だろうと言う。ヨンジュは彼らに礼を告げて鍛冶場に向かった。
簡易的につくられた建物の中を覗けば、親方が気付いて、額の汗を拭いながら歩み寄って来る。
彼はヨンジュがほぼ毎日同じくらいの時刻に顔を出すものだから、いつしか彼の方がヨンジュのことを待つようになっていた。
鍛冶場にやってくると、ヨンジュはしばらく赤く燃えた鉄を眺めて時を過ごす。
そして、ヨンジュが、金槌で叩かれた鉄が火花を散らす様子に、綺麗だと言葉を零す度、親方や彼の弟子たちは得意げになって鉄を叩くのだ。
歩み寄って来た親方にヨンジュは淡く微笑む。
「こんにちは、お仕事の邪魔をしてごめんなさいね」
「これはこれは王女様。こんなところに、どのような御用で?」
「ヘランはこちらにいる?」
「ヘラン様ですか? ヘラン様なら訓練所に向かわれましたよ」
「そこでは鍛冶場だと聞いたのです」
「入れ違いになられたのでしょう」
ヨンジュが困ったように眉を寄せると、親方は、けたけたと笑って、鉄を打つべき金槌で己の凝った肩を叩いた。
「直に昼餉です、王女様。腹が減れば、何者だろうと姿を現すものですよ」
王族に対して、なんて不遜な言い方だろう。
だが、ヨンジュは、ふわりと微笑む。
「親方、貴方もちゃんと食事を取ってくださいね。あまり無理をしないで。夜はしっかりと休んでください」
「これはこれは王女様、お気遣い痛み入ります」
深々と頭を下げた親方に、ヨンジュは、もう一度、微笑むと、鍛冶場から立ち去った。
ヘランはいつも兵士たちと一緒に、兵舎の前で昼餉を取る。
ならば、昼餉の時刻に兵舎前に行けば、ヘランに会えるだろう。
だが、その時刻まで待っていることが、この時のヨンジュにはできなかった。
強く雨を望む人々の願いを自分の胸だけに収めていることができなかったのだ。