十九.一杯の粥
ヨンジュは年長の女と並んで、兵舎へと向かった。後ろに大鍋を持った女たちと、器を抱えた少女たちが続く。
兵舎にやってくると、腹を空かせた兵士たちが彼女たちの到着を今か今かと待ち構え、兵舎の外にあふれていた。
彼らは始め、ヨンジュに気が付かなかった。
よほど空腹だったのだろう。炊事場の女たちが、大鍋を地面に置くと、我先に鍋の周りに群がってきた。
少女たちの手から、年長の女が器を受け取ると、柄杓で大鍋から粥をひと掬いする。
湯気の立った粥が器に流し込まれた。
おおっ、と男たちの間から歓声が上がる。次々と手が伸びてきて、その一杯の粥が奪い合いになった。
「順に! きちんとお並び! 粥はいっぱいあるよ!」
柄杓を持った女が声を張った。
だが、腹を空かせた獣のような男たちは聞く耳を持たない。
別の大鍋でも、他の柄杓を手にした女たちが困ったように眉を顰めながら、せわしなく器に粥をよそっている。
しばらくの間その様子を見守っていたヨンジュに、あの年配の女が振り向いた。
ヨンジュに柄杓を手渡す。
「王女様、おできになられますか?」
「やってみるわ」
ヨンジュは、ごくんと唾を呑みながら頷いた。
柄杓の柄を力強く握りしめると、大鍋の中に入れる。
柄杓の中に粥を掬い入れると、ヨンジュが想像していた以上に、柄杓は重たくなった。
器を差し出されて、それを受け取ると、柄杓の重さに耐えながら、ゆっくりと器の中に粥を流し込んだ。
(できた。できたわ!)
ヨンジュの顔が綻ぶ。
そして、笑顔を浮かべたまま、目の前に立っていた男に粥を差し出した。
「はい、どうぞ。お腹いっぱいに食べてね」
男は器を片手で受け取り、即座に食べようとした。
だが、すぐに、はっと気が付く。今、自分に粥を差し出した人物がいったい何者であるのかを!
「ま、ま、まさか! そんな、まさか、王女様?」
「え? 王女様」
「なんだって?」
「王女様だって?」
たちまち、その場は騒然となった。
皆、ヨンジュに視線を向け、唖然と口を開いた。
食べかけていた粥が口から流れ出てしまった者もいる。
あまりにも驚いた彼らは、叩頭することを忘れて、ヨンジュを見つめたまま立ち尽くした。
「なぜ、王女様がここに?」
ヨンジュは小さく笑みを浮かべる。彼らの驚きが滑稽に見えたのだ。
ヨンジュは柄杓を持ち直すと、粥を次の器に盛った。
しかし、未だ驚きの冷めない彼らは誰も、王女の手から器を受け取ろうとしない。
ヨンジュはますます可笑しくなって、くすくすと笑みを零した。
「次の人は誰? 皆、お腹が空いているのでしょう? 食べたくないの?」
まだ粥を受け取っていない兵士に視線を流すと、小首をかしげる。
「それなら、今朝一番、訓練を頑張った人に、この粥を贈るわ。――それはきっと、貴方ね」
ヨンジュは目の前にいた兵士に器を渡した。
すると、器を渡された兵士の瞳が大きく見開かれる。
器を見、ヨンジュの顔を見、そして、もう一度、器の中の粥を見やると、その暖かさを両手で抱え込むと、表情を輝かせた。
「ありがとうございます、王女様!」
「午後も頑張ってくださいね」
「はい!」
ヨンジュは、その兵士に向かって柔らかく微笑んだ。
それは、ヨンジュにとって、ごくごく自然に浮かべた笑顔だった。
そして、それは王宮では久しく見せることのできなかった笑顔だ。
目の前の兵士の顔が赤く染まる。
耳まで熱く染まってしまった彼は、まるで石になってしまったかのように、その場で固まってしまった。
すると、他の兵士が彼を勢いよく押しやって、ヨンジュに向かって両手を差し出した。
「王女様、わたしにも! わたしは今朝の訓練で誰よりもたくさんの的に矢を射ました!」
「待て。わたしだ。わたしこそ、王女様から粥を賜るにふさわしい。わたしは模擬試合で一番勝ち抜いたのだ」
別の兵士だった。
豊かに髭を生やした、立派な体躯をした男だ。ヨンジュは頷いた。
「それでは、貴方にも粥を」
器に粥を盛ると、髭の兵士にそれを手渡した。
「次も誰にも負けず、最後まで勝ち抜いてくださいね」
「もちろんです、王女様。わたしは誰にも負けません。トガム兵士にも決して!」
「頼もしく思います」
ヨンジュは瞳を細めて微笑んだ。そして、次の器に粥をよそる。
「さあ。次はどの勇士にこの粥を捧げましょう?」
「それは俺が受けよう」
ヨンジュが高く上げた器を、横から取った者がいた。
なんて不遜な。いったい何者かと、ヨンジュが視線を向けると、それは他の誰でもない、ヘランだった。
彼はジヌを傍らにつけ、ヨンジュの正面に立つ。
「ヘラン?」
「自分で言うのもなんだが、俺もそこそこ働いたと思うのだが。誰か、これを俺が賜ることに異議のある者はいるか?」
ヘランは器を片手に掲げ、その場にいる兵士たちを見渡した。
すると、兵士たちは、からからと笑い声を上げる。
陽気に、食べていた器を匙で叩き、音を鳴らす者もいた。
「異議など、あるはずがありません」
「そうですとも、ヘラン様」
「まったくヘラン様こそ、王女様の粥を賜る栄誉にふさわしい」
「そうか。では、遠慮なく頂こう」
ひとつ頷くと、ヘランは片手で持った器に口を付け、中の粥を啜った。
兵士たちの間から、笑いとも歓声ともつかない声が上がった。
皆、ヘランを暖かな眼差しで見つめている。
やがてヘランは器を炊事場の少女に返すと、口元を拭い、別の器を少女から受け取った。
ヨンジュに振り返る。
「ヨンジュ、それを」
「え?」
ヘランはヨンジュの手から柄杓を奪うと、器に粥を注ぎ、それをヨンジュに差し出した。
「お前の今朝の働きは、俺が認めよう。受け取れ」
「……」
ヨンジュは、器とヘランの顔を見比べた。
「私、これを受け取ってもいいの?」
「ああ」
恐る恐る両手を広げると、ヘランがその上に器を乗せてくれた。
もはや粥は冷め始めていて、湯気がない。
だが、木で作られたその器は、ヨンジュの両手の中に確かな暖かさを灯していた。
「ヨンジュ、お前も空腹だろう。あとは他の者に任せて、それを食べるといい」
「でも、まだ途中で。すべての者に食事が回っていません」
「王女様、これはわたしどもの仕事です。どうぞ、お先に食事をお取りください」
炊事場の女が、ヘランとヨンジュの会話に口を挟む。
ヘランは彼女の方に視線を向け、小さく頷くと、ヨンジュの肩を抱き、歩みを促した。
兵士たちと同じように地面に腰を下ろして、ヨンジュも食事を取る。
傍らにヘランが腰を下ろし、ジヌも自分の食事を持って座っている。
「分かっただろう、ヨンジュ」
「何がですか?」
粥を掬った匙を器に戻して、ヨンジュはヘランの顔を見上げた。
「粥は粥でも、お前が手渡した粥は、『王女の粥』になる」
「王女の粥?」
「それを賜ることは、栄誉を受けることだ。己の働きを認めて貰い、強いては、己という存在を認めて貰ったということになる。――あの兵士は、お前から栄誉を受けた。王女のお前に認めて貰ったのだ」
ヨンジュは先ほどの、髭を豊かに生やした兵士に視線を流した。
ヨンジュから受け取った粥を夢中で食している。
ヘランは続けた。
「あの兵士は、以後、王女のお前に応えようと、命を賭して戦場で剣を振るうだろう」
「粥一杯で、ですか?」
(違う)
ヨンジュは己の両手の内にある器に視線を落とした。
――粥は粥だ。
意味があるとしたら、粥自体ではなく、ヨンジュが王女であるということに意味があるのだ。
王女のヨンジュが、ひとりの兵士に粥を手渡した。そのことに意味がある。
「王族が民を労うとは、こういうことなのですか?」
当たり前のように並ぶ毎度の食事に、ヨンジュは無性に感謝したくなった。
だから、炊事場の女たちに感謝を告げた。それは、ヨンジュの心からの言葉だった。
だけど、それだけでは王族の行いにはならない。王族の勤め。ヘランのいう、王族の労いにはならないのだ。
なぜなら、それは、子が母に抱く感謝と等しいからだ。
そう、ヨンジュが問えば、ヘランは小さく笑みを浮かべて肩を竦めた。
そして、くしゃりとヨンジュの頭を撫でた。
「単に、物を与えれば良いというものではないがな」
「認める、ということなのですね?」
――では、ヘランは?
今、ヨンジュの手の内にはヘランから受けた粥がある。
彼は、ヨンジュの働きを認めると言ってくれた。
(本当に? 本当にヘランは、私を認めてくれたの?)
ヨンジュは再び匙を手に取った。
質素な食事だ。王宮にいた頃とは比べようにない。だけど――。
すっかり冷めきっていて、暖かいはずがない。
それなのに、ヨンジュの胸の内は熱く、苦しいくらいに騒いでいる。
最後の一匙を口に入れながら、ヨンジュはすぐ傍らにヘランを感じていた。
(ねぇ、ヘラン。無力な私を王女として認めてくれるの? 私、ここにいてもいいの?)
いても良いのだ。そう思いたくて、もっともっと彼に認めて貰いたくなった。
――ヘランに認めて貰いたい。
もっと彼の役に立ちたい。もっと彼の、彼が護ろうとしている私たちの国のために。私は、ここにいたい!