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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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一.祈雨祭


 ――できない。


 そう言えたのなら、どんなにか良かっただろう。

 哀れな少女は、恨めしいほど青く澄んだ(そら)に向かって両腕を突き上げた格好で、かれこれ半刻も祭壇の上に立ち続けていた。

 容赦のない日差しを浴びて、少女の額に玉のような汗が浮かび上がる。

 だが、少女はその汗を拭うことを許されない。

 昊に掲げ続けた両腕は痺れ、自分の物とは思えないほどに感覚がない。

 肩が張っている。重い。腕が――。それでも、少女は両腕を昊に向かって掲げ続けるしかなかった。


「ヨンジュ」


 不意に掛けられ声に少女――ヨンジュの肩が大きく震えた。

 すぐに振り返ることはできなかった。


「もういい。降りて来い」


 感情のない声だ。

 労るでも、慰めるでもなく、まるで厄介者に向けて投げつけられた言葉。

 ヨンジュは、あれほど下ろしたいと思っていた両腕を下ろすこともできず、体を固めた。

 いや、動くことができなかった。

 ため息が漏らされる。

 祭壇を上がってくる足音が響いて、すぐ背後に気配を感じた。肩を叩かれる。


「ヨンジュ。もういいから、祭壇を降りろ」


 先程よりも語尾を強めて言われた言葉に、ヨンジュは顔を背け、祭壇の周りに視線を流した。

 そこには、厳かな衣装を身に纏い、ヨンジュと共に天に祈りを捧げていた数十人の巫女たちが胡座を掻いて座っている。

 ヨンジュは顔を強ばらせる。彼女たちは皆、冷めた瞳でヨンジュを見上げていた。

 力が抜けたように、ヨンジュは両腕を下ろした。

 何とも言い難い絶望感が静かに静かに心を満たしていく。

 鉛のように重たい頭を俯かせながら、ヨンジュは祭壇を降りた。

 引きずるような足取りで巫女たちの脇を抜けると、貴族たちの囁きが聞こえてきた。

 貴族たちは、この祈雨祭のために国中から神殿に集められた。

 しかし、いっこうに雨の降る気配はない。

 彼らは昊を仰ぎ、気怠そうに孔雀の羽の扇を大きく揺らした。囁き声は、その扇の陰から響く。

 朱色の衣を身につけた大臣たちは玉座の左右に居並び、ヨンジュが玉座の方へと歩み進むのを無言で見据えている。

 ヨンジュはますます顔を俯かせた。

 玉座は、神殿の主殿前に設けられている。これは祭事の時のみに設けられる玉座で、王宮のそれに比べて簡易なつくりをしている。

 玉座の主は、ヨンジュの父親だ。

 父王の前までやってくると、彼はヨンジュを自分の傍らに呼んだ。

 ヨンジュは言われるままに玉座の脇に移動した。


「ヨンジュ、お前はまだ幼い」


 父王は皆に聞こえるように声を響かせると、ヨンジュの肩を抱いた。

 ヨンジュは自分が情けなくなった。唇を噛みしめ、項垂れる。


「申し訳ございません、父上」


 呟くような謝罪の言葉と共に、ヨンジュの漆黒の瞳が大きく揺れた。

 もう幾度目の失敗だろうか。

 その度に自分は父王を失望させている。

 ヨンジュには微笑んでくれるが、その細められた父王の瞳の奥は悲しみで溢れている。ヨンジュを不甲斐なく思っているに違いないのだ。

 ヨンジュは無力だ。

 父王はヨンジュの失敗を幼さのせいだと言うが、ヨンジュはもう十五歳である。

 そろそろ良き相手を、と言われるような年齢の娘を幼いとは言わない。

 幼いからできないのではなく、元よりヨンジュには力がないのだ。

 ヨンジュは潤んだ瞳で昊を仰いだ。太陽の強さで涙を乾かそうと思った。

 ふと、祭壇に視線が向く。ヨンジュが降りた祭壇に青年が立っている。

 ――従兄(いとこ)のヘランだ。

 彼のすらりとした身体は、まるで獣のようで、重さを感じさせない。

 だが、けして痩せているわけではなく、身のこなしが軽やかなのだ。

 涼しげな顔立ちは、常に宮女たちの噂の的で、貴族の娘たちの心をも捕らえていると聞く。

 祭壇の周りを囲む巫女たちは、ヘランに向かって恭しく叩頭し、彼が昊に向かって両腕を掲げるのを合図に、祈りの言葉を再開させた。

 ヘランが昊を仰ぐ。

 すると、その昊の青がヘランに注がれたかのように、彼の黒髪が青く青く染まった。

 青白い光がヘランの体を包む。柔らかなその光は、彼の両手に集まり、大きく育った。

 光が放たれた。ヘランの両手から昊に向かって一直線に昇っていく。それはまるで蒼い龍が天に昇っていく姿に見えた。

 やがて昊は陰った。

 暗い雲へと姿を変えた青白い光が、ヨンジュを痛いほど眩く照らしていた太陽を覆い隠した。

 ざわめきが起こる。それは期待に満ちて民の口々から響いた。巫女たちもいっそ祈りの言葉を強く響かせる。

 水の匂いにヨンジュは、はっとして昊を仰いだ。

 ぱらりと、ヨンジュの額に昊からの落ちた最初の雫が散った。

 ぱらり、ぱらり、と続けて大粒の雫がヨンジュの顔が濡らす。


 ――雨だ。


 歓声が上がった。

 手を取り合い喜び合う民の姿。雨を強く望んでいた彼らは、神殿の前庭(にわ)を囲むようにして外から、その中央に木材で高く組まれた祭壇を見守っていた。

 彼らは大声で叫ぶように、次々に感謝と賞賛の言葉をヘランに浴びさせる。

 喜ばしげなのは貴族たちも同様で、彼らは頼もしげに祭壇の上のヘランを仰ぎ見ている。

 そして、大臣たちは長く続いた日照りの終焉に安堵した様子だ。

 ヘランの両腕が下ろされた。

 巫女たちは祈りの声を止め、ヘランにかしずいた。その瞳は畏敬の念が強く込められている。

 雨音が強まる。まるで、すだれのように雨が降る。

 身分関係なく誰もがずぶ濡れになったが、眉を顰める者は誰もいなかった。

 ――ただひとり、ヨンジュを除いて。

 雨のすだれの向こうに、ヨンジュはヘランの姿を眺めて、己の胸に拳を当てた。

 喜びの世界から自分だけが、すだれの外に遮断されてしまったかのように感じた。

 止むことを知らない歓声に父王が玉座から腰を上げる。

 王にも感謝を示す民に向かって片手を振り応えながら歩み、父王は祭壇に上がった。ヘランの傍らに立つ。


「よくやった。これで再びクムサの地は富み、栄えるだろう」

「恐れ入ります、王様」


 父王はヘランの肩を軽く叩き、民に披露するかのように大きな動作で彼を労った。

 すると、民はますます歓声を上げ、国の繁栄を願い、王と王子を讃えた。

 その様子を取り残されたかのように(から)の玉座の傍らで見つめるヨンジュは、たしかにすだれの外の存在だった。

 誰もヨンジュを見ていない。

 誰もヨンジュなんかに気をとめない。

 忘れ去られてしまった存在だ。

 どうしようもなく居たたまれなくなって、ヨンジュはそっとその場から離れた。


(私なんて。私なんて)


 今日の祈雨祭のためにあつらえた衣装が、ずぶ濡れになり、べったりと足に絡みつく。歩きづらい。

 ヨンジュは、むきになって、激しく雫を飛ばしながら足を動かした。

 ――惨めだった。

 無力な自分は王の傍らに立つ資格などない。

 まして、王の娘としてかしずかれ、大切にされる価値もない。

 祭事用の衣装を身に着けている自分の姿は、なんて滑稽だろう。何の役にも立たないくせに。

 しだいにヨンジュの足取りは荒く、速くなってくる。

 そして、瞳から涙がこぼれ落ちたのを合図に、大きく袖を振って駆けだした。


(嫌だ。もう嫌だ!)


 どうして、と思う。無力な自分がいる一方で、どうしてあんなにも優れた従兄がいるのだろう。

 六つ年上の従兄――ヘランは、六つの年齢差を差し引いてもヨンジュよりも遙かに優れており、それは誰の目にも明らかだった。

 彼は国王のどんな命令でもそつなくこなすことができ、しかもヨンジュの目には何の努力もなく容易にやり遂げているように見えた。

 ヨンジュがどんなに努力しても何一つ上手にいかず、失敗ばかりだというのに。

 そんなヘランを前にすると、ヨンジュはいつも泣きたくなる。

 自分という存在がどうしようもなく嫌になるのだ。


(なんて役立たずなの! 私なんか、私なんか、いっそ、いない方が良かったのに!)


 ヨンジュは唇を噛みしめて、俯いた。

 一刻も早く誰の目にも触れない場所に逃げ込み、閉じ籠もってしまいたかった。

 神殿の殿舎(たてもの)を外から沿うように進むと、やがて王宮の後苑(にわ)に出る。

 四季の花々を植えられた後苑には後宮に続く入り口がある。ヨンジュは脇目も振らず真っ直ぐに後宮に設けられた自宮へと急いだ。

 自室にたどり着く頃には、ヨンジュの頬は、雨と涙でぐちょぐちょに崩れていた。

 もぎ取るようにして髪から(かんざし)を抜き取ると、背後に放り、髪を乱して寝台に倒れ込んだ。


「私なんか、消えてしまえばいいのに……」


 ヨンジュは、自分が哀れで仕方がなかった。



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