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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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十八.無知

 

 翌日。ヨンジュは、ヘランの言葉に従い、皆の仕事場を巡ることにした。

 朝餉を取り終えて、まず向かった場所は女たちが矢や鎧をつくっている場所だ。

 ヨンジュは彼女たちに、ゆっくりと歩み寄ると、両手で己の裳を握りしめた。


「お、おはよう」


 掠れた声が出る。

 父王や侍女たち、王宮の者たちとしか口を利いたことのないヨンジュの表情はひどく強張っていて、絞り出した声は、聞き取り難いほどに小さな声だった。

 それでも、ひとりの女がヨンジュに気が付いて、動かしていた手を止めると、その場に叩頭した。


「おはようございます、王女様」


 すると、他の女たちもヨンジュに気が付き、作り掛けの矢を穂織投げると、慌てて、ひれ伏した。


「お、王女様。おはようございます」

「おはようございます、王女様」


 彼女たちは何事かと、頭を下げたままに視線を交わしあう。

 今まで、ヨンジュが姿を見せることはあっても、遠くの方から眺めているだけで、けして自分たちの方には近づいてこなかった。

 まして、声を掛けてくるなど無かったことだ。

 何か、自分たちに粗相があったのだろうか。不安を胸に抱きながら、ヨンジュの次の言葉を待った。

 しかし、ヨンジュは彼女たちの前で立ち尽くしたまま、口を開こうとしない。

 なぜなら、ヨンジュには次の言葉など無かったからである。

 労えと言われても、どのような言葉を掛けて良いのか分からない。

 ヘランが、兵士たちや鍛冶場の親方に掛けていたような気安い言葉など、ヨンジュには持ち合わせていなかった。

 気安く接することのできるほど、ヨンジュは彼女たちのことを何も知らないのだ。

 ヨンジュは下唇を、きゅっと噛みしめた。そして、踵を返す。


 部屋に戻ってしまいたかった。

 だが、脚に纏わりついてくる裳を蹴り上げるようにして、ヨンジュは村の外へと歩いた。

 ここで部屋に戻ってしまったら、負けてしまうような気がした。

 ヘランは、王族の勤めだと、ヨンジュに告げたのだ。

 王女、王女、と皆がヨンジュを呼んで、跪いてくれる。

 それなのに、王族の勤めだとヘランが告げたものを果たせないなんて、許されない。

 できない、なんて言ってしまったら、ヨンジュが今日まで生き残っている意味がまるでないではないか。

 第一、皆を労うことなど、とても簡単なことのように思えた。

 少なくとも、矢をつくったり、兵士のように剣を振るったり、鉄を打ち、剣をつくったりすることよりは格段に簡単だ。


(できない、なんて言えない)


 皆が働いているのに、自分だけが部屋に籠っている日々なんて、もう嫌だ。

 何かしたい。何かしなければ。

 何もできない自分なんて、王女なんて、存在意義がない!

 ヨンジュは村を出て、オクチョン山を背に進む。

 やがて、訓練場までやって来ると、ヨンジュはそこで剣を振るう兵士たちの姿に視線を向けた。

 兵士たちはヨンジュがやってきたことに気付きもせずに激しい訓練を続けている。

 刃を潰した剣で打ち合っている様子は、命を懸けた本物の戦争のようだ。


(……駄目だわ。とても声を掛けるなんて、できないわ)


 ヨンジュには声を掛ける隙が、まったくないように見えた。

 声を掛けたとしても、ヨンジュの小さな声など、彼らが発する声やぶつかり合う剣音に打ち消されてしまうだろう。

 ヨンジュはしばらく彼らの訓練の様子を眺めてから、その場を離れた。


 次に向かった場所は鍛冶場である。

 昨日、ヘランと通った道筋をたどるようにヨンジュは歩む。

 鍛冶場に近づくと、昨日同様、熱気が迫ってきた。鉄を打つ音が響く。

 簡易的につくられた建物の中を、ヨンジュは覗き込んだ。

 濛々と、煤の混じった黒い煙が立ち込めている。その中で作業を続ける男たちの姿が見えた。

 皆、額に薄汚れた布を巻いている。額に浮かんだ汗が目に流れて来ないようにするためだ。

 彼らは全身、汗でぐっしょりと濡れていた。

 ヨンジュは建物の中を注意深く見渡したが、ヘランと親しい親方の姿を見つけ出すことができなかった。

 親方の方も、昨日はヘランの姿を彼の方から見つけて駆けつけてきたというのに、ヨンジュが姿を見せても、ヨンジュに気が付きもしない。

 鉄を懸命に打つ音が幾重にも聞こえてくるだけだ。


 しばらくヨンジュは鍛冶場に留まり、職人たちの姿を見守っていた。

 彼らが作り出す熱気は、とても慣れることのできるものではなかった。

 だが、それさえ我慢すれば、彼らの仕事を眺めていることは、なかなか興味深いものだ。

 炎に溶かされた鉄は、太陽のように赤い。

 そして、それは今まで見たことのある、どんな宝石よりも美しい輝きを放っている。

 鉄は冷たくて、鋭いものだと思っていた。

 ヨンジュは森で剣先を喉元に突き付けられたことを思い出す。

 あのとき、剣を美しいとは少しも思わなかった。

 けれど、炎から生まれ出た剣は、炎を纏っているかのように赤く燃え、夕暮れ刻の太陽のように美しい。

 いくら眺めていても飽きないものだった。


(知らなかったわ。剣って、あんな風につくるものなのね)


 そういえば、ヨンジュはここに来て初めて、矢や鎧をつくる様子を目にした。

 矢や鎧、剣、それら戦争で使う武器だけではない。

 ヨンジュが毎日、何の感慨もなく口にする食べ物もそうだ。

 村人は戦の準備を手伝う合間に、彼ら本来の仕事もこなしている。

 本来の仕事。――すなわち、畑仕事だ。

 矢をつくる女たちが交代で、鍬を手に畑に向かう姿を、ヨンジュはこれまでに何度も目にしている。


(そうなんだわ。剣をつくるために、職人たちがあんなに汗を流して鉄を叩く必要があるように、食べ物だって、汗を流して手を掛けなければ収穫できないのよ)


 頭では分かってはいたが、心のどこかでは、王族が雨さえ降らせれば、食物は勝手に育つものだと思っていた。

 それを収穫することが農夫の勤めで、収穫は王が降らせた雨の恵みなのだから、民は王に税を納めるものなのだと。

 だから、王はただ、雨を降らせることができればそれでいいのだ。そう思っていた。


 ――働く民を労うことが王族の勤め。

 ヘランが告げた意味がまだ分からない。

 今はただ、ヘランがそう告げたからそれに従おうとしているだけだ。

 だけど、ヨンジュは気付き始めていた。

 王は雨を降らせるだけではいけないのだと。

 ――雨を降らせることができる。

 それが、王族のすべてではないのだということを。


 やがて、炊事場の方から女たちの声が聞こえ、ヨンジュはそちらの方に視線を向けた。

 ヨンジュにとって食事とは、刻限になれば、自然と用意されるものだ。

 だけど、それは間違っている。

 誰かが王女のために食事を用意しているから、ヨンジュはそれを口にすることができるのだ。

 その誰かの顔を、ヨンジュは確かめたくなった。

 これまで一度も感謝したことのない、その誰かに無性に何かを告げたくなって、ヨンジュは裳の裾をたくし上げると、炊事場に向かって駆けた。


 炊事場に、昼餉を用意する火が灯っている。

 忙しく声を掛けあう女たちの姿が見えて、ヨンジュは足を止めた。

 食器がぶつかり合う音、野菜を小さく切る音が響いている。

 ヨンジュはそれらの音に負けないように、大きく息を吸ったあと、力いっぱいに声を張った。


「いつも食事をありがとう!」


 がしゃーん。

 木で作られた器が何枚か地面に落ちて、がらがらと音を立てて転がった。

 しかし、それ以外の音はすべて止まる。食事を準備していた女たちの動作もだ。

 彼女たちは突如として目の前に現れた王女に目を疑い、放心したようになってしまった。

 やがて、ひとりが我に返り、慌てて叩頭した。


「お、お、王女様!」

「王女様!」

「なぜ、このような場所に?」


 次々に彼女たちはヨンジュにひれ伏した。

 ヨンジュは頭を大きく左右に振る。


「やめて。違うの。私、貴女たちの仕事の邪魔をしに来たのではないのよ。いつも感謝しているわ。ここに来てから、私、何もできていないのに、それでも、そんな私の食事を貴女たちが用意してくれたでしょう? 毎日、毎日。ずっと」


 ヨンジュは一番手前にいた女の腕を掴むと、立つように促した。

 他の女たちにも、立ち上がるように告げる。


「私、料理をしたことがないの。だから、何もできないかもしれない。けれど、手伝いたいわ。ここに居てもいいかしら?」

「王女様、とんでもないことでございます」

「そうです。とんでもありません。ここは王女様のいらっしゃる場所ではございません」

「貴女たちの仕事の邪魔はしないわ。見ていたいの。それでも、駄目かしら? それに、きっと、食器を運ぶことなら、私にだってできるわ」


 女たちは顔を見合わせた。

 中でも年長の女がひとり、ヨンジュの前に進み出ると、渋く顔をしかめて、口を開いた。


「それでは王女様、しばしお待ちください。直に、兵士たちの昼餉ができあがります。それをご一緒に兵士たちのもとに運んで頂けますか?」

「兵舎まで運ぶのね?」

「はい。それまでは、席をおつくりしますので、そちらでお待ちください。ここは火がございます。王女様には危険なのです」

「分かったわ。貴女に従うわ」

「ありがとうございます」


 ヨンジュは女に従って炊事場の隅に移動すると、そこに置かれた木箱の上に腰を下ろした。

 こんな座り心地の悪い椅子は初めてだったが、ヨンジュは不満を漏らさなかった。彼女たちの仕事を見守る。

 やがて、大鍋いっぱいに粥が出来上がった。

 粥を入れる、木で彫られた器が幾つも用意され、ヨンジュと同じ歳くらいの少女たちが次々と、その器を両腕に抱えていく。

 大鍋は全部で十二あり、一つを二人の女が持ち運ぶ。

 彼女たちの後ろに器を抱えた少女たちが並ぶと、年長の女がヨンジュの元にやってきた。


「王女様、お待たせいたしました。料理を運びましょう」

「ええ」


 ヨンジュは木箱から立ち上がった。

「私にも運ぶものがある?」

「……」


 女は言葉を詰まらせ、それから自分が手にしていた柄杓をヨンジュに差し出した。


「それでは、王女様にはこれを運んで頂きます」

「これは?」


 木で彫られた古びた柄杓を手にすると、ヨンジュは女に問う。

 ヨンジュにとって見たことのない道具だった。まるで大きな匙のように見える。


「柄杓でございます。それで、鍋から器に粥を移し入れるのでございます」

「私にもできるかしら?」

「それでは、まず、わたしがお手本をお見せいたしましょう」

「本当に? ありがとう。嬉しいわ」


 ヨンジュは柄杓を胸に抱えた。

 手本を見せてくれるということは、ヨンジュにも仕事を任せてくれるということだ。

 彼女たちを手伝うことができる。それは、何もできない自分ではなくなるということのような気がした。


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