十五.胸の熱さ
半日かけて、ゆっくりと山を下りた。
そのため麓に着く頃には、二人はすっかり薄闇の中だった。
踏み締める度に黄色い砂が舞う渇いた大地を、山を背にして南西へと進んで行くと、やがて小さな灯りが見えてきた。
その暖かな灯りに向かって、更に歩む。
すると、暖かな灯りは、二つ、三つと増えてきて、ヨンジュはそれが人家の灯りであることを知った。
おそらくヘランはそこに村があることを承知していたのだろう。
ヨンジュの手を引きながら、真っ直ぐに村へと進んでいく。
だが、いよいよ村の入り口だというところで、ヘランは歩みを止めた。そこに人影を見つけたのだ。
人影が男のものであること、武人であることは、見てすぐに分かった。
ヘランはヨンジュを背中に庇うと、剣の柄に手を伸ばした。
――オクチョン山はクムサ国にとって神聖な山だ。その麓の村まで既に敵の手に落ちてしまったというのだろうか。
ところが、人影は二人に向かって膝を折った。
「よくぞご無事で」
「ジヌ?」
聞き覚えのある声にヨンジュは驚いた。
それは、数日前に森で別れたジヌの声だった。
闇の中から見慣れた厳つい顔を見出して、ヨンジュは彼に駆け寄った。
腕を引いて、立ち上がるようにと促す。
「本当にジヌだわ。よく無事で」
「他の者も共にいます。この村に」
ジヌは膝に砂をつけたまま後方を振り返った。
つられるようにしてヘランとヨンジュも彼の後方に視線を転じれば、人家の陰から数十の人影が現れた。
「皆、クムサの兵士たちです。山頂に降る雨を見て集まってきたのです」
彼らは、ヘランが戦場で別れた兵士たちだった。
一人でも多く生き延びて欲しいと願って逃がした兵士たちが、ヘランが降らせた雨を見て、再び彼のもとに戻ってきたのだという。
「あの雨はヘラン様の意思。このままトガムに負けたままにはならないという。そうでございましょう、ヘラン様!」
「我々も共に戦いたいのです」
「ヘラン様と共に!」
ヘランに向かって口々に訴える兵士たちに、ヨンジュは胸を突かれて立ちすくんだ。
――まだクムサ国は滅びていない。
山頂で告げられたヘランのその言葉を、この時ようやく理解できた気がした。
そして、ヘランが己の胸の前で手を重ね、兵士たちに向かって礼を取った時、ヨンジュは完全に理解した。
ヨンジュもヘランも泥まみれだ。服は裂け、全身のあちらこちらに傷があり、みすぼらしい姿をしている。
それでも、兵士たちに感謝の意を示したヘランの姿は、誰もが息を呑むほど鮮やかに美しくかった。
皆、改めて思い知ったのだ。――彼は自分たち王子である、と。
彼はクムサ国の王子であり、指導者であり、主であり、クムサという国そのものだ。
――ヘランが生きている限り、クムサ国は滅びない。
そう、まだ滅びていないのだ。人々が彼を国だと認め続けている限り。
兵士の一人が声を張り上げた。それは、自分自身を奮い立たせる言葉。
すると、それに続くように、他の兵士たちも手にしていた武器を夜空に掲げて、咆吼を上げた。
それは間違いなく、兵士たちが自分たちの王を自ら選び出した瞬間だった。
ヨンジュは己の胸に手を置きながら、その光景を、ヘランより数歩後ろで見守っていた。
不思議な心地である。悔しいとか、居たたまれないとか、そういった気持ちがまったく湧いてこない。
祈雨祭の時のように、皆がヘランだけを讃え、従い、ヨンジュの存在など忘れてしまったかのようだった。
だけど、あの時にいつも感じていたような疎外感はない。
ただ、ヨンジュは、兵士たちと同じような想いで、ヘランを見つめていた。
ふと、ヘランの瞳がヨンジュを映した。
ヨンジュが驚いて小さく肩を揺らすと、ヘランはわずかに怪訝そうな表情を浮かべてからヨンジュに向かって手を差し伸べてきた。
躊躇しながらもヨンジュがその手を取ると、どこともなく声が響いた。
「王女様、万歳!」
耳を疑って、ヨンジュは声の主を探そうとした。だが、声は次々と上がる。
「クムサ国、万歳! 王女様、万歳!」
「ヘラン様、万歳! 王女様、万歳!」
「クムサ国、万歳! ヘラン様、万歳!」
兵士たちが声をそろえて何度も何度も、万歳、万歳、と繰り返す。夜の闇が裂けるほどの大きな歓声だ。
その声がヨンジュの胸を打つ度に、ヨンジュの胸は、沸き立つように熱くなった。
居てもたってもいられないような、是が非でも彼らに応えなければならないような、そんな想いに駆られる。
(そうよ、私はクムサの王女なのよ。この国の王女なのだから、この国を、この人たちを、護らなければならないんだわ!)
こんな気持ちは初めてだった。こんな熱い想いに駆られたのは。
ヨンジュの体が震え出す。胸の熱さに耐えきれず、呼吸が喘いでしまう。
膝が大きく嗤って、ヨンジュは縋り付くように、ヘランの手を握る手に力を込めた。
「それでいい、ヨンジュ。そのまま俯くな。顔を上げていろ」
耳元で囁かれて、ヨンジュは弾かれるようにヘランの顔を見上げた。
だが、ヘランは、もうヨンジュを見ていなかった。
彼はヨンジュの手を引いて歩き出すと、兵士たち一人ひとりに言葉を掛けながら、彼らの間を歩き進んだ。やがて、ジヌの案内で村に入る。
ああ、とヨンジュは思った。ヘランがこんなにも自分の近くにいる。
それは王宮にいた頃には、考えられないような、有り得ないことだ。
繋いだ手が、じんじんと熱い。それは胸の熱さとは異なった、何か特別な力を宿しているかのようだ。
戸惑いはあっても、ヨンジュはその熱さが不快ではなかった。
◇◇
「かつてこの村は、クムサの大地が旱魃に見舞われていた時、もっとも大きな被害を受けました。故に我らは、他のどの村よりも初代クムサ王にご恩があります」
村に入ると、すぐに村長が駆け寄ってきて、ヘランとヨンジュの足下に叩頭した。
枯れ木のような老人の白く長い髭が、黄色く渇いた砂にまみれている。
だが、その声は太く、はっきりと響き、彼の意思の強さが感じられた。
「王家が風雨を操るようになって久しくなった今も、我らはそのご恩を忘れてはおりません。どうぞ国のお役にたててください」
ヘランは頷くと、村長を立たせた。
こうして、ヨンジュとヘランは村に留まることとなり、ヘランはクムサ軍の拠点を得ることになった。




