十四.下山
まさか山を下りることになるとは思っていなかったヨンジュだ。
あの崖から身を投げることだけを考えてオクチョンまでやってきた。
そして、自分の終着地はそこなのだと思い、力を振り絞るようにして山を登った。
――ここでは死ねない。私の死に場所はここではない。だから、こんなところで力尽きてはいけない!
そう思い、懸命に足を前に運んできた。
ところが、ヨンジュは死ねなかった。
まだ国は滅びていない、とヘランに言われ、ヨンジュは思い止まったのだ。
ヘランはトガム軍をクムサ国から追い払うのだという。
一度戦場で負けた相手だ。できそうにないと思うと同時に、ヨンジュには、ヘランならできるかもしれないという予感があった。
ヘランが纏う水の匂い。それこそヨンジュの思い描くクムサ国だ。
人々は皆、水を欲するように、彼を求めるだろう。そして、きっと、彼のある場所が国となる。
――では、ヨンジュは?
多くの者が死んだのに、自分が今、生き残っている意味などあるのだろうか。
ずぶ濡れの裳が脚にまとわりついて歩きづらい。
加えて、疲労感がどっとヨンジュの肩にのしかかっていた。
膝が嗤う。足の裏がずきずきと痛んだ。目眩がして、くらくらと視界が歪む。
座りたい。休みたい。気持ち悪い。ヨンジュは泣きたくなった。
ヨンジュは後ろを振り振り返る。すると、今からでも遅くないように思えた。
――駆け戻り、あの崖から飛び降りよう!
ヨンジュは歩みを止めた。
「貴方の勝利を祈ります」
疲れ切った声は擦れていた。なんだか、余計に惨めに思えた。
ヘランが振り返り、怪訝な顔をする。
「貴方の勝利を河伯のもとで祈ります」
今度は意味が通じたらしく、ヘランは一言、莫迦な、と言い捨てた。
再び歩き出したヘランを追って、ヨンジュも重たい足を前に動かす。
ぐじゅぐじゅと、ずぶ濡れになった靴が鳴り、ヨンジュの涙を誘う。
情けない気分になった。
ヨンジュを無視するかのように前を歩いていたヘランが、不意に歩みを止めて振り返った。
「疲れたのか?」
疲れていた。けれど、それをヘランに告げたくなくて、ヨンジュは押し黙った。
ヘランはヨンジュに背を向けて、膝を着いた。
「背負ってやる」
「必要ありません」
「疲れているんだろ? だから、そんな莫迦なことを言い出すんだ」
「違います。自分で歩けます」
ヨンジュはヘランを追い越して歩き出した。山を下っていく。
ヘランの言葉に憤り、つい一瞬前まで頂上に駆け戻ろうと考えていたことなど忘れてしまったかのように歩み進む。
悔しさが、惨めさや情けなさを追い払い、怒りと共にヨンジュを支配していた。
後ろから追ってくるヘランの気配を感じながら、ヨンジュは彼のことを想った。
国を取り戻すという使命を抱いたヘランは、ヨンジュの目に揚々として見えた。
ヘランの方が自分よりもずっと疲れているはずだ。それなのに、なぜ彼は自分なんかを背負う余裕があるのだろうか。
(嫌だ。もう二度と、彼に背負われたくない)
ため息が漏らされた。そして、次の瞬間、ヨンジュは手首を取られる。
「何を?」
「手を引いてやる」
必要ありません、と言い掛けて、ヨンジュは握られたヘランの手の固さに気が付いた。
骨張ったその手の、指の付け根に豆ができている。おそらく剣術の練習で作ったものだろう。
(何でもできる人だと思っていた。苦労などしなくとも)
天はなんて不平等なのだろう、と思っていた。
ヘランばかりを愛で、彼ばかりに力を与えた。――そう思っていた。
(彼も努力していたのだろうか?)
ヨンジュはヘランの顔を見上げた。
汗で額に貼り付いている髪。前だけを見つめ、鋭い光を放つ瞳。すっと通った鼻筋。薄い唇。
「あ」
ヨンジュは小さく声を上げた。
「何だ?」
驚いて振り向くヘラン。
二人は足を止めて向かい合った。
「貴方の首に……」
ヨンジュはヘランの首に手を伸ばした。
その首筋に赤い線が走っている。
「ああ、これか」
ヨンジュの手を退け、隠すようにヘランは自分の首を押さえた。
「敵に剣を当てられた。少し切ったが、大したことはない」
「首に剣を?」
ヨンジュは、ぞっとした。
ヘランが生きながらにしてトガム兵に首を切り落とされる様を想像してしまった。
「大したことない? 大したことあります! 首を落とされそうになったのでしょう?」
もうすぐで死ぬところだった。
それが戦場でのことなのか、そこから逃げ、追われている時のことなのか知らないが、ヨンジュと出会うまでに彼は死ぬ思いをしたのだ。
よくよく見てみれば、ヘランの傷はそれだけではない。腕にも、肩にも。
袴のあちらこちらは大きく裂けている。ぼろぼろだ。
こんな姿になりながらも、ヘランは生き延びてきたのだ。
ヨンジュはもう一度ヘランの首に手を伸ばした。彼の手の上から自分の手を重ねる。
すると、手のひらからヘランの体温が伝わってきた。温かい。
そうだ。彼は生きているのだ。だから、温かい。
大勢が死に、ヘランのために、ヨンジュのために犠牲になった者がいたけれど、ヘランもヨンジュも生きている。
そのことを実感すると、ヨンジュは無性に胸が熱くなった。
――ただ生きている、ということを、良かったと思うのはいけないことだろうか。
分からない。
けれど、ヨンジュはどうしてもヘランに告げたくなって、彼を真っ直ぐに見つめ、口を開いた。
「貴方が生きていてくださって、良かったです」