十三.見えない壁
「もういい。ヨンジュ、もういいんだ。お前はもう生け贄になる必要はないんだ」
「王族の勤めを果せと、父上に命じられました」
「叔父上はお前に生け贄になれと言ったか?」
「オクチョンに行き、河伯に願えと。たとえ国主が代わろうともこの地の平穏を護って欲しい、と」
「生け贄になれとは言っていない。ここから飛び降りろとは言っていない」
ヘランは崖の下を指差した。でも、とヨンジュが声を上げた。
「父上は、すでに私は河伯のものなのだから、と」
「クムサの王族は皆、生まれながらにして河伯のものだ。それは王族の皆が、河伯の子孫だからだ」
「ですが、私が河伯のもとへ行けば、たとえトガム国の支配を受けることになってもこの地が涸れることがなくなります!」
「そんな保証どこにあるんだ! それに、まだこの地がトガム国のものになるとは限らない」
「なぜ? 父上は亡くなったのに!」
ヨンジュは自身が荒げた声に、はっとなった。
――そうだ。亡くなってしまったのだ。優しくて大きくて強かった父王は。
誰よりもヨンジュを愛していたテソン王は、もういない。
首だけになってしまった父王の無念さを想い、ヨンジュは涙した。
頬から顎へ伝った雫は黄色い地面の上に落ちて小さな円模様を描く。
だが、それも一瞬。ヨンジュの涙が乾いた大地を潤すことはない。
円模様はたちまち大地に染み入り、消えた。
震えるヨンジュの肩を、まるで遠くの景色を眺めるようにヘランは見つめていた。
自身の言葉に傷付き、寄る辺を無くした彼女が哀れだった。手を伸ばし掛けて、止める。
ヨンジュでなければ、疾うに抱き寄せていた。
ヨンジュと自分との間にはいつだって見えない壁がある。
――情けは掛けない。
いつもヘランはそう固く心に決めていた。
テソン王を前にして思う。ヨンジュは敵だ。
いつか、ヘランを滅ぼす存在。殺される前に殺さなければならない相手。
そんな相手に情けは掛けられない。
それなのにヨンジュの不器用な想いは手に取るほどヘランには理解できて、心を沿わしたくなる。
父王の最後の命令に従い、崖から身を投げようとするヨンジュ。
もしもヒギョンがこの場にいたのなら、ヨンジュの思うままに死なせてやりなさい、と言うだろう。
死にたいと言っているのだから死なせればいい、と。
だが、ヘランはヨンジュの死を見過ごせなかった。
その死に意味がないから。――いや、それだけではない。父王の本当の想いを知らずに死ぬことを哀れだと思うから。
――違う、そうではなくて、ただ無性に思うのだ。
(死なせたくない)
見えない壁。
ヨンジュに情けを掛けないためにヘラン自身がつくった心の壁だ。
自分の心がヨンジュへと向かないように。
――情けは掛けない。
ヘランは頭を左右に振った。
(莫迦な)
ヘランはヨンジュの長い髪に視線を落とした。
黒いはずのその髪は、陽の光を受けて藍色に輝いている。綺麗だ、と思った。
そして、ヘランは深く息を吐き出した。
(情けを掛けない? なぜ? そうする理由など、もはや無いのに? 叔父上は亡くなられたのだ)
テソン王が死んだ。
それはつまり、ヨンジュを王にと考える者が消えたことを意味する。
(もはやヨンジュは俺の敵ではない)
敵ではないとしたら、いったい何だろうか。
――自分と同じ、クムサの王族の生き残り。
それだけではないように感じたが、今はまだ、それ以上の想いを抱くことは許されないような気がした。
ヘランは己の手のひらを見下ろす。
出陣前に感じたテソン王の温もりを思い出して、目を細めた。
――たとえ国主が代わろうとも。
ヨンジュの言葉通りだとしたら、トガム軍が王宮に迫っているという状況でテソン王は、たとえ、と言った。
テソンはあの状況でもクムサ国の存続を信じていたのかもしれない。
河伯の力を持つ甥に生きろと命じ、最愛の娘をオクチョンに送った。
ヘランとヨンジュさえ生き延びれば、クムサ国が滅びずに済むと考えたのかもしれない。
ヘランはヨンジュの俯いた顔を見下ろす。
(見えない壁など、なくていい)
ヨンジュは敵ではない。仲間。
共にクムサの地を護っていく同志だ。
ヘランは恐る恐るヨンジュの肩に手を伸ばした。
指先が僅かに触れると、今までのしがらみが振り切れた気がして、ぐっと力を込めて小さな体を自分の方へと抱き寄せた。
「まだクムサ国は滅びていない。俺もお前もまだ生きている。――俺を一人にするな。俺は国を取り戻す。トガム軍をこの地から追い出すんだ。そのために俺は生き延びたのだと思うから。そして、それが王族の勤めだと思う。お前は俺だけにその重責を負わせるつもりなのか? 俺だけにすべてを押し付けて、ここから飛び降りると言うのか?」
「私には何もできません」
「いるだけでいい。生きているだけで。俺をクムサ最後の王族にしないでくれ」
小さな体はヘランの腕の中で小刻みに震えている。
ヨンジュの暖かな温もりを感じて、ヘランは瞼を閉ざした。
生き延びるために玉座を望んでいた。
けれど、これからは、この温もりを腕の中に抱き続けるために玉座を望もう。
彼女が共にクムサの地を護っていく同志だというのであれば、彼女の傍らに立ち続けるために、全力で国を取り戻そう。
それが、多くを犠牲にして生き残った自分に課せられたことでもあると思うから。
どのくらいそうしていただろう。
ヘランは、自分の胸に耳を押し当てたまま身動ぎもしないヨンジュの頭上に、そっと息を吐いた。
「ヨンジュ、顔を上げろ」
「……」
「俯くな」
ヘランは小さな顎に指を掛けて、半ば強引にヨンジュの顔を上げさせた。
「山を下りよう。これからやらなくてはならないことはたくさんある。まず兵を募らなくては」
このことについてはヘランには考えがあった。
ソルソン山の麓でトガム軍と一戦交えた時、ヘランは半刻も経たないうちに軍を引いた。
そして、散り散りに逃げるように命じ、一人でも多く生き延びるようにと告げたのだ。
もし生き延びた者たちが本当にクムサの王族を求めてくれているのなら、彼らは応えるはずだ。ヘランの呼び掛けに。
彼らに自分の無事を知らせることができたら、数百――いや、数千の兵士たちが駆け付けてくれるはずだ。
ヘランは瞼を閉ざして両手を昊に掲げた。
昊の青がヘランに注がれる。
彼の黒髪が青く青く染まり、青白い光が体を包んだ。
柔らかなその光が彼の両手に集まりると、やがて大きく育ち、昊へと昇っていった。一直線に。
それはまるで蒼い龍が天に昇っていく姿だ。
やがて龍は雲へと姿を変え、太陽を覆い隠した。
(水の匂い)
ヨンジュは昊を仰いだ。
ぱらり、ぱらりと降り始めた雨がヨンジュの顔を濡らした。
ヨンジュは瞳を瞬いた。
すると、雨はまるで滝のようになり、たちまちに渇いた黄色の地面を湿らせ、大きな水溜まりをつくる。
乳白色の世界。少し先も見えないくらいに降り注いでいる。
屋根などない。雨を全身に受け、ヘランもヨンジュもびしょ濡れだ。
けれど、なぜか心地よい。
水気を吸って重くなった服は、まるで抱き締めてくれているみたいだと、ヨンジュは思う。
そして、無性に泣きたくなった。
ヨンジュは昊に向かって両手を掲げて、降り注ぐ大量の雨に向かって、喉が裂けんばかりに泣き叫んだ。
悲しくて、悔しくて、頼り無くて、不安で。
何もかも自分の思い通りになってくれなくて。そんな自分が情けなく、哀れだった。
雨は容赦なく降り注ぐ。
ヨンジュはその雨に逆らうように泣き続けた。
すると、雨は、ヨンジュの悲しみも苦しみも、すべての憂いを洗い流してくれるようだった。
ほんのわずかな時間に嵐のように降った雨が去ると、あとには澄んだ青い昊を残った。雲一つない。
ヘランは降ろした両手をまじまじと見つめ、それからヨンジュに振り返った。
ヨンジュも腕を下ろしている。
「山を下りよう」
ヨンジュは無言で頷いた。