十二.オクチョン山
薄茶色の大きな岩が無造作に転がる、草も生えない乾燥した斜面が長く長く続いている。
二人は、岩間を縫うように進んだ。
黄土色の地面を踏みしめると、土に足を取られる感覚がする。
細かい砂が大気を舞った。
砂は汗ばんだ体に張り付き、ざらざらと気持ちが悪い。ヨンジュが身に着けている白い上衣もすっかり黄ばんでしまった。
額に浮いた汗が瞼の上に流れてくる。それを拭うたびにヨンジュはヘランを不思議に思った。
――なぜ彼はオクチョン山を登っているのだろう?
ヨンジュが山を登るのは、もちろん河伯のもとに行くためだ。クムサの王女としての務めを果たさなければならない。
(けれど、ヘランは?)
ジヌにヨンジュを任せられたからだろうか。
おそらく、そうなのだろう。
だが、既にヨンジュをオクチョンの地に送り届け終えている。山まで登る必要はあるのだろうか。
(私に付き合ってくれているの? あのヘランが?)
疲れているはずだ。
トガム軍との戦いのあと、数日間、執拗に追われたというヘランは、ヨンジュよりもよほど疲労を感じているはずなのだ。
それなのに自分の前を歩く彼が信じがたくて、ヨンジュはその背中をじっと凝視してしまう。
(私のことが嫌いなはずなのに、どうして?)
そうかと、ヨンジュは突如として納得した。
きっと彼はヨンジュがきちんと務めを果たすか、確認するために付いてきているのだ。
ヨンジュが河に沈む姿を見届けるために山を登っている。
(なんて厭な人!)
そんなことをされなくとも自分は潔く死んでみせる。
王宮で父王と共に死にたいと思った。それが叶わなかった今、どこで死のうが同じだ。
今更、命を惜しんだりしない!
命と言えば、と。ヨンジュは再び不思議に思ってヘランの背中を見やった。
――なぜ彼は生きているのだろう?
その疑問は彼と再会してすぐに湧いた疑問だったが、その時は、信じられないという思いが先行していた。
こうして、ヨンジュ同様、汗を額に浮かせながら山を登っている彼の背を眺めていると、確かに彼が幽鬼ではないことが分かり、改めて疑問がヨンジュの脳裏を支配する。
ヨンジュは、ヘランの首が城壁に下げられるのを見た。
左輔や右輔、ヘランと共に戦場に赴いた大将軍の首と並べられて、彼の首も城壁に吊り下げられていた。
ヘランは死んだはずだった。
それなのに、なぜ今、彼は生きて、ヨンジュと共にオクチョン山を登っているのだろうか。
ヨンジュはヘランの背中に向かって静かに言葉を投げた。
「貴方の首が城壁に下げられました」
「何?」
ヘランは訝しげに振り向いた。だが、ああ、と頷いてすぐに前を向いてしまう。
「父上も左輔も右輔も大将軍も。――てっきり貴方は死んだものだと」
「俺は生きている」
「そうですね。どうやって生き延びたのですか? 貴方の外套はひどく傷付いていました」
ヘランは答えなかった。
だから、ヨンジュは自分で考えるしかなかった。
「あの外套を着ていたのは、貴方ではなかったのですか? あの、貴方の首として城壁に下げられた青年が着ていたのですか?」
やはりヘランは答えない。
それは、つまり、そういうことなのだろう。ヨンジュは唇を噛みしめた。
ヘランは敵に自分だと思わせるために、己が羽織っていた外套を身代わりの青年に着させたのだ。
――なんて非情な!
ヘランが犠牲にしたのは、その青年だけではない。
血まみれになりながら外套を城まで持ち帰ってきた彼の護衛兵は、身代わりの青年を最期まで己が護るべき主だと信じていた。
信じて疑わず、主を護れなかったことを悔い、詫びながら死んでいった。
そう、ヨンジュの目の前で彼は息絶えたのだ。
だから、分かる。ヘランが犠牲にしたものの尊さを。
ヘランの非情さを責める言葉がヨンジュの喉元まで込み上げてきた。
けれど、ヨンジュはそれを呑み込む。
自分たちを逃がすために囮になったジヌの厳つい顔が脳裏に浮かんだ。
――誰かを犠牲にして生きているのは、自分も同じではないか。
だが、本当に自分とヘランは同じなのだろうか。
ヨンジュはジヌを引き留めたかった。できることならば一緒に逃げたかったのだ。
対して、ヘランは自分だけが助かろうと、自分の外套を着るようにと、身代わりの青年に命じた。
そう、ヘランは自らの意思で、その者を犠牲にしたのだ!
ヨンジュは拳を握った。
非情な命令を下すことのできる彼が恐ろしく、また忌々しかった。
背中を睨み付けるようにして、ヨンジュは質問を重ねた。
「トガム軍は貴方がまだ生きていることを知っているのですか?」
「知っているからこそ執拗に追っ手を差し向けてきた。トガムの大将軍直々の指揮でな」
ヨンジュは森で聞こえた野太い声を思い出した。
なるほど、あの声の主はトガム国の大将軍だったのだ。
「トガム国は、貴方ではないと知りながら、どうして貴方だと偽り首を城壁に下げたのでしょうか?」
「遠目にはどれが誰の首だか分かりはしない。特に民にとってはな。それがお前たちの王子の首だと言われれば、そうなのだろうと思う。つまりクムサの民に王族が死んだと思わせることが、トガム国の狙いなんだ」
クムサの王族の死を公開することは、クムサの民を従わせる上で最も有効なことだと、ヘランは言った。
そうすることで、民の抵抗が少なく済むのだと。
「けれど、王宮の者であれば偽物だとすぐに分かります」
「だからこそ叔父上は安心して首を差し出したのだろう。そして、母上も……」
ヘランは言葉を止め、緩く頭を振った。
「いや、母上は、俺が生きていると知れば、ご自身も何としてでも生き延びようとなさるはずだ」
ヒギョンは生きているかもしれない。
ヨンジュも何となくそんな気がした。
前を歩くヘランが額の汗を袖で拭う仕草をする。
「トガム軍は直に、俺の捜索を打ち切るはずだ。俺を死んだことにした手前、その捜索を大々的に続けるわけにはいかないからだ」
「……そうですか」
ならば、ヘランはこの数日を乗り切れば生き延びることができるだろう。
喜ばしいことであるはずなのに、ヨンジュは少しもそんな気持ちになれない。
ヘランの背を追うようにして山を登るヨンジュは、この山を登り切れば、河底に沈む身だった。
◇◇
薄茶色の岩ばかりだった視野が、不意に開けた。
三六〇度の青い昊。
まるで鳥のように、昊を飛んでいる錯覚に陥る。
山を登り始めて数刻後、ヘランはオクチョン山の頂上に立っていた。
そして、彼は後ろを振り返ることなく、追ってきているはずのヨンジュを待った。
黄色く渇いた砂が舞う、その先に小さな社が見えた。
河伯と、河伯に嫁したとされる巫女を祀った社である。
そして、その奥は、崖だ。
河伯の供物は、その崖から下に流れる河へと投げ込まれる。
(ヨンジュは、ここから飛び降りるつもりだろうか)
そうなのだろう、とヘランは思った。そのために彼女はここまでやって来たのだ。
だが、今更それを彼女に望んでいる者などいない。
むしろヨンジュは、すでに亡いテソン王に、どうあっても生き延びることを願われている。
そのことをヨンジュに伝えるのは易かった。
――お前はもう生け贄になる必要などないんだ。
そう言ってしまえたのなら、どれだけ自分は解放された心地になれるだろうか。
いくらでもヨンジュを置いて立ち去れる。
(ヨンジュから解放されたい)
ヒギョンの重すぎる想いや、亡き父の面影をテソン王に求めてしまう己の未熟さは、すべてヨンジュという存在に自分が囚われているせいだ。
(ヨンジュさえいなければ)
だが、彼女に囚われているからこそヘランはテソン王の想いをヨンジュに伝えたくなかった。
彼女がどれだけ父親に愛されているのか、それを彼女に教えてやるのが癪だった。
――そんなつまらない拘りのために、ついに自分はこんなところにまで来てしまった。
ヘランは視野の端にヨンジュを捉えて、ゆっくりと振り返った。
ヨンジュは神妙な面持ちで、崖の先を見つめていた。
ヘランも社の横を抜けて、崖へと歩み寄る。
ゆっくり、ゆっくり、足を進めて、そっと下を覗き込んだ。
蒼き龍。崖の下で静かにその体躯を横たえ、眠っている。
「河伯……」
河の流れに視線を落としたまま、ヨンジュが呟いた。
今にも身を投げそうな、その小さな体に慌ててヘランはヨンジュの腕を強く掴み、崖から引き離した。
「やめろ」
ヨンジュはヘランに振り向いて目を瞬かせた。
引き留められた意味も、制止の言葉の意味も分からないといった表情だ。
だが、すぐに理解して、ヨンジュはヘランの腕を振り払った。睨む。
「私はこのためにここまで来たのです。河伯のもとに行くために王宮を逃げ出し、生き延びて来たのです!」
ヘランを真っ直ぐに映す瞳に憤りの色が宿る。
そして、まるで幼い子の駄々のように、ヨンジュは声を荒げた。
「私は王女として最後の勤めを果たします。なぜ邪魔をするのですか? 私だって、クムサの王族なのです。王族の勤めを果たせない私を、貴方はいつも蔑んできたでしょう。ようやく勤めを果たすことができるというのに、どうして貴方が私の邪魔をするのですかっ!」
「誰もそんなこと望んではいないからだ!」
ぐっと、ヨンジュの咽が鳴った。言葉を詰まらせてヨンジュは俯いた。
ヘランは頭を緩やかに左右に振る。
自分のつまらない意地など捨てて、彼女にテソンの想いを伝えてやろうというという気持ちになった。彼女から解放されたかった。