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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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十一.野苺


 瞼に光を受けてヨンジュは、ふっと目を開いた。

 いつの間にか、眠ってしまったらしい。揺れるヘランの背中で、ヨンジュは小さく身動いだ。

 あれからずっとヘランは自分を背負ったまま歩いていたのだろうか。

 木々の隙間から朝日が差し込んできて、とっくに夜が明けていたことを知る。

 ヨンジュは申し訳ない気持ちになって、ヘランの肩に手を添えた。


「起きたか」

「ごめんなさい」


 ヘランは歩みを止めると、ヨンジュを地面に降ろした。


「少し休む。ここまで来れば大丈夫だろう」


 どかりと、まるで全身の力を抜くように、ヘランはヨンジュの傍らに座り込むと、そのまま体を横たえた。

 地べたに直接寝転んだ彼にヨンジュは瞳を大きくさせた。

 だが、ところ構わず寝られるほど疲労しているのだと分かると、黙ってその寝顔を見守ることにした。

 鳥の(さえず)りが聞こえる。

 深い緑。道は狭く、曲がりくねり、その先に何があるのか分からない。

 だが、一本道だ。進むか戻るかしかない。

 ヨンジュは喉の渇きを覚えて、辺りに視線を巡らせた。

 緑の中に小さな赤を見つける。野苺だ。獣道から僅かに外れた場所に実っている。

 ヨンジュは立ち上がると、ヘランの寝顔を確認し、それから野苺の方へと足を進めた。

 覆い茂る草を掻き分け手を伸ばす。一つ摘むと、ヨンジュはそれをそっと口の中に入れた。


(――すっぱい)


 顔を顰めた。けれど、水のない今、喉を潤せるものが他になかった。

 もう一つ摘み取り、口に運ぶ。覚悟していたせいか、先ほどのものより酸っぱくはない。更に一つ。

 ふと、ヨンジュはヘランの分も摘んでやろうという気持ちになった。

 彼にはここまで背負って貰った借りがある。不本意ではあったが。

 そして、その背中で寝入ってしまったのは、彼の背中が暖かく安心できたからだ。

 それはまるで幼い頃に戻ったかのような暖かさだった。


 ヘランに背負われたのは、初めてではなかった。

 ずっと以前、もう記憶が朧気になってしまったくらいに幼い頃、ヘランと後苑で遊んでいて、ヨンジュは足を挫いたことがあった。

 その時、ヘランは、慌てて侍医を呼びに走った女官を制し、ヨンジュに背を向けて片膝を着いた。

 ――ヨンジュを連れて行った方が早い。

 口調こそ素っ気なかったが、そのヘランの優しさにヨンジュの小さな胸が、どきりと大きく鳴ったのを覚えている。

 ヨンジュは、ふと、ため息をついた。


(もし私が無能でなければ、今でもヘランは私に優しくしてくれたかしら)


 だが、すぐに、莫迦、と呟いて、頭を大きく左右に振った。


(私の莫迦。そんなどうしようもないことを考えても仕方がないじゃない。どう足掻いたって私には力がないんだから)


 少し背負われたからと言って、もっとヘランに優しくして貰いたいなんてことを考えている自分が嫌だった。

 甘えたくない。ヘランにだけは甘えたくない。

 なぜなら、彼は誰よりも、無能なヨンジュのことを軽蔑しているからだ。

 ヨンジュは自分の弱い気持ちを摘み取るように、赤く熟れた野苺を、両手いっぱいになるまで摘み取って歩いた。

 一刻ほど経って、ヘランのもとに戻ると、彼は薄く瞼を開けていた。

 ヨンジュが無言で彼の口元に野苺を差し出すと、ヘランも言葉無く口を開けた。

 ヨンジュの細い指が赤い野苺をヘランの口の中に押し込む。こくりと、ヘランの喉が動いた。


「すっぱいな」


 ヨンジュはヘランの正面に座ると、残りの野苺も差し出した。

 一つ、また一つ。ヨンジュの手のひらの上から消えていく。

 ヘランは億劫そうな動作で野苺を自分の口に運び、最後の一つを摘み上げると、ちらりとヨンジュの顔を見た。


「ほら」


 唇にそっと押し当てられたものに驚いて、ヨンジュもヘランを見た。


「食べろ」


 ヨンジュは薄く口を開いた。

 中に押し込められた野苺を、酸っぱさに顔を顰めながら呑み込んだ。


「行こう」


 言って、ヘランは立ち上がる。


「足は?」

「もう大丈夫です」


 ヨンジュも立ち上がった。

 足の痛みはない。そう告げると、そうか、と短く応え、ヘランは先に立って歩きだした。

 慌ててその背を追う。

 木々が歌い、それを聞き入るように鳥たちは声を殺した。

 風に乱された髪を手で抑えると、ヨンジュは後ろ振り返った。

 見えるはずのない王宮。城壁に吊された父王の首。

 この道を戻れば王宮に戻れるが、時間を戻すことはできない。

 トガム国が攻めてくる以前の日々には、もう戻れない。まして、あの幼かった日々には――。

 緑が降り注ぐ道を行く。ヨンジュはヘランの背中だけを見て、足を前へと進めた。


 不意に、この国のどこを探しても、ヘランと自分しかいないような錯覚に陥った。

 ――二人きり。

 父王もいない。ジヌもいない。大臣たちも貴族たちも。あの恐ろしいヒギョンさえもいない。

 彼と自分しかいない今、どうしてもヘランに言っておかなければならない気がして、ヨンジュはその背中に視線を向けた。

 胸に疼く甘えを振り払うように、ヨンジュは言葉を放つ。


「私、貴方のことが嫌いです」

「奇遇だな。俺もお前が嫌いだ」


 即答だった。

 壁に向かって鞠を投げたように、言葉が跳ね返ってくる。

 ヨンジュはすっきりした。足取りを軽くして、ヘランを追った。


(――もう二度と、彼に背負われたりはしない)



 ◆◇



 王都から二日の道程を、無心に歩き続け、一日半でたどり着いた。オクチョン山の(ふもと)である。

 一般的に『オクチョン』と呼ばれる地に、オクチョン山と呼ばれる神聖な山がある。

 眼下に広がるは岩地。上へ上へと視線を転じれば、大きな岩を積み重ねたような山が昊を突いている。

 焼けるような日差しに、ヨンジュは咽を鳴らし、唾を飲み込んだ。

 水音に気付き、振り向けば、岩地を削るように大きな河が流れている。

 河の水はオクチョン山の中腹から湧き出てくると、大蛇がとぐろを巻くように山を半周して、この麓の方まで流れてくる。

 そして、河はクムサの大地を這いながら海へと向かうのだという。

 この河が、河伯の棲まうという河なのだろうか。

 ヨンジュは、河の流れの中に手を入れて、水をすくい上げた。

 咽が渇いていた。あの野苺以来何も口にしていない。

 不思議なことに、空腹は感じていなかった。気が張りつめているせいだと、ヨンジュは思った。

 感覚も麻痺している。疲れていないはずがないのに、疲労感がまったくない。

 体は重いはずだ。それなのに、足は前へ前へと進んでいく。

 ――ただ、咽がひりひりと渇いた。

 ヨンジュは手の中の水に唇をあてた。咽を潤す。

 ヘランも空腹感より渇きの方が勝るのか、ヨンジュと同じ仕草で水を飲んだ。

 ヘランの唇の端から漏れた雫が、彼の顎の裏を伝い、ぽたりと落ちる。

 彼は袖で口を拭い、山頂を仰いだ。


「行くぞ」


 久しぶりに口を開いた彼の声はひどく掠れていた。

 ヨンジュは無言で頷き、ヘランの背中を追った。


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