十.再会
ヨンジュは呆然としている。
背後にいる自分を彼女は首だけで振り返り、幻覚を見ているかのような表情を浮かべた。
信じられないと小さく零す。
それも致し方がない。なぜなら自分の首は、テソン王の首と共に城壁に下げられたと聞いている。
おそらくヨンジュもその光景を目にしたことだろう。
ならば、彼女にとって今の自分は、幽鬼としか考えられまい。
――だが、ヘランは死んでいなかった。自分に従う影を持っており、皮膚の下には熱い血が流れている。
動きが不自由な狭い洞の中で、ヘランはヨンジュを背後から抱き込んだまま、その顔を覗き込み、ゆっくりと、だが、はっきりと言葉にした。
「俺は死んでない」
「けれど、貴方の外套が襤褸切れのようになって王宮に届きました」
「……そうか」
龍の刺繍が施された外套は、テソン王が身に着けていた物だ。
その存在を思い出して、ヘランの瞳が陰った。
テソン王は出陣前のヘランに、こう諭したのだ。
――どんな犠牲を払っても、お前だけは生き延びなければならない。
そして、外套を手渡して、こう告げた。
――きっとお前の身を護ってくれるだろう。
だから、ヘランはその外套を、自分とよく似た背格好をした青年に着せた。
そうか、と思う。漠然と。
(あの青年は死んだのか)
しだいに、じわりじわりと、やるせない想いが湧いてくる。
(俺が殺したようなものだ)
ヘランが青年に外套を手渡した、その瞬間に、青年の死は決まったようなものだった。
それなのに、彼は一言の不満も不平も漏らさず、ただヘランに、生き延びてくださいとだけ告げて、駆けさせた馬と共に戦場に消えた。
ヘランは苦しげに眉を歪めた。
自分のために命を投げ打ってくれた彼に、すまないと思う気持ちはある。
だが、今はまだ詫びることはできない。それは、この窮地を脱してからだ。
声が響いた。トガム兵たちの声だ。
いくつもの荒々しい足音が近付いてくる。
「ヘラン様、このままでは見つかってしまいます」
それまで洞の奥で、じっと息を潜めていた男が静かに声を発した。
彼はヘランの側近のひとりで、他の多くの者たちとははぐれてしまったが、彼だけは戦場から今までずっと共にあり、ヘランに従ってくれていた。
「わたしが奴らを引き付けます。その間にここからお逃げください」
ヘランは頷いた。
このまま狭い洞の中に身を隠しているのには限界があることを、ヘランも十分に承知していた。
いずれ見つかってしまう。その前に洞から離れ、遠くに逃げるべきだ。
ヘランは自分の腕の中で体を小さくするヨンジュの体温を思い出した。
(ヨンジュ……。ヨンジュさえいなければ)
ヨンジュさえいなければ、剣を振るい、何が何でもこの場を突破したことだろう。
ヘランはもちろんのこと、この側近の男も剣に覚えのある者だ。
ヘランが幼い頃に、その護衛も兼ねてヒギョンが直々に選んだほどの男なのだ。
だが、今、ヘランの腕の中には、剣がまったく扱えないヨンジュがいる。
ジヌもいるとは言え、自分の身すら守れない者を連れていては、この場を武力で突破することなど不可能だ。
闇に身を潜ませ、隠れながら逃げるしかない。
「どうか、わたしにお任せください。敵を欺いてみせます」
「ならば、わたしも行かせてください。彼とは別の方角に走れば、更に敵を撹乱させることができるはずです」
ヘランの側近に続いて口を開いたのはジヌだった。
驚愕の声がヨンジュから上がる。
ジヌは人差し指を己の唇に押し当てて、ヨンジュを見やった。はっとして、ヨンジュは声を潜めた。
「駄目よ、ジヌ。そこの貴方にもそんな真似させられないわ。きっとここに隠れていれば、大丈夫よ。見つからないわ」
「いいえ、ヨンジュ様。それはなりません。ヨンジュ様の仰せの通り、この洞の中に身を隠していれば、見つからないかもしれません。けれど、いずれ夜が明けます。暗闇では見つけることのできなかったものも、陽の光りのもとでは露わになってしまうものなのです」
あ、とヨンジュは短く声を上げた。
夜のうちに少しでも遠くに逃げなければならない理由を理解したのだ。
ジヌの瞳がヘランを映す。
「ヨンジュ様をお任せしても?」
ヘランは怪訝な顔をした。
「それはそうと、ヨンジュがなぜここにいる?」
「ヨンジュ様は王様の命令でオクチョンに向かわれる途中です」
「オクチョンに?」
ヘランの視線を受けて、ヨンジュは深く頷いた。
「河伯のところに行くように、父上に命じられたのです。クムサの王女としての勤めを果たすように、と」
「今更……?」
おかしい、とヘランは思った。
国が滅びるか否かという時に、なぜヨンジュを河伯の生け贄にしなければならないのだろうか。
そのような命令を、あのテソン王が命じるだろうか。
ヘランの脳裏にテソンの顔が浮かんだ。
――オクチョンに逃げよ。
お前だけは生き延びろと命じたテソンの顔。そして、大きな手。
いつもはヨンジュのみを優しく包んでいて、ヘランに対しては殺気を放っていたテソン王の手。
(……そうか)
ヘランは嗤いたくなった。
テソンはどんな時でもヨンジュの父親でしかないのだ。愛娘のことばかりが彼の頭を占めている。
そこに少しでも入り込めたと思った自分が愚かだった。
あの時、テソンの中に亡き父を見てしまった己を恨めしく思う。
(俺にオクチョンに行けと命じたのは、そこにヨンジュも向かわせるつもりだったからだ)
ヨンジュは河伯の生け贄になるつもりでオクチョンに来る。
ヘランにはそれが如何に無意味なことであるかが分かる。
河伯が棲むとされるオクチョンで実際に河伯を目にした者など、この百年、誰一人としていないのだ。
過去に河伯に嫁いだ王女が、真実、河伯の元にたどり着けたかどうかも疑わしいとヘランは考えている。
故に、ヘランはヨンジュを止めずにはいられない。
テソン王はヘランに命じているのだ。
――ヨンジュを守れ。何としてでも。
テソンの思惑はすべてヨンジュのためにある。
ヘランの身代わりに、あの青年が死んだのも、皆、ヨンジュのためだったのだ。
ヘランは暗く笑みを浮かべた。
「ヨンジュのことは俺に任せていい」
「では、わたしたちは時をずらして、それぞれの方角に逃げます。ヘラン様とヨンジュ様はそのあと、ここからを離れて下さい。――ヨンジュ様、どうかご無事で」
「ジヌ」
まだ腑に落ちないのか、ヨンジュはジヌの太く逞しい腕に手を掛けた。
「本当に、それしか方法はないの? 四人で一緒に逃げる方法を考えて」
「申しわけございません」
「ジヌ……」
そっとヨンジュの手を退けたジヌが洞から外に出て行った。
追ってヨンジュも外に出たときには、すでにジヌは西に向かって駆け出していた。みるみるうちに大きな背中が闇の中へと消えていく。
「ヘラン様、わたしも行きます」
「ああ」
ヨンジュに続いて洞から出てきたヘランと彼の側近が短すぎる別れを交わす。
止めなければ、とヨンジュが手を伸ばすよりも早く、ヘランの側近は東へと駆け出してしまった。
「駄目よ。待って。行かないで!」
遠ざかっていく姿に、ヨンジュは力いっぱい腕を伸ばす。届かない。
愕然と膝を折ったヨンジュの耳に、トガム兵たちの荒い声が聞こえてきた。
まず西で騒ぎが起き、続いて東からも喧噪が聞こえてきた。
ヘランもしばらくの間、ヨンジュの傍らにしゃがみこんで、それらに耳を欹てていたが、人の声も、具足の音も自分たちから遠ざかっていくのを感じると、思いを振り切るように立ち上がった。
「行こう」
未だ、しゃがみ込んでいるヨンジュを見下ろす。
ヨンジュは俯き、動こうとしない。
「どうした?」
「私は無力です。誰かを犠牲にしなければ生きることもできない」
「……そうだな」
「……」
「早く立て。囮になってくれた二人の厚意を無駄にするつもりか」
「……足が」
悔しさを絞り出すようにヨンジュは告げた。
再び屈んで、ヘランはヨンジュの足を確かめる。
右足首に触れると、ヨンジュが小さく呻いた。
骨は折れていない。腫れてもいない。軽く挫いただけだろう。
ヘランは息を一つ付くと、ヨンジュに背中を向けた。ヨンジュは目を瞬かせた。
「何ですか?」
「乗れ」
「……」
「早くしろ」
なかなか覆い被さってこないヨンジュに苛立ち、首だけで振り返ると、揺れる瞳と目があった。
再び、早くと急かせば、恐る恐るといったようにヨンジュの細い腕がヘランの肩に添えられる。
背中に温もりを感じて、ヘランはゆっくりと立ち上がった。
オクチョンはクムサの北方だ。
案内無く行くのはヘランとて初めてのことだが、方角さえ見失わなければ着けるはずである。
ヨンジュを背負って、北へと足を踏み出す。
小柄なヨンジュを背負うのは、けして苦ではない。
だが、今のヘランには一歩一歩が地に深く沈むのではないかと思うほど、重荷だった。
トガム軍と戦ったのは数日前のこと。すぐに負けが見えて退却命令を出し、自分も戦場から逃げ出した。
しかし、ヘランを追う敵兵は執拗だった。今日までずっとヘランは敵兵に追い回されてきた。
それでも何とかソルソン山から王都の近くまで逃げてきたが、ヨンジュと再会した時には疲労感の限界に達し、あの洞で休んでいたのだ。
(捨ててしまいたい。置き去りにしてしまいたい)
この重荷を降ろすことができたのなら、どんなにか、心も体も軽くなることだろう。
そう思うのだが、なぜかヘランにはヨンジュを見捨てることができなかった。
今、自分が生きているのは、自分の意思ではない。
自分のためではなく、ヨンジュのためにテソンに生かされているのだ。
体が鉛のように重く感じられた。
「どうしてもオクチョンに行かなければならないか?」
ヘランは背に向かって声を掛ける。ヨンジュは身動ぎもしない。
おそらくテソン王は、ヨンジュがヘランと会え、無事に生き延びてくれれば、それで良いのだ。
ヨンジュがオクチョンに行くことに意味はない。
まして、河伯の生け贄になどなって欲しいとは、これっぽちも思ってはいないだろう。
そのことをヨンジュに諭すことは容易かった。けれど、口が重い。
なぜ、ヨンジュばかりがこれほど深く想われているのだろうか。
父親の庇護を一身に受けているヨンジュが羨ましい。
(羨ましい……か)
ヘランは唇を横に引いた。
(ヨンジュが羨ましいだなんて、俺もどうかしている)
何をしても自分より劣るヨンジュだ。
そのヨンジュのどこを見て、羨ましいと思うのだろう?
いつも自信なく俯いて、体を小さくしているヨンジュ。
視野に入る度に、焦れったく思ったものだ。もっとああすればいいのに、なぜやろうとしないのだ、と幾度も苛々させられた。
(ヨンジュが羨ましい? 莫迦な……)
だが、事実、ヘランは自分の背中を温めている少女を羨み、捨て去りたい気持ちで一杯になっていた。