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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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九.水の匂い


 ジヌが旋風のような速さで一人、そしてまた一人、打ち倒していく。

 あっという間に、四人すべて地面に沈めると、彼はヨンジュの腕を取った。


「急ぎましょう。トガム兵はこの四人だけではございません」


 ヨンジュは、こくりと頷いた。これ以上、怖い思いはしたくない。

 トガム兵に捕まるという恐ろしさは十分に思い知った。

 ジヌの言葉に否定する気持ちは無かった。

 それに、先程、自分たちの目の前を通り過ぎていったトガム兵の数は四人ではなかった。

 少なくとも二十。――いや、もっと多くの足音が響いていたかもしれない。

 そうだとすれば、一刻も早くこの場から逃げた方が良いに決まっている。

 だが、ジヌがヨンジュの腕を引いて駆け出そうとした時、ヨンジュはその手を力一杯に払ってしまった。


「そっちではないわ。こっちよ!」


 ジヌが向かおうとした方角とは逆を指差す。

 それは完全にヨンジュの思考とは真逆の行動であったが、ヨンジュ自身にもどうすることもできなかった。

 水の匂いがするのだ。それがどうしようもなくヨンジュを引き寄せてしまう。


「しかし、そちらにはトガム兵が」

「でも、水の匂いが。――呼ばれているのです!」


 ジヌが困惑を露わにする。当然だ。水の匂いと言われても、ジヌにはそれが理解できない。

 おそらく、呼び声も彼には聞こえていない。

 水の匂いも、呼び声も、ヨンジュにしか分からないのだ。

 けれど、ヨンジュにはそれらを、到底、説明することができなかった。

 ただ、感じるのだ。

 父王が雨を降らせる時も、ヘランが雨を降らせる時も、ヨンジュは必ずその直前で昊を仰ぐ。

 昊に昇った蒼い龍が雨雲に姿を変えると、甘く懐かしい匂いがヨンジュを包み込むからだ。

 ヨンジュは深く考え込むように眉を歪め、瞼を閉ざした。


 ――こちらだ。こちらにおいで。


 ヨンジュにしか聞こえないその声は強く強くヨンジュの胸に響く。

 そして、自分はその呼び声に応えなければならない気がして居ても立ってもいられない。

 ヨンジュは、かっと目を見開いた。

 ジヌを真っ直ぐに見つめる。強く。強く。

 これほど誰かを強く見つめたのは、初めてかもしれない。目の奥が熱くなる。


「行かせてください。行かなければならないのです!」


 切羽詰まったように言い、ヨンジュは厳つい顔が呆然としている様子を見据えた。

 きっと彼は、大人しく護られていないヨンジュのことを厄介に思ったに違いない。

 自分がジヌだったら、自分のことを忌々しく思う。

 見捨ててしまうか、もしそれが許されないことならば、気絶させて担いで運んだ方が幾分も逃げることが容易くなる。

 ヨンジュは、はっとしてジヌの握り締められた拳に視線を向ける。

 もしかしたら、まさに今、彼はそうするつもりかもしれない。

 テソン王への忠誠心が高い彼ならば、王の命令を成し遂げるために、それくらいやってのけそうだ。

 ヨンジュは身構え、ジヌと距離を取った。気絶させられるわけにはいかなかった。

 どうしても自分は行かなければならない。

 なぜだか分からない。自分を引き寄せて止まないものが何かも分からない。

 だけど、何が何でも応えなければならないのだ!


「私を止めることはできません! ここからは私ひとりで行きます。貴方は父王の命令に従い、十分に私を護ってくださいました。ここで私と別れたとしても、誰も貴方を咎めないでしょう!」


 凜とした声が響いた。言い終えると、ヨンジュは顔を上気させ、肩で大きく呼吸を繰り返す。

 涙がこぼれ落ちそうなくらい感情が高まっていた。

 やがて、ジヌが身動いだ。ゆっくりとした動作で片膝を着く。


「わかりました。ヨンジュ様に従います」

「ジヌ?」

「ヨンジュ様をお止めすることは適わないのだと分かりました。なので、お止めしません。ただし、わたしもご一緒させて頂くことが条件です」


 ヨンジュは息を呑んだ。

 ヨンジュがこれから飛び込もうとしているのは、死地に他ならない。

 そこに飛び込んでいく愚かさを、ジヌはヨンジュよりも遙かに理解していることだろう。

 それでも共に来てくれると言う。

 ヨンジュは、くしゃりと顔を歪めて礼を言った。

 そして、踵を返すと、急くように水の匂いのする方へと駆け出した。


◆◇


 ところが、しばらくも行かないうちに、ヨンジュは後ろから追ってきたジヌに腕を掴まれた。

 驚き、振り返ったヨンジュを引っ張るように、ジヌはヨンジュを抜いて走った。


「足を止めてはなりません。走るのです!」


 ヨンジュは唾を飲み込むようにして頷き、足を懸命に動かした。

 遠くの方で声が響く。先程ジヌが立ち回りをした辺りだ。ざわめきが森に反響する。

 具足の音が幾重にも響き渡り、トガム兵たちが集まってきているのを知った。

 ――この近くにいるはずだ。探せ!

 野太い声。人に命令を下すことに慣れている者の声だ。それなりの地位を持った者がいるのだと分かる。


「もっと急いでください!」


 暗闇を転げるように走る。

 何度も転びそうになって、その度にジヌに腕を引き上げられ、ヨンジュは汗と泥にまみれながら走った。

 木々の向こうで炎が蠢く。


「いたぞ!」

「あそこだ!」


 ぎくりとして振り向いたヨンジュの腕を、ジヌが強く引く。

 更に速く駆けようとするが、ヨンジュはこれ以上速くなど走れなかった。

 足が木の根に取られる。そう思った次の瞬間、ずさっ、と派手な音を立ててヨンジュは地面に倒れた。


「ヨンジュ様、お立ち下さい!」


 ジヌはヨンジュの体を引き起こす。

 トガム兵の足音がすぐそこまで近付いていた。


「どっちに行った?」

「あっちだ。追え!」


 足が痛い。捻ってしまったのだろうか。

 だが、今は痛みを気にしている場合ではない。走らなくては。

 息が苦しい。胸が締め付けられる。


(怖い)


 追ってくる。ジヌの背が遠い。腕を引いて貰っているはずなのに。

 腕が痛い。ジヌの手がヨンジュの白い肌に食い込む。

 迫ってくる。すぐそこにいる。

 松明の灯りがチラチラと、ヨンジュの視界の端で煌めく。


(怖い。嫌だ。父上、助けて。父上!)


 父王の無惨な姿が脳裏に浮かぶ。

 自分もトガム兵に捕まれば、父王のように首を落とされ、城壁に吊り下げられるのだろうか。

 襤褸切れのようになったヘランの外套を思い出す。

 彼のように体のあちらこちらを切り刻まれ、貫かれたら、どれほど苦しい思いをするのだろう。

 ヨンジュは、ぐっと奥歯を力一杯に噛み締めた。


(嫌っ。捕まりたくない! 誰か! 助けて!) 


 突然、強い力で後ろに引かれた。

 その抗いようのない強さにジヌの手が離れてしまった。

 ヨンジュは恐怖と絶望を感じ、悲鳴を上げるところだった。だが、悲鳴が音になる前に、ヨンジュは口を塞がれた。


「……っ!」


 ヨンジュは目を見開く。その次の瞬間、足が空を蹴った。

 抵抗など、いっさい許されない強い力に固く目を瞑れば、ヨンジュは木の根もとにできた洞の中に引っ張り込まれた。

 木の根が張った洞は、大人が数人やっと入れるほどの大きさだ。それも体を密着させなければならない。

 その中に引っ張り込まれたヨンジュは自分の背後から密着してくる何者かに恐怖し、頭の中が真っ白になった。

 逃げようと、手脚をばたつかせ、必死に藻掻く。

 だが、強い力で拘束してくる腕はぴくりともしない。


(嫌っ)


 それでもヨンジュはがむしゃらに暴れた。


「ヨンジュ様」


 ジヌの静かな声が聞こえて、ヨンジュはゆっくりと瞼を開いた。

 目の前にジヌの顔。その見慣れた厳つい顔にヨンジュは肩透かしを喰らったような心地になった。

 落ち着いている彼が不思議で、ヨンジュは冷静に自分の現状を把握しようと、辺りを窺った。

 トガム兵の声が響く。それもかなり近くで。

 ジヌが大きな体を窮屈そうにしながら洞の中に押し入ってきた。

 洞の中は、ぐっと狭くなった。息苦しい。

 やがて声はヨンジュたちの隠れる洞のすぐ脇を抜けて、去っていった。

 ヨンジュを後ろから拘束していた力が、ふっと弱まる。

 いつの間にか、あれほどヨンジュを引き寄せて止まなかったはずの声が聞こえなくなっていた。

 代わりに、聞き慣れた声がヨンジュの耳元で響く。


「騒ぐなよ?」


 驚きながらも、ヨンジュは必死に何度も頷いた。

 すると、ようやく口を解放され、その拍子に、ヨンジュは、ぺたんと、その場に尻もちをついた。


「どうして? 貴方は死んだものだとばかり……」


 背後の人物を振り返って、ヨンジュは声を震わせた。

 ――信じられなかった。


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