87.お金じゃ買えない
中年男性は、ゆっくりと嫌味な笑みを浮かべた。
「そこまでセリス様のことを分かっていらっしゃるなら、説得も出来るのではないですか?」
指先で金貨をひとつ摘まみ、軽く弾く。乾いた金属音が、やけに大きく響いた。
「ぜひ、我々のために家に戻るよう説得していただけませんかね?」
――は?
頭が一瞬、真っ白になる。さっきまで釣り合わない、瑕疵になると散々見下していた相手に、今度は頼みごと?
呆気に取られている私をよそに、男はさらに続ける。
「これは前金です」
革鞄の中の金貨を指し示す。
「説得に成功すれば、この五倍は差し上げましょう。どうですか? 庶民には手に入らない金額ですよね」
にこやか。丁寧。だが、底にあるのは露骨な打算。
この人、本気で言ってる。私が――お金で釣られると、思っている。胸の奥が、じわじわと熱くなる。
さっきまで不要な瑕疵扱いしていたくせに。隣に立てる存在ではないと言い切ったくせに。利用価値があると分かった途端、これだ。
「……」
喉の奥がひりつく。この人は、セリスさんを守りたいわけじゃない。家に戻したいだけだ。
家の都合。体裁。将来設計。セリスさんの意思なんて、そこにあるようで、ない。まるで、優秀な駒を盤上に戻したいみたいに。
物じゃない。あの人は、物じゃない。訓練で泥だらけになって、悔しそうに歯を食いしばって、強くなりたいって真っ直ぐに言う人だ。
それを、金貨で動かそうとするなんて。無性に、腹が立った。
「……あんたセリスさんのこと、何も分かってないでしょ」
中年男性の眉がわずかに動く。
「セリスさんは、誰かに言われたから騎士を目指してるわけじゃない。自分で決めたんだよ」
拳を握る。
「それを、私に金で説得させる? 本気で言ってる?」
怒鳴りたい。机を叩いてやりたい。でも、ぎりぎりで抑える。感情に任せたら、この人の思う壺だ。
「……これは合理的な提案ですよ」
男は穏やかな声で言う。
「あなたにとっても悪い話ではない。セリス様にとっても、いずれは必要な道です」
「いずれって誰が決めるの?」
即座に返す。
「セリスさん? それとも、あなたたち?」
空気が凍る。護衛のスーツ姿たちが、わずかに身じろぎする。
「あなたは、感情的になっている」
中年男性の声が、ほんの少しだけ硬くなる。
「若さゆえの――」
「違う」
遮る。
「あなたが、セリスさんを所有物みたいに扱ってるから腹が立ってるだけ」
ぴたり、と男の動きが止まった。
「大切にしてるふりして、全然してない。あの人が何を考えてるか、何を望んでるかより、家に戻すことの方が大事なんでしょ?」
言い切る。もう、止まらない。
「それって、セリスさんの人生じゃなくて、あなたたちの都合だよね」
吐き出した言葉は、もう引っ込めない。私は中年男性を真っ直ぐ見据えた。
「セリスさんの人生は、セリスさんにしか決められない」
胸の奥が熱い。怒りだけじゃない。あの人の姿を思い出すたびに、込み上げてくるものがある。
「他の誰が何を言おうと、その道は変えられない。変えちゃいけない」
訓練場で見た、何度倒れても立ち上がる姿。剣を握る手が震えていても、悔しさを噛み殺して前を向く姿。
「あの人、すごいよ」
自然と、言葉に力がこもる。
「自分で選んだ道を、自分の足で歩こうとしてる。逃げないし、人のせいにもしない。あんなの……立派に決まってる」
少しだけ、笑ってしまう。
「正直、尊敬してる」
中年男性の表情が険しくなる。
「そんな人の人生を、勝手に決められて堪るか」
拳を握りしめる。
「セリスさんには、セリスさんの夢がある。騎士として生きたいって、本気で思ってる」
あの真っ直ぐな瞳を思い出す。
「私は、それを応援したい。隣で笑ってたいし、負けたって言われたら一緒に悔しがりたい」
金貨の入った鞄を一瞥する。
「だから、あんたたちの話は受けられない」
はっきりと、言い切った。
「そのお金、いらない」
静寂。数秒の沈黙のあと、中年男性の顔がぐにゃりと歪む。余裕の仮面が、初めて崩れた。
「……感情論で未来を潰す気ですか」
低い声。悔しさが滲む。
「未来を潰してるのは、そっちでしょ」
言い返した、その時。カチャリ、と静かに扉が開いた。全員の視線が向く。
そこに立っていたのは――セリスさんだった。凛と背筋を伸ばし、まっすぐ中年男性を見据えている。
「友人を返してもらいに来た」
冷えた声。
「よくも、私の友人に手を出したな」
一歩、部屋に踏み込む。
「許さない」
その言葉に、室内の空気が一変する。中年男性が慌てて立ち上がる。
「セ、セリス様、これは誤解で――」
「黙れ」
ぴしゃりと遮る。怒っている。はっきりと分かる。普段の穏やかな微笑みはどこにもない。
中年男性は言い訳を並べ立てようとするが、声が上擦っている。
「それは、その、将来を思っての――」
「私の将来は、私が決める」
きっぱりと。
「家のためでも、体裁のためでもない。私自身のために」
その言葉は、さっき私が言ったことと同じだった。中年男性は、完全にたじたじになる。護衛たちも動けない。
やがてセリスさんは、私の方へ歩いてきた。怒りを宿していた瞳が、少しだけ揺らぐ。
「……リオ」
申し訳なさそうな、悲しげな表情。
「迷惑をかけた」
小さく、そう言う。
「行こう」
そっと、私の手を取る。温かい。さっきまでの緊張が、ふっとほどける。
私は一瞬だけ中年男性を見る。彼は悔しそうに唇を噛み、何も言えずに立ち尽くしていた。
そのまま、セリスさんに手を引かれ、部屋を出る。扉が閉まる直前、最後に聞こえたのは、金貨が触れ合う微かな音だった。
廊下に出ると、張り詰めていた空気が嘘みたいに軽くなる。でも、握られた手は、少しだけ強かった。
きっと、まだ終わっていない。それでも。今は、この手の温もりだけで十分だった。
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