第7話 理と情、そして見せしめ
清洲城は、奇妙な静けさに包まれていた。朝靄の中、兵たちは顔を見合わせることなく、ただ黙々と刀の手入れに勤しんでいる。昨日、堀田が信長によって公然と糾弾されてから、城内には張り詰めた糸のような緊張感が漂っていた。信長は、堀田を斬り捨てはしなかった。それがかえって兵たちの間で憶測を呼び、不安を煽っていた。
(斬る。それが、この時代の「裁き」だ)
信長の脳裏には、壬生で見た見せしめの斬首刑が蘇る。隊規を破った者は、即座に死を以て償う。それが、最も単純で、最も効率的な裁きだった。だが、信長は違う。この尾張で、俺は別の「裁き」を立てる。
「若殿、御用と伺い、罷り越しました」
堀田が、犬千代に連れられて信長の前へとやってきた。彼の顔は、昨日の動揺から抜け出せず、生気を失っていた。その背後には、勝家も控えている。彼の表情は、信長が堀田にどのような裁きを下すのか、冷静に見極めようとしていた。
信長は、堀田の顔をじっと見つめた。
「堀田、貴様は、金子で兵たちの不満を煽り、軍律を乱そうとした。その罪、重い」
信長の静かな声が、張り詰めた空気を切り裂く。堀田は、信長の言葉にただ震えることしかできなかった。
「しかし、貴様を斬りはせぬ」
その言葉に、堀田は顔を上げた。そこに浮かんだのは、安堵の色。だが、その安堵は、次の瞬間に恐怖へと変わった。
「貴様には、この軍律を、その身で完成させてもらう」
信長は、そう告げると、堀田に背を向けた。
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その日の午後、清洲城の広場に、堀田の姿があった。彼の周りには、刀改めを終えた兵たちが、遠巻きに集まっている。堀田の目の前には、巨大な木桶が置かれている。中には、米粒と小石がごちゃ混ぜになって入っていた。
堀田は、木桶に手を伸ばす。
「若殿の御裁きだ。兵ども、見届けよ」
犬千代の声が、広場に響き渡る。
「堀田、これから、貴様には、この米粒と小石を、一つずつ選り分けてもらう」
信長の声が、広場に響き渡る。
「米は蔵へ。小石は、この桶へ」
堀田は、信長が何を言っているのか理解できなかった。信長は、堀田の顔を見下ろすと、静かに言った。
「その小石一つ一つが、貴様が己の欲のために乱した、我らの規律だ。その米粒一つ一つが、貴様が賄賂で手に入れようとした、兵たちの心だ」
堀田の顔から、血の気が引いていく。信長は、言葉を続ける。
「この木桶の米をすべて選り分け終えるまで、貴様の裁きは終わらぬ。その間、食事は一日に一度、水は桶一杯のみ」
その言葉に、兵たちはざわめき始めた。誰も声を上げなかった。だが、その沈黙こそが、裁きの正しさを物語っていた。
(斬り殺すよりも、残酷な裁きだ…)
誰もが、そう思った。この裁きは、堀田の肉体を傷つけるものではない。だが、彼の精神を、根こそぎ破壊する。それは、信長が「魂を磨く」と言った、その言葉の裏側に隠された、底知れぬ恐怖だった。
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信長は、広場を後にし、勝家と向き合った。
勝家は、信長の顔をじっと見つめていた。彼の表情には、信長への畏怖と、腹心への裏切りに対する猜疑が入り混じっていた。
「若殿、あのような裁きは、あまりに非道。これでは、兵たちの間に、不満と恐怖が蔓延しまする」
勝家の言葉は、正論だった。だが、信長は静かに首を振った。
「勝家殿、貴殿は、兵たちの心を、理解していない」
信長の言葉に、勝家は眉をひそめた。
「兵たちが欲しいのは、腹を満たす米だ。だが、それだけでは、彼らの魂は満たされぬ。彼らが本当に欲しいのは、公正な「裁き」だ。彼らは、規律を破った者が、公然と裁かれることを望んでいる」
勝家は、信長の言葉に、反論することができなかった。信長は、静かに勝家の顔を見つめた。
「腹は満たせても、魂は満たせぬ。この世に、真の裏切りなどない。あるのは、己の信じた道から外れる者だけだ」
その言葉は、まるで氷のように冷たかった。勝家は、信長が何を言っているのか理解できなかった。だが、彼の脳裏を、壬生で見た、斬り捨てられた者たちの顔が走馬灯のように駆け巡った。
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夕暮れ時、信長は清洲城の庭を散策していた。風が、梅の香りを運んでくる。
「若殿」
犬千代が、信長の元へとやってきた。
「薬種屋の帳面、もう一度洗い直しました。堀田様の他に、もう一人、不審な名が…」
その言葉に、信長は足を止めた。犬千代は、懐から取り出した帳面の写しを信長に差し出す。
「この男、勝家様の家臣、岩田と申しまする。彼もまた、堀田様と同様に、井上宗助に金子を渡していた模様にございます」
信長の脳内に、新たな図面が引かれる。堀田と岩田。勝家の腹心二人が、井上一派に金子を渡していた。それは、単なる個人的な裏切りではない。勝家を巻き込んだ、より大きな陰謀の始まりだった。
(勝家殿、貴殿は、まだ、俺のやり方を理解していない。だが、それでいい。貴殿の正しさも、いつか、俺の「理想」に飲み込まれる)
信長は、静かに言った。
「岩田か。明日、斬る。それも、皆の前で、高らかにな」
犬千代は、信長の言葉に息を呑んだ。
すべては、ここから始まるのだ。




