第6話 現実と理想の交差、勝家の憂慮
清洲城、早朝。
武具蔵前の広場は、朝食の湯気と、男たちの活気で満ちていた。藤吉郎は、一人ひとりの椀に、自ら大盛りの粥をよそっていく。その顔には、昨日までの疲労はどこにもなく、満足そうな笑みが浮かんでいた。
「さあ、さあ! 若殿からの御褒美じゃ! 腹いっぱい食って、今日の刀磨きに励んでくれ!」
藤吉郎の声が響くと、男たちから大きな歓声が上がった。彼らが手にしているのは、米と麦が混ざった温かい粥だ。それは、腹を満たし、冷えた体に活力を与える。
(若殿は、俺の頭の中を読んでいるのか…)
藤吉郎は、信長が昨夜発した言葉を思い出していた。
『腹が満たされなければ、刃も磨かぬ。腹を満たし、魂を磨く。それが、俺のやり方だ』
信長は、藤吉郎の考えのさらに先を行っていた。腹を満たすという「現実」を、魂を磨くという「理想」へと繋げる。それは、藤吉郎が信長から学んだ、新たな「知恵」だった。
「若殿、このお米は…」
一人の兵が、藤吉郎に尋ねた。
「ああ、これは堀田様が管轄する蔵から出されたものだ。感謝して食うのだぞ」
藤吉郎は、わざと大きな声で答えた。兵たちは、堀田の名前を聞き、互いに顔を見合わせた。堀田の蔵。そこから兵糧が支給された。この事実が、静かに、しかし確実に広場全体に広まっていく。
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その日の午後、信長は清洲城の庭で、勝家と向き合っていた。
「若殿、御報告に参りました」
勝家は、いつになく真剣な面持ちで、信長に切り出した。
「藤吉郎殿の刀整組、初日の成果は、誠に目覚ましいものがございます。一日のうちに、未整備の刀を半分にまで減らしました」
勝家の言葉に、信長は静かに頷いた。
「だが、問題は、その代償にございます」
勝家の声に、わずかに苛立ちが滲んだ。
「刀整組に回した金子が、清洲城の蔵を大きく圧迫しております。農繁期のこの時期に、これ以上の出費は、兵たちの生活を脅かしまする」
勝家の言葉は、正論だった。彼の憂慮は、信長の知る歴史上の柴田勝家、そのものだった。常に現実を見据え、理想論に走る者を諫める。
(勝家殿、貴殿の正しさは、この時代においては、揺るぎないものだ)
信長は、勝家の正論を否定しなかった。だが、彼の思考は、既に別の場所へと飛んでいた。
「勝家殿、貴殿は、現実を論じられる。それも、貴殿の正しさだ」
信長は、静かにそう言うと、勝家の顔を見つめた。
「だが、俺は、未来を語る。そして、この身で示す」
その言葉に、勝家は眉根を寄せた。
「未来…ですか。若殿。夢物語で、腹は満たされませぬ」
その言葉に、信長は静かに笑った。
「その夢物語を、現実にするのが、俺の役目だ」
信長は、勝家に背を向け、静かに庭を歩き始めた。
(腹が満たされなければ人は動かぬ。それは正解だ。だが、腹が満たされすぎれば、人は腐る。それが、壬生で学んだ、俺の真実だ)
信長は、立ち止まり、犬千代を呼んだ。
「犬千代、堀田を呼べ」
その言葉に、勝家の顔に緊張が走った。堀田の名は、信長と勝家の間では、不満の代弁者として機能していた。だが、信長は、井上宗助の一件で、堀田が不満分子の背後にいることを知っている。
(堀田を裁く。そして、その裁きを、勝家殿に見せる。それが、俺のやり方だ)
信長の脳内では、すでに次の段取りが組まれていた。それは、勝家が最も嫌う、非情で、しかし最も効率的な「斬り込み方」だった。
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その日の夕刻、清洲城の広間に、堀田が呼び出された。
彼の顔には、疲労と、信長への不満が滲んでいた。
「若殿、御用と伺い…」
堀田は、信長の前に平伏した。信長は、何も言わずに、堀田の顔をじっと見つめる。
(この男の顔は、腐敗の匂いがする)
信長の脳裏に、壬生で見た、隊規を破った者たちの顔が蘇る。彼らは皆、口を揃えて不満を訴え、己の怠惰を正当化した。
「堀田」
信長の静かな声が、広間に響き渡った。
「清洲の蔵は、痩せているか」
その言葉に、堀田は顔を上げた。
「は、はい。若殿の御命とはいえ、刀改めと軍律にかけた金子は…」
堀田が言葉を続けようとしたその瞬間、信長は堀田の顔に、何かを投げつけた。
それは、薬種屋の帳面だった。
「これは…」
堀田の顔から、血の気が引いていく。その帳面には、井上宗助の名と、彼の膏薬代を肩代わりした、堀田家の家紋が記されていた。
「若殿、これは…」
堀田は、言葉を失った。
信長は、静かに立ち上がると、堀田の顔を見下ろした。
「腹は満たせても、魂は満たせぬ。この世に、真の裏切りなどない。あるのは、己の信じた道から外れる者だけだ」
信長の言葉に、堀田は、震える手で帳面を握りしめた。
「堀田。貴様は、己の欲のために、兵たちの不満を煽り、我らの絆を断とうとした。その罪、重い」
信長の言葉に、堀田は顔を蒼白にさせた。
「待ってください! 若殿!」
堀田は、信長の足元に縋りついた。
信長は、堀田の顔を見下ろすと、静かに言った。
「貴様は、その身で、この軍律を完成させる。それが、貴様の最後の役目だ」
その言葉は、まるで氷のように冷たかった。堀田は、信長が何を言っているのか理解できなかった。だが、彼の脳裏を、壬生で見た、斬り捨てられた者たちの顔が走馬灯のように駆け巡った。
夕暮れの空が、黒漆の鞘に、鈍色の光を映していた。風が、砂利の上を静かに通り過ぎる。
すべては、ここから始まるのだ。




