第5話 帳面の影、夜闇の裏切り
清洲城下に夜の帳が降りる頃、犬千代は身を隠すように薬種屋の裏口に立っていた。昼間の喧騒は嘘のように消え、風が草木を揺らす音だけが耳に届く。信長からの命令は、簡潔にして絶対的だった。
「薬種屋どもの帳面を洗え。膏薬の出どころ、余さず繋げ」
(まさか、膏薬の匂いだけでここへ来るとは…)
犬千代は信長の常人離れした思考に背筋を凍らせた。だが、迷いはない。若殿の命は、天命に等しい。彼は背後に気配がないことを確認すると、懐から小さな油紙を取り出した。そこに記された文字は、土方様から聞いた、薬種屋の主が用いる隠語だった。
木戸を叩く。二度、三度。微かに開いた隙間から、男の警戒した目が犬千代を捉えた。
「どなたにございます」
「若殿の命で参った。帳面を拝見する」
犬千代の言葉に、男は一瞬顔色を変えたが、やがて諦めたように奥へ消えた。数刻の後、男は分厚い帳面を何冊も抱え、犬千代の前に広げた。
「若殿の御用とあらば、隠し立ては致しませぬ」
犬千代は、信長が指定した膏薬の隠語を探した。目指すは、井上宗助が手にしたものと同じ、高価な膏薬だ。何冊もの帳面をめくり、指先が紙のざらつきと墨の匂いを拾う。
(…見つけた)
ある一冊の、それも奥の方に隠された頁に、その隠語が記されていた。通常の五倍にも及ぶ、大量の注文。その横には、井上宗助の名。だが、その名の下に、小さな文字で別の名が書き加えられている。それは、清洲城の勘定奉行、堀田家の家紋だった。
(堀田…勝家様の懐刀。なぜ…)
犬千代の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。堀田は、柴田勝家の腹心として、清洲の財政を一手に担っている男だ。彼がなぜ、井上宗助の膏薬代を支払っているのか。それは、単なる金銭の融通ではない。裏切りだ。
犬千代は、その帳面の頁を懐に収めると、薬種屋の男に深々と頭を下げた。
「この件、若殿以外に漏らせば、お主の命はないと心得よ」
男は、震える手で何度も頷いた。犬千代は、帳面を抱え、夜の闇に消えていった。彼の心臓は、まだ高鳴っていた。それは、恐怖ではなく、巨大な裏切りを暴き出した、狩人の興奮だった。
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清洲城、天守。
信長は、夜の静寂の中、障子の向こうに広がる城下町を眺めていた。聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、遠くで犬が吠える声だけ。
(帳面を洗え。膏薬の出どころ、余さず繋げ…)
俺は、犬千代の報告を待っていた。壬生での記憶が蘇る。近藤さんを陥れたのは、隊の内側からの腐敗だった。不満の芽を放置し、互いを疑い始めた結果、組織は内側から崩壊した。
(いや、違う。この場合は、腐敗を意図的に撒き散らす者がいる)
井上は、ただの不満分子だ。だが、その背後には、彼を利用する者がいる。堀田…勝家の腹心。
信長の脳内では、DIAが既に次なる一手へと移行していた。
「若殿、御報告に参りました」
犬千代の声が、襖の向こうから聞こえる。信長はゆっくりと襖を開けた。犬千代の顔には、夜通し駆け回った疲労と、発見した興奮が入り混じっていた。
「堀田の家紋が…帳面にございました」
犬千代は、懐から取り出した帳面の写しを信長に差し出した。信長は、その写しを一瞥すると、静かに頷いた。
「やはりな」
信長の静かな声に、犬千代は信じられない思いで信長を見つめた。信長は、まるで最初から全てを知っていたかのように、動揺一つ見せない。
「信じられませぬ。堀田殿は、勝家様の御腹心。なぜ、あのようなことを…」
犬千代は、信長の言葉を待った。信長は、犬千代の顔を見つめると、静かに口を開いた。
「裏切りは、親しい者から始まるものだ」
その言葉に、犬千代は息を呑んだ。
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朝の光が、清洲城を淡く照らし始めた。
信長は、堀田を呼び出すことはしなかった。その代わりに、彼は武具蔵前へと向かう。そこには、刀改めを終えた兵たちが、朝食を摂るために列を作っていた。
信長は、静かに彼らの間を歩いていく。すると、一人の兵が、信長に気づき、頭を下げた。
「若殿、この度はお米の御手配、まことにありがたき幸せにございます」
信長は、その兵の顔を見て、軽く頷いた。そして、その兵が手にしていた椀の中を覗き込む。そこには、米と麦が混じった、素朴だが温かい粥が入っていた。
信長は、その椀を手に取ると、大きく一口啜った。
「旨い。堀田の米は、腹を満たす」
信長の言葉に、周囲の兵たちがざわめき始める。彼らが手にしている米は、堀田が管轄する蔵から出されたものだ。信長は、皆が堀田の米を口にしていることを、この一言で示した。
「だが、魂は満たせぬ」
信長は、そう付け加えると、椀を兵に返した。
その日、堀田は清洲城の蔵に籠もり、誰も寄せ付けなかった。彼は、信長の「旨い」という言葉の裏に隠された、底知れぬ恐怖を感じていた。信長は、何も言わずに、堀田の「現実」を皆の前に晒したのだ。
(これが…俺のやり方だ。裏切りは、言葉ではなく、行動で裁く)
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夕暮れ時、信長は清吉の作業場を訪れた。清吉は、槌を振り下ろし、火花を散らしていた。
「若殿!」
清吉が驚いて立ち上がろうとする。
「そのまま」
信長は、清吉が鍛える鉄を見つめる。それは、兼定写・初号の、新たな試鉄だった。
信長は、静かに言った。
「魂を込めて打て。この世に、真の裏切りなどない。あるのは、己の信じた道から外れる者だけだ」
清吉は、その言葉の意味を理解できなかった。だが、信長の眼差しの奥に、深く冷たい炎が燃えているのを見た。
すべては、ここから始まるのだ。




