第32話 揺らぐ礎、老臣たちの密談
清洲城は、信長が成し遂げた圧倒的な勝利の余韻に浸る間もなく、新たな波紋に包まれていた。城下の市場は活気に満ち、鍛冶屋の槌音や物売りの声が響く一方で、城内では、信長の非情な「理」が、古き価値観に固執する者たちの間に、深い恐怖と不信を生んでいた。
評定が終わった後も、広間には重苦しい空気が漂っていた。信長の決定に反発する老臣、林秀貞や佐久間信盛らは、広間の隅でひそひそと囁き合っていた。彼らの顔には、信長の非情な裁きへの義憤と、己の地位を失うことへの恐怖が入り混じっている。林秀貞は、震える手で扇子を握りしめ、額から伝う汗が、重々しい音を立てて畳に落ちる。佐久間信盛は、落ち着きなく周りを警戒し、まるで足元から毒蛇が這い出してくるのではないかとでもいうように、視線を泳がせていた。
「あの猿が、清洲城を任されるとは……」
林秀貞の口から漏れた言葉は、怒りよりも深い、底なしの恐怖を含んでいた。
「若殿は、もはや武士の道から外れた。武士の身分、家柄など無意味だと申されるのだぞ」
「このままでは、我らの家は、この先、どうなるかわからぬ。藤吉郎のような出自の者がのさばれば、いずれは家柄よりも若殿への忠誠のみを試される時が来よう……」
そこへ、他の老臣たちが、不安げな表情で加わってきた。彼らの顔には、信長への義憤と、己の地位を失うことへの恐怖が混じり合っていた。
「しかし、何をすれば良いのだ? 儂らは、若殿の考えについていけぬ。このままでは、織田家は内部から腐ってゆく」
「腐るのは我らだ。若殿の目には、既に我らの価値などないのだ」
彼らは互いに責任を押し付け合い、次第に具体的な陰謀へと話を膨らませていった。
「いっそ、今川の残党と通じ、若殿を牽制すべきではないか。三河の松平元康は今川から離反しようとしていると聞く。元康と手を組み、若殿の独断専行を止めさせる手もある」
「いや、松平と手を組むなど、危なっかしい真似はすべきではない。織田家が三河に飲み込まれかねん。それよりも、朝廷に働きかけ、若殿の異様なまでの思考の連鎖を止めさせるのが筋だろう」
彼らは信長の「理」が、やがて家臣同士の足の引っ張り合いを生み、最終的には織田家を滅ぼすと信じていた。その信念が、彼らを密談へと駆り立てていた。その時、一人の小姓が、彼らの密談の近くを通り過ぎようとする。老臣たちは、慌てて口を閉ざし、何事もなかったかのように振る舞った。
小姓は、不審な目を向けながらも通り過ぎていく。彼は、彼らの言葉の断片を耳にしていた。
「……松平と手を組む……」「……若殿の暴走を……」「……織田家が滅びる……」
その夜、彼は誰に報告すべきか、一人、自室で逡巡していた。
(今の言葉を、殿に報告すべきか。いや、しかし、もしこのことが知られれば、儂は……)
小姓の脳裏に、老臣たちの凍り付いたような表情が蘇る。彼らの間に流れていた、殺気にも似た重い空気が、今もなお、彼の喉を締め付けているような気がした。
(……もし、あの方たちが本当に裏切ろうとしているなら、それを止めなければ……)
だが、その思いは、命の危険という、確固たる現実の前に、ひどく脆いものに感じられた。小姓は、自室の蝋燭の炎を見つめる。炎は、彼の心の揺れを映すかのように、弱々しく揺らめいていた。
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同じ頃、柴田勝家は自室で、刀を手入れしていた。磨き上げられた刀身に、部屋を照らす灯火が揺らめいて映る。彼は、刀身に油を丁寧に塗っていく。油の匂いが鼻腔をくすぐり、布の柔らかな手触りが指先に伝わる。信行を処断した際の信長の冷たい眼差しが、まるで悪夢のように刀身に映り込む。
(次はお主かもしれぬぞ、勝家……)
心の奥底で囁く声が聞こえた。それは、彼が幼少期から、父との厳しい稽古の中で、竹刀の痛みを耐えながら学んできた「誉れ」という価値観が、信長の「理」に敗北したという事実を突きつけていた。
(武士たるもの、己の主君の命に従い、ただひたすらに忠義を尽くす。それこそが、武士の「誉れ」だ。だが……)
勝家は、刀の鞘に手をかけた。一度は抜きかけ、しかし、思いとどまって鞘に戻す。その動作を何度も繰り返す。その手は、まるで己の心臓を握り潰そうとしているかのように、震えていた。それは、彼の心が、信長への忠義と、己の身を守るための「裏切り」という二つの選択肢の間で激しく揺れ動いていることを示していた。
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一方、藤吉郎は、清洲城下の市場にいた。
「おい、あれが、あの成り上がりの猿か?」
「清洲城を任されたんだとよ。下賤な身分なのに、とんだ出世だ」
道行く人々からの嘲笑や好奇の視線が、藤吉郎に突き刺さる。その中には、あからさまな侮蔑の目を向ける若侍の姿もあった。
「所詮は下郎。城主に相応しい器量があるとは思えぬ」
若侍の言葉は、氷のように冷たく、藤吉郎の心を刺す。しかし、藤吉郎は、その言葉を拾うことなく、魚屋の威勢のいい声、八百屋の新鮮な野菜の匂い、豆腐屋から立ち上る湯気を深く吸い込んだ。それは、彼を嘲笑う者たちの声とは対照的に、彼の心を安堵させる、庶民の生活の匂いだった。
(清洲を変えてみせる。俺が、若殿の「理」が正しいと証明してやる……!)
藤吉郎は、強く拳を握りしめ、泥と汗で汚れた手のひらを、清洲城の石垣に押し当てた。その冷たい感触が、目の前の光景が夢ではないことを証明していた。人々の嘲笑の中、一部の町娘や、無邪気な子供たちが、彼に好意的な視線を向けている。
「あの人、泥臭いけど、なんだか頼もしいね」
そんな声が耳に届く。その視線が、彼の胸を満たした。それは、彼がこれから成し遂げようとしていることが、決して無意味ではないことを、強く教えてくれる光だった。
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その日の午後、信長の命を受けた犬千代は、三河へと向かっていた。馬蹄が、雨上がりの荒れた山道に湿った音を立てる。鎧がギシギシと音を立て、道端にいた農民が、怯えた様子で道を避ける。犬千代は、馬上で静かに目を閉じ、信長の言葉を反芻していた。
『義元の死で動揺している三河・駿河を揺さぶり、松平や今川の残党を牽制する』
道中で耳にする噂話が、犬千代の耳に届く。「松平元康は今川を見限るのでは」「今川家は後継者争いで混乱している」という噂が飛び交っていた。夜営のため焚き火を囲む兵士たちの間でも、その噂は飛び交っている。
「松平様が今川から離れるとは……」
「これで三河も落ち着くか……いや、かえって混乱するやもしれん」
犬千代は、その言葉に静かに頷いた。兵士たちの間には、信長への忠義だけでなく、戦に対する根源的な恐怖と、先行きへの不安が見て取れた。彼らは信長という絶対的な存在に怯え、その命令に従うことしかできない。
(俺も……この者たちと同じ、信長様の犬か……)
犬千代の心の中に、そんな問いが生まれた。
三河との国境に近づくにつれ、松林の奥に、かすかに灯る陣幕の光が見えた。それは、戦がまだ終わっていないことを物語っていた。遠雷が鳴り響くたび、犬千代の心臓は、不吉な未来を直感する。
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夕暮れの空が、血のように赤く染まる。清洲城の天守に反射した夕陽は、まるで血の色のように見えた。黒い鴉の群れが、不吉な鳴き声を上げながら、古き武士の「誉れ」を食い散らかすように飛び去る。
戦いは終わった。だが、信長の「理」は、新たな戦いを、尾張の内部と外部に生み出していた。




