第25話 兄たりし者
末森城、信行の私室。夜風が、信行の頬を冷たく撫でる。窓の外では、末森城に集結した兵たちが、ざわめきながら松明の炎を揺らしている。甲冑の緒を締め直す乾いた音、槍先が擦れる金属音。それは、信長への反旗を翻す、彼自身の心の鼓動だった。
信行は、静かに刀を抜いた。漆黒の鞘から現れた刀身に、彼の顔が揺らめいて映る。その刀身に映る自分の顔が、幼い頃の自分に重なった。
(兄上…なぜ、あなたは、皆が信じる武士の道を捨てたのです…)
的当てで信長に大敗し、父から「信長には才がある。お前は、この家を支える『武士の誉れ』を守りなさい」と諭された日。母から「真面目な信行は、いつかわしらの希望になる」と慰められた夜。その度に、胸に突き刺さるような兄への劣等感と、自分こそが正しいという確信が、彼を支えていた。
「…違う…俺は正しい。兄上のやり方は、この尾張を滅ぼす。俺が…俺こそが、尾張の救い主となるのだ」
信行は、刀身に映る自分の顔に、そう語りかける。彼の瞳には、怒りだけでなく、勝利への高揚感と、自分を正当化する狂気が宿っていた。
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清洲城の天守。信長は、一人、天守の床を静かに歩いていた。足音が、コトン、コトン、と静寂に反響する。蝋燭の炎が、チロチロと揺れ、彼の影が壁に不気味なほど大きく映し出されていた。窓の外では、夜風に揺れる旗がバタバタと音を立て、不穏な空気を掻き立てる。
信長は、天守の窓から城下を見下ろした。遠くで聞こえる祭り囃子と、兵募集の触れ太鼓の音が、彼の鼓動とシンクロするように響く。
(熱狂…そして、その熱狂が、身内を裏切りに駆り立てる)
信長は、過去の壬生での経験を反芻する。裏切りは、常に、最も信頼すべき場所から始まる。それは、彼が天下布武を成す上で、最も避けなければならない障害だった。
(…あの時は、まだ…)
彼の脳裏に、幼い頃、信行と共に狩りに出かけた日の記憶が蘇る。二人で競い合った弓比べ。信行の放った矢が、信長の的に当たり、信行が勝ち誇った顔で笑った。
(あの時の笑い声は、もう聞けぬのか…)
信長の瞳に、一瞬だけ、哀しみの色が浮かんだ。だが、その感情は、すぐに氷のように冷たい光に塗り替えられた。
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末森城の城下は、不穏な空気に包まれていた。宿屋の裏手で、老婆がすすり泣く。「また戦だなんて…あんた、また兵に取られてしまうのかい…」。物資の買い付けに清洲へと向かおうとしていた商人は、不安げに荷車の手綱を握りしめ、ため息をついた。「また物価が高騰する。これで商売が…」。母を探して泣き叫ぶ子供の声が、夜の闇に吸い込まれていく。その小さな悲鳴は、誰にも届かない。
信行の軍が、静かに、しかし確固たる意志を宿した目で、清洲城へと向かっていく。松明の炎が夜空を赤く染め、兵たちの息遣いが、冷たい夜風に白く染まる。甲冑の重みが、一歩一歩、地面に刻まれていく。恐怖と興奮が混ざり合った、どろりとした感情が、兵たちの間を伝播していく。
「…信行様は、本当に若殿を討つつもりか」
ある兵が、隣の兵に囁く。
「…信行様は、尾張の秩序を守ろうとしておられるのだ」
兵たちの声は、怯えと、信行への忠誠心に満ちていた。
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清洲城へと向かう道。使者は、額にじっとりと汗を滲ませ、震える足で末森城を後にした。彼の耳には、末森城から聞こえる兵たちのざわめきが、不気味な響きとして届いていた。
(このままでは、戦になる…!)
使者は、夜道を急いだ。草むらで鳥が飛び立ち、彼の心臓が激しく跳ね上がる。振り返ると、末森城の松明が、炎の塊のように揺れていた。
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夜空に、凍えるような月が一つ。信長は、一人、天守に残り、夜空に浮かぶ月を見つめていた。夜風が、信長の冷たい横顔を撫でる。遠くで、小さく遠雷が鳴り、戦の予感を告げていた。
(天下布武…この理想を成すには、尾張はただの一点に過ぎぬ。されど、この一点を疎かにすれば、全てが崩れ去る)
信長は静かに目を閉じる。彼の脳裏に、信行の姿が浮かぶ。
(弟よ…なぜ、お前は…)
一瞬、兄としての情がよぎるが、すぐに冷徹な理性がそれを押し殺した。
(だが、その情こそが、この先、道を阻むもの。尾張の秩序のため、天下布武のため…この国に新たな夜明けを創るためならば、たとえ血を流すことも厭わぬ。弟であろうと、道を阻むのならば…斬る)
彼の思考は、冷たい論理によって固められていく。鴉の声が、ヒュウ、と風に乗り、不吉な響きを立てる。勝利の鼓動が、彼の胸の奥で、まだ鳴り止まない。それは、桶狭間での勝利を喜ぶ鼓動ではない。これから始まる、孤独な戦いの、始まりを告げる鼓動だった。
月明かりが、信長の冷たい横顔を照らしていた。




