第24話 兄と弟
桶狭間の戦から、およそ一ヶ月後。尾張は、勝利の熱狂に包まれながらも、不穏な空気が満ちていた。清洲城の城下では、商人が威勢のいい声を上げ、市場の活気は以前にも増していた。
「今川からの年貢はもうねえ!これからは自由じゃ!」
子供たちが、楽しげに笑い声をあげ、広場で竹槍を振って遊んでいた。物売りの声に混じって、兵募集の触れ太鼓が、ドンドコ、とどこか浮かれた音を響かせている。その一方で、道端に立つ僧が、静かに念仏を唱え、勝利の裏にある命の尊さを説いていた。
信長は、その城下の喧騒から切り離されたように、清洲城の天守にいた。
(若殿は、桶狭間での勝利で、尾張のすべてを変えようとしている…だが、その変化は、我らの心を脅かしている)
信長の弟、織田信行は、末森城で不満を募らせていた。彼の周りには、信長の非情なやり方に反発する老臣たちが集まっていた。城下からは、信長の軍に加わろうと集う兵たちのざわめきが聞こえてくる。信行は、自室の鏡に映る自分を見つめていた。その顔には、兄への深い劣等感と、自分こそが正しいという確信が入り混じっていた。
彼は、静かに刀を手に取った。冷たい柄が、彼の掌にじっとりと汗を滲ませる。刀を抜きかけては、鞘に戻す。その動作を何度も繰り返した。
(兄上は…なぜ、あのようなやり方でしか、天下を取れないのだ…)
信行の脳裏には、幼い頃、信長にいつも笑われていた記憶が蘇る。
『信行よ、お主は、わしと違って真面目だな。だが、真面目すぎると、天下は取れぬぞ』
信長のその言葉が、信行の心を深くえぐった。信長が示した勝利は、彼の信じる武士の道とは、あまりにもかけ離れたものだったからだ。
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その頃、清洲城の天守から、信長は静かに尾張の夜空を眺めていた。夜空には、凍えるような月が一つ。城下の家々から漏れる篝火の光が、小さな点となって広がっている。その光の中からは、子供たちのはしゃぐ声が、楽しげに聞こえてくる。しかし、その笑い声に混じって、戦死した家族を偲ぶ、すすり泣きの声も聞こえるような気がした。
(勝利の熱狂…それが、新たな亀裂を生む)
信長は、勝利に沸く城下と、自分の心に渦巻く冷徹な思考の対比を感じていた。彼は、壬生での経験から、最も危険な裏切りは、身内から生まれることを知っていた。
その時、犬千代が、静かに信長の元へとやってきた。信長の静寂は、周囲の家臣たちを怯えさせていた。彼らは、信長の顔色を窺いながら、息をひそめている。
「犬千代、信行の動きは…」
信長が静かに問うと、犬千代は淡々と報告を続ける。
「若殿の懸念通りにございます。信行様は、不穏な動きを見せております。老臣たちと密会を重ね、兵を集めている模様にございます」
信長は、ただ無言で夜景を見つめていた。信行。実の弟。彼は、武士の誉れを重んじ、信長のやり方に反発している。
(裏切り…俺の理想を、最も深く理解するはずの者が、俺の道を阻もうとするのか…)
信長の思考が、冷徹に選択肢を分析する。信行を罰するべきか、それとも…。彼の瞳に、雷光の一閃のような冷たい光が宿る。
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信長は、信行の元へ、一人の使者を送る。
「兄上からの御命でございます。尾張統一のため、信行様も、我らの軍に加わっていただきたい、と…」
使者は、信行の前で頭を下げた。だが、彼の声は震え、顔は恐怖に引きつっていた。彼の周りにいる老臣たちは、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「愚かな兄めが。この信行を、まだ自分の手駒にできるとでも思っているのか…」
老臣の一人が、軽蔑のこもった声で使者を嘲笑する。
「ほう…随分と偉くなったものだ。この信行様を、愚かなる若殿の軍に加われ、と…?笑止千万!」
使者は、何も言えず、末森城を後にした。城を出て、清洲城へと戻る道すがら、使者の耳には、末森城から聞こえる兵たちのざわめきが、不気味な響きとして届いていた。
信長は、一人、天守に残り、夜空に浮かぶ月を見つめていた。
夜風が、信長の冷たい横顔を撫でる。遠くで、小さく遠雷が鳴り、戦の予感を告げていた。
(俺は…俺の理想を貫くためならば、たとえ血を流すことも厭わぬ。それが…この国の、新たな夜明けを創るための、必然なのだ)
鴉の声が、ヒュウ、と風に乗り、不吉な響きを立てる。勝利の鼓動が、彼の胸の奥で、まだ鳴り止まない。それは、桶狭間での勝利を喜ぶ鼓動ではない。これから始まる、孤独な戦いの、始まりを告げる鼓動だった。
月明かりが、信長の冷たい横顔を照らしていた。




