第20話 桶狭間奇襲
桶狭間、雷鳴が近づく黎明の刻。
夜と朝の狭間に沈んだ谷を、冷たい風が吹き抜け、信長軍の旗指物を激しくばたつかせた。バタタタ、と乾いた音が、湿った空気に響く。兵たちの影は、一瞬の稲光に白い紙切れのように浮かび上がり、再び闇に沈んだ。
その谷底に満ちていたのは、雨音でも、土の匂いでもなかった。ただ、嵐を待つ大地そのもののような、異様なまでの沈黙だった。誰一人声を発さず、息遣いは抑えられ、ただ風の音だけが、不気味に響き渡る。
信長は、その沈黙の中心にいた。
彼は微動だにせず、ただ前を見据えたまま、じっと立っている。稲光が走るたび、その瞳が、まるで雷光の一閃すら呑み込むかのように冷たく光った。その顔は、まるで感情というものが存在しない彫刻のようだった。その異様な静けさが、周囲の兵たちの心に、新たな恐怖と、そして確固たる決意を植え付けていた。
遠くで、若侍が雷の音に怯えたように、かすかに肩を震わせるのが見えた。その隣に立つ古参の兵士は、ただ静かに目を閉じ、覚悟を決めたように唇を固く結んでいた。この静寂は、恐怖と決意が混じり合う、嵐の前の凪だった。
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今川本陣
時を同じくして、今川義元は、本陣で酒宴を開いていた。
豪勢な膳には、鯉や鯛の刺身が美しく並べられ、上質な酒が惜しげもなく注がれている。酒で赤らんだ顔の将兵たちは、酒を浴びるように飲み、笑い声をあげ、甲冑を脱ぎ捨ててくつろいでいた。
「ほう、信長めが、この桶狭間山に陣を敷いたと申すか!」
義元は、酒を呷ると、高らかに笑った。その声には、信長を嘲るかのような、確信に満ちた響きがあった。
「奴は、我らの大軍を前に、恐怖に震え、自ら首を差し出すつもりか。愚かな」
酩酊した将兵たちが、義元の言葉に追従するように、笑い声をあげた。彼らの甲冑は、酒の匂いにまみれ、刀の柄は、豪奢な装飾で飾られていた。誰もが、すでに勝利を確信しているようだった。
その時、遠くで雷鳴が轟いた。
「…何事だ?」
将兵の一人が、不審に思ったように顔を上げた。だが、その言葉は、鬨の声にかき消された。
「織田信長、参る!」
信長軍が、桶狭間山の丘を駆け下りてきた。雨粒を裂くように、槍の穂先が乱舞し、泥濘を踏み鳴らす無数の足音が地鳴りのように響く。霧と雨の闇の中から現れた信長軍は、まるで地獄から来た鬼のようだった。
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桶狭間山、山頂
勝家は、本陣の守りを固めながら、遠くで起こる激戦の音を聞いていた。鬨の声、叫び声、金物音。それらが雨音と混ざり合い、彼の耳に届く。
(若殿は、俺を…正面から戦わせるつもりはないのか…)
彼の心臓は、重い鉄塊のように胸の奥で沈んでいた。手にはじっとりと汗が滲み、刀の柄を握る指先が滑る。唇は乾き、無意識に舌で湿らせた。武士の誉れを掲げてきた己の道と、信長が示す冷徹な理想。その二つの道が、彼の心の中で激しく衝突していた。
遠くから聞こえる戦の音に、彼の心は激しく揺れ動く。
(…俺も、あそこへ行きたい…!若殿の傍で、この刀を振るいたい…!)
勝家は、無意識に刀の柄に手をかけた。鞘から数センチ、刀身が引き抜かれ、雨に濡れて鈍く光る。だが、彼の思考はそこで止まった。
(だが…若殿は、この桶狭間山を、俺に任せたのだ。これは、侮辱か?いや…違う。これは、この桶狭間山こそが、我らが勝利への、最後の砦だと、そう信じているからだ。…俺は、この桶狭間山の「守護者」。…この場所から、若殿の勝利を、守り抜かねば…!)
勝家は、引き抜いた刀を、再び鞘に戻した。カチリと音が鳴り、その音は、彼の心の決意を物語っていた。
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今川本陣
酒宴の楽しげな雰囲気は、一瞬にして崩壊した。
「な、何事だ!」
義元は、上機嫌だった顔を歪ませ、叫んだ。酒杯が手から滑り落ち、豪奢な器が割れる音が、あちこちで響く。
義元は、震える手で、急ぎ鎧を着ようと試みる。だが、雨に濡れて滑るのか、それとも極度の動揺からか、紐がうまく結べない。
「ま、待て!貴様ら、いったい…」
彼の声は、混乱する兵たちの声にかき消された。
信長が小部隊を率いて義元の本陣へと迫る。泥にまみれながら、敵の横陣を突破し、本陣の幕を突き破ったのは藤吉郎だった。
藤吉郎は、泥に膝をつき、必死に顔を上げた。雨と汗が混じり、顔は泥まみれだ。だが、その瞳には、確かな成果を勝ち取った喜びが宿っていた。
信長は、藤吉郎の言葉に静かに頷いた。
「藤吉郎、ご苦労であった」
信長は、そう告げると、ゆっくりと立ち上がった。
(桶狭間山…この地こそが、俺の、そしてこの国の、運命を変える場所だ)
信長の脳裏に、壬生で見た、裏切り者の顔が蘇る。彼らは皆、口を揃えて「誉れ」を語り、己の怠惰と裏切りを正当化した。だが、この桶狭間山で、信長は、その「誉れ」を、己の「理想」で塗り替える。
「義元、貴様の命は、この桶狭間山に捧げられる。それが、この桶狭間山の、最後の役目だ」
信長の言葉が、静かに、しかし確固たる意志を宿して、戦場に響き渡った。
信長軍の兵士たちが、槍を構え、義元の本陣へと殺到する。雨粒を裂くように、槍の穂先が乱舞し、泥濘を踏み鳴らす無数の足音が地鳴りのように響く。
「うおおおおお!」
信長軍の兵士たちの鬨の声が、今川兵の悲鳴をかき消していく。槍と槍がぶつかり合うたびに、火花が散り、泥に足を取られて転ぶ敵兵が、信長軍の足元で踏みにじられる。
酒と料理が飛び散る中、血が混じり、白布の幕が赤く染まっていく。
すべては、ここから始まるのだ。




