第13話 風雲の兆し
今川領、駿府。
重臣、鵜殿氏長の屋敷は、重苦しい空気に包まれていた。障子の隙間から入る冷たい風に畳の縁が湿り、広間の火鉢の炭が爆ぜる音がやけに大きく響く。彼は、岡部元信と朝比奈泰朝を前に、信長から届いた、偽りの書状を広げていた。
「…義元公は、岡部殿を疎んじ、鵜殿殿に所領を与えるつもりだ、と記してある」
鵜殿が言葉を濁すと、岡部の眉間に深い皺が寄った。岡部は、苛立って机を叩くと、漆の机の脚がたわみ、器の水が跳ねた。
「そのような下らん噂、信じるに足るか! 鵜殿殿、信長は我らの結束を乱そうと、流言を放っておるのだ!」
岡部の声が、広間に響き渡る。だが、朝比奈は沈黙したまま、ただじっと岡部の顔を見つめている。彼の指先は、無意識に刀の柄に触れていた。
(岡部殿は、我々を疑っている。そうでなければ、これほどまでに声を荒らげる道理がない)
朝比奈の脳裏に、信長から届いた別の書状の内容が蘇る。そこには、岡部が信長に内通している、という噂が記されていた。
鵜殿は、二人の間に走る剣のような視線に、ただ汗を拭うことしかできない。
「…信長は、我らの信義を壊そうとしている。だが、その信義の糸は、既にほつれ始めているのではあるまいか」
朝比奈の声が、静かに、しかし決定的に、広間の空気を切り裂いた。
その言葉に、鵜殿と岡部は、互いに顔を見合わせた。そこに、かつての信義はなかった。あるのは、互いの腹を探り合う、冷たい視線だけだった。
---
その頃、駿府城では、今川義元が、信長から送られてきた、別の書状を読んでいた。
「…なるほど、信長殿は、中々面白いことをしてくれる」
義元は、書状を扇子で軽く叩くと、静かに笑った。扇子を叩くたびに、墨の香が漂い、書状の端に燃えた炭の灰が落ちる。書状には、信長からの友好の意と、今川家の重臣たちの不満が記されていた。
「若き信長殿は、我らを愚弄し、我らの結束を乱そうとしている。だが、その流言は、我らの結束を、より強固なものにする」
義元は、書状を燃やすと、静かに言った。炎に映る義元の顔は、勝利を確信した笑みに見えた。
「信長殿は、まだ、この今川の結束の強さを、理解しておらぬ。だが、その愚かさが、信長殿の命取りとなろう」
義元は、そう告げると、ゆっくりと立ち上がった。肥えた身体の衣擦れの音が、静かな広間に響く。彼の脳裏には、信長との、直接的な対決の図面が、既に描かれていた。
---
その日の午後、藤吉郎は、清洲城へと戻ってきた。彼の足袋には泥がこびりつき、肩には街道の埃が積もっている。その顔には、安堵と、そして、信長の恐ろしさを改めて実感した、疲労が滲んでいた。
「若殿、御報告に参りました」
藤吉郎は、信長の前へとやってきた。信長は、藤吉郎の顔をじっと見つめると、静かに頷いた。
「今川領の様子は、どうであった」
信長が問うと、藤吉郎は言葉を続ける。
「…噂は、今川領内に、まるで干草に火を投じたように広がっております。重臣たちは互いに腹を探り合い、今川殿への不信の念を抱き始めておりまする」
藤吉郎の言葉に、信長の口元が僅かに緩んだ。瞳は氷のように冷たいままだった。
(よし。毒は、今川という巨大な体に、じわりと回った)
信長の脳裏に、壬生で見た、裏切り者の顔が蘇る。彼らは皆、口を揃えて「誉れ」を語り、己の怠惰と裏切りを正当化した。
「藤吉郎、ご苦労であった」
信長は、そう告げると、犬千代と勝家を呼んだ。
「犬千代、今川領の兵糧蔵、そして、兵力について、改めて洗い直せ」
信長の言葉に、犬千代は無言で頷いた。
「勝家殿、貴殿は、現実を論じられる。その正しさが、この城を支えている。だが、その現実には、見えぬ毒がある」
信長は、勝家の顔を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「今川義元は、必ずや、我らに戦を仕掛けてくる。貴殿には、その戦に、正面から立ち向かう、軍の指揮を執ってもらいたい」
信長の言葉に、勝家の顔に緊張が走った。それは、信長からの、絶対的な命令だった。
(若殿は、俺を試しているのか…俺を捨て駒と見るのか…)
勝家の脳裏には、信長の非情な裁きが蘇る。彼は、信長の恐ろしさを改めて実感した。信長は、ただのうつけではない。彼は、この清洲を、この尾張を、そして、この国を、己の理想の元に、作り変えようとしている。
夕暮れの空に、夕焼けが血のように広がる。風が、砂利をさらい、まるで戦場を先に掃除しているかのようだった。
すべては、ここから始まるのだ。




