「なんで男同士のキスはダメ?」
ゴン、と鈍い音が生徒会室に響く。
癖っ毛の少年が、頭を庇いつつ恨みがましい目でこちらを見てくる。
「……なにするんだ」
「いえ、非は殿下にありますよね?」
自分で次期国王をぶん殴って、動悸が止まらない――そう言うと、まるで自分が手を下したことに臣下としてあるまじき行為に良心の咎めが、とでも誤解されそうだ。ドキドキしているのは、もっと他に理由がある。
「なんだよ……ちょっと、キスしてみただけじゃんか」
「でしたら自分は『ちょっと仕返しに殴った』と言わせていただきます……!」
補足しておくと、僕は男である。
眠たげな瞳。少年らしさが抜けない、愛らしい顔立ち。シーク・ハイド王子は、外国の言葉を借りれば『小動物系』とでも称される美男子である。
王族も通う学園では、慣例に従って生徒会長は王族がなる。しかし、そんなものがなくたってこの王子さまは生徒会長に推されたことだろう。
文武両道。見目麗しい外見。
その外見から侮られる可能性はあるかもしれないが、ブ男よりはよほどいい。とはいえ、神がこの世に完全無欠の人間を生み出すはずもなく、彼には致命的な欠陥があった。
人間的に――彼は、人の心というのが、理解できないらしいのだ。
共感する力がないわけではない。ただ、それが著しく鈍い。幼少のころから成長していない。
知識としての価値観で、自分を納得させることができない。
「なんで、キスがダメなのさ」
「男同士でしょう、僕達は……」
「じゃ、なんで男同士じゃダメなのさ」
唇を曲げて、膝を抱くように体を丸め――ああこれは完全に小動物だ――殿下はじとりとこちらを睨んでくる。
僕は殿下の幼馴染として――後は、『同世代の教育係』として――とりあえず常識面から攻めてみる。
「一般的に、接吻は男女で交わすものです」
「わかってる」
「何より、口づけは儀式的な意味合いからしても大変尊ばれるもので、かつては唇を奪われただけで汚されたと身投げした乙女の話もあるほどです」
「それも知ってる」
髪の毛をくるくると、人差し指に巻き付けながら、殿下はよく通る、静かな声で言う。
「でも、しちゃいけないというか、普通はしないだけで、できないわけじゃない」
それを言われれば、言い返す言葉が見つからない。
「どうして?」
首をかしげる彼に、とりあえず僕は知識を探す。
考えろ。
男同士でキスをしてはいけない理由。
外国では男性同士であっても、親愛の意味で頬に口づけることはあるらしいが、それでも。
「……同性愛は、神の教えによってけしからぬものとされています」
「答えになってない」
その通りだった。殿下は自分の髪の上から頭を押さえながら、
「見做される可能性はあっても、それは本人たちの問題。そもそも教典を紐解けば、一般に忌避される近親婚の話だってある……子孫を残すために、娘が父親の子供を授かる話とか」
「あー、そうでしたっけ?」
殿下は虚空を見つめながら、詳しい出典を諳んじる。そういうことには明るいが、情緒や、慣習というのがてんでダメなのだ。これが普通の貴族なら、鼻つまみ者にされる程度で済んだかもしれない。
しかし、彼は後に国を代表し、率いる者だ。彼が常識知らずな振る舞いをすれば、国が乱れる。
例え本人が納得できなくても、秩序や慣習を守ってもらえれば、それでいいのだ。
このように、疑問のままに実行さえしなければ。
「お前はいっつも僕を、常識で糺そうとするけどさ……」
かりかり、と髪を掻き回しつつ、こちらの瞳を覗き込むようにして、
「僕だって、考えなしにするわけじゃない」
「というと?」
「キスは、親愛の証だろ?」
「そうですね」
「お前は僕を立てる立場だけど……それだけじゃない。それだけじゃないからキスできるし、僕の心も、なんかこう……もにょもにょする」
お前はどうなんだ、と言わんばかりに視線を向けられ、こちらはぐっと言葉に詰まる。
「……ドキドキしましたよ。ええ。色々な意味で」
「ん……お前も、わかんないの?」
「ええ。あなたのことが」
「じゃあ、もう一回――」
「しませんからね?」
無遠慮に距離を詰めてくる彼の顔を押し戻しつつ、僕はため息をつく。
そうだ。
臣下であっても、嫌いだったらここまで長い付き合いになってはいない。
人間的に欠陥がある、と評されてはいるけれど、人間的に魅力がないわけじゃない。むしろその逆だ。
だからこそ困るのだ。どう対処すればいいのかわからなくなるから。
「わっかんないなぁ……なんでダメなのさ」
「ダメなものはダメ、と言っても、説得力に欠けますね……」
「わかってるじゃんか」
そういう風に言い聞かせた時、殿下は拗ねるのだ。そして、躍起になって学園中の生徒に口づけしまくるに違いない。
多分男子に。
その地獄絵図は考えたくない。
「……その、殿下。こういうことは言いたくないんですが」
「なにさ」
「一般的に、暗黙の了解で禁止されている道徳的な風習は、みんなでそれを守る、団結していくという意味合いもあったと思うんです」
「元々は意味あるものでも、時の流れで形骸化して、理由がわからなくなるなんて、よくあること」
「ええ。でも、そもそもそれが打ち立てられた時に、殿下のように疑問を抱いた人もいたと思うんです」
「確かに」
僅かに彼の姿勢が変わる。これは、興味が出てきた時の彼の癖だ。
「でも、その疑問は結局黙殺されることになります。なぜなら、それは団結する人々にとって邪魔だから。そして何より……」
「少数の声だから?」
「はい」
僕は、殿下の目をしっかりと捉える。
「殿下は、その少数派の一人なのだと。自分はそう考えています。それは決して悪いことではありませんが、弱みとなりうる。諸刃の剣です」
「……形骸化したもの、定着した価値観の転覆は、確固とした理由づけがなされなければ不可能、か。それでいて、当時の理由は行方知れずになっている」
「仰る通りです」
んー、と顔をしかめつつ、殿下は苦い薬を飲み下すようにして、やがて頷いた。
「理屈はわかった」
「なによりです」
「で、お前は、僕にキスされてどうだった?」
どう答えても詰みだろこの問答。
どんなに取り繕っても、親愛の証として与えられたものは、感情面で答える他ないのだから。
「……殿下に信頼していただいて、悪い気はしません。ええ。愛していただいているとわかって嬉しかったですとも!」
「じゃ、これからもナイショで――」
「しねえっつってんだろ」
唇を奪おうとぐいぐい迫ってくる殿下を押さえつけつつ、僕は天を仰ぐ。
外国では王子を『天子』と呼ぶ国もあるという。天の子供。
教典の神の御子を除けば、神から権利を託された王家は、確かに天の子供と呼べるのだろう。
教典の神の御子も、当時からすれば相当の異端者だったと語られる。その教えを是としたのは後の世の人々であり信じている人々だ。
いずれ僕が仕える殿下も、そんな彼のように語られることがあるのだろうか。
とりあえず、人の唇を奪うことに執心しているおバカの頭に、もう一発拳骨を落としておいた。