ミランダの秘密
◇
図書室に行く気分ではなかった。ルカは宮で刺繍をして過ごした。手を動かしていると嫌なことを忘れられる。そこへ妃殿下が来てくださった。先日のお礼として大量の果物をいただく。途端に憂鬱な気分は吹き飛んだ。
◇
「殿下は写本がお好きなんですね?」
「というか昔の風俗に興味があるんです。中世の祈祷書や説話集に載っているような」
ルカは熱を込めて語った。妃殿下が重要な情報をくれる。
「ベリー公爵家に伝わる時祷書は、確か中世のものですわ」
(何それ!見たい!)
心の声が漏れてしまった。妃殿下は笑って公爵に訊いてみると約束をしてくれた。そうして2人は日が暮れるまでお喋りを楽しんだ。妃殿下が迎えの馬車に乗る時、ルカは土産に薔薇の刺繍をしたハンカチを贈った。庭の薔薇も数本切って渡した。
「奥方に差し上げるならご夫君もお許しくださるでしょう」
自分のことばかり話してしまった。次回は王太子殿下との思い出も聞かせていただこう。
「…ありがとうございます」
妃殿下は目を伏せた。浮かんだ涙をルカは見ないようにした。夫を亡くす辛さは知っている。
♡
ミランダは殿下にいただいたハンカチを撫でた。時間を忘れて話してしまった。楽しかった。だが王太子宮の薔薇を見て思い出してしまった。
これはあの女性の名が付けられた薔薇。夫が最も寵愛した女性の。思い出す度に黒い感情に塗りつぶされる。彼女は馬車の床に薔薇を投げ捨てた。
『君に正妻の地位を与える。それで満足してくれ』
結婚式の夜。そう言い捨てて夫は愛人の元に行った。ミランダの部屋に来ることは二度と無かった。呼ばれることも無かった。公務の時に王太子の隣に立つ妃。それがベリー公爵令嬢だった彼女の役目だった。
『殿下が私の為に作らせた薔薇なんですのよ』
誇らしげに髪に差す愛人。身分は低いが寵愛は厚い。宮廷人は彼女に靡いた。夫が死ぬまでの1年間、王太子妃は軽んじられた。 “お飾り妃殿下”だった記憶は、今なおミランダを苦しめていた。
◇
「えっ。庭のバラを差し上げたんですか?」
護衛さんがすっとんきょうな声で言った。夕食後、ルカは服のサイズ直しをしていた。
「まずかったですか?王太子殿下を偲べればと思って…」
護衛さんは顔を曇らせた。
「あれはですね…」
薔薇にまつわる話を聞く。ルカは仰天した。とんでもない間違いをしでかしてしまった。裁縫道具を放り出し、師匠の馬を預けてある馬屋に走った。
「修道士ルカの馬?ああ…」
馬屋番は帳面を見た。急いで城外に出たいと伝えたが、断られた。夜の7時までしか馬は引き出せないと言われた。仕方なくルカは徒歩で公爵邸に向かった。
(謝らなきゃ)
気付くとルカは走っていた。背後で護衛さんが何か叫んでいたが聞こえなかった。
◆
宰相を乗せた馬車はもうすぐ公爵邸に着くところだった。横で馬を走らせる護衛が大声で知らせた。
「何者かが前方にいます!」
ミカエルは窓を開けた。
「また賊か?」
「分かりません。あ、端に寄りました」
そのまま馬車が追い抜く。暗闇の中、男が走っている。銀の髪に白い横顔。凄まじい速さで殿下が走っている。
「殿下っ!?おいっ!馬車を止めろ!」
急には止まれない。減速した馬車は殿下に並んだ。
「殿下!何をしてるんです!?」
「あ!閣下!良かった!」
ようやく馬車と殿下が止まった。既に門の前だった。
◇
公爵邸は王都の郊外、城から10キロの森の中にあった。折よく宰相閣下と会えたので、ルカは中に入れてもらえた。だが通された客間で怒られた。
「走って来たですって?!そんな無茶な!普通は馬車です!」
「すみません…。あの、夜分に申し訳ないのですが、妃殿下は…」
もう9時だ。お休みになったかな。
「妹に会いにいらしたのですか?少しお待ちください」
閣下は怒りながらも呼んでくれた。すぐに妃殿下が現れた。良かった。ルカは立ち上がり、深く頭を下げた。
♡
兄に呼ばれて客間に行くとルーカス殿下がいた。乱れた髪に土埃だらけの靴。砂嵐にあった人みたいだ。
「妃殿下。失礼しましたっ!」
殿下はいきなり謝った。ミランダは驚いた。兄もぽかんとしている。
「薔薇のことです。僕は何という酷い仕打ちを…」
ああ。知られてしまったのか。“お飾り妃殿下”だったことを。ミランダは自嘲した。
「良いんです。殿下は宮廷にいらしたばかりですもの」
「知らなかったではすみません」
殿下は顔を上げた。青い瞳が真っ直ぐにミランダを見た。銀の眉は寄せられ口元は引き結ばれている。
怒っていらっしゃる。ご自身と、あと何かに。
「ごめんなさい。貴女を傷つけてしまった」
ミランダは胸が熱くなった。こんなに真剣に謝罪をされたのは初めてだ。涙が頬を伝わる。殿下はミランダの右手を取った。乾いてゴツゴツした掌で包み込む。
「泣かないでミランダ。…許してくれる?」
名で呼ばれた。彼女は頷いた。
「じゃあ友達になろう。僕のことも“ルカ”と」
「ルカ。どうしてそんな埃だらけなの?」
ルカは決まり悪そうに説明した。走ってきたのだと。ミランダはおかしくて笑ってしまった。兄は渋い顔をしていた。その夜は公爵家に泊まってもらうことになった。