嫌がらせ
◆
宰相は王太子宮に慌てて駆けつけた。まだ8時なのに真っ暗だった。入口に警備兵もいない。
「殿下!ご無事ですか!」
大声で呼びかけると、ドアが開いた。ランプを持ったルーカス殿下がいた。寝ていたようで夜着のままだ。
やられた。宮廷流の洗礼だ。無人の宮に行かせるなど想像もしなかった。丸2日間、殿下をお一人にさせてしまった。食事や湯浴みはどうなさったのだろう。もし襲撃されていたら。最悪の事態を想像して怒りを抑えられない。
殿下は手際よく茶を淹れた。ミカエルは黙って飲んだ。驚くほど美味い。
「あ。クッキーも焼いたんです。取ってきますね」
茶を飲みに来たのでは無いが。殿下は厨房に行った。そこへ他の部屋の様子を見に行かせた部下が戻って来た。
「玄関ホールと客間、寝室以外は埃を被っています。どうやら王太子殿下の死後すぐに閉じられたようですね」
「何だと?ではこの部屋は誰が…」
まさか。ルーカス殿下が清掃したのか。ミカエルは目眩がした。
「お待たせしました。北の修道院名物・ハーブクッキーですよ」
焼き菓子が出される。殿下が勧めるので一つ口に入れた。美味い。ミカエルは深呼吸をした。
「ありがとうございます。ところで殿下。お食事はどうなさっていたのですか?」
「食糧庫にある物を好きに使ってます。このハーブは庭に植えてありました」
さすが王宮。小麦も油も最高級品ですねぇ。砂糖まであるし。修道院では蜂蜜なんですよ…。
笑顔で話す殿下。宰相は呆気に取られた。ご存知ないのだ。貴族は自炊しない。掃除もしないと。
◇
夕べ急に宰相閣下が来た。お茶を飲んで帰った。護衛として従者を1人置いて行った。
『早急に使用人を手配します。ご馳走様でした…』
元気がなかったからお土産にクッキーを差し上げた。
ルカはいつも通り夜明け前に起きて祈り、朝食の支度をした。護衛さんの分も作る。朝日が庭を照らす頃に彼は起きてきた。
「おはようございます。朝食を庭で食べませんか?」
ルカが外のテーブルに皿を並べると、護衛さんは慌てて走ってきた。
「わ…私が!その、お食事の用意もしますので!」
「ついでですから」
復活した薔薇の花に朝露が煌めく。誰かと一緒にとる食事は良いものだ。無言だけど。
その後、一緒に護衛さんの部屋を掃除した。彼は自分ですると言ったが、雑巾の絞り方も怪しかった。子爵家の3男だそうだ。宰相閣下は25歳でまだ独身だとか、若くして宰相となったせいで妬まれて大変だとか。色々教えてくれた。
「終わりましたね。では私は今から図書室に行ってきます」
ルカは昨日届けられた鍵を持った。今日から入り浸るつもりだ。2週間で全て見なければ。
「お供します」
一人で大丈夫だと言ったのだが護衛さんもついて来てくれた。
◆
本当は殿下のお世話をしなければいけない。なのに食事の用意も掃除もさせてしまった。
(変な王子だよなぁ。見た目は人形みたいに綺麗なのに。嫌がらせにも気づいてないし)
護衛は前を歩くルーカス殿下をじっくり眺めた。官吏たちが出勤する時間だ。皆目を奪われている。殿下は全く気にせず、早足で歩いてゆく。図書室の場所を知っているようだ。
「夕方まで篭ります。それまでお好きにどうぞ」
そう言って殿下は図書室に入った。護衛はぽつねんと扉の前に残された。離れる訳にはいかない。
◆
夕方になって殿下は出てきた。鍵をして宮に戻る。護衛は携帯食を齧ったが、昼も食べずに殿下は大丈夫なのか。早く帰ろうと人気の無い中庭を突っ切ろうとした。その時、殿下にいきなり突き飛ばされた。
「危ないっ!」
バシャッと水が降ってきた。殿下にもろにかかる。護衛が上を見ると上階の窓が開いていて人影が見えた。
「殿下?!」
犯人を追うより殿下だ。振り向くと殿下の白い僧服は黒く汚れていた。インクを溶かした汚水だった。
「良かった。2人してかかるところでした」
護衛は呆然と突っ立っていた。本当にこんな嫌がらせをする人間がいたとは。殿下は笑って衣の匂いを嗅いだ。
「都のインクは花の香りがするんですね」
貴婦人の使うものだ。我に返った護衛はハンカチを殿下に渡した。
◇
宮に戻ったルカは湯を沸かして体を洗った。僧服は1回洗っただけではダメだった。困った。正装はこの一着だけだ。
「殿下。これはどうでしょう?」
護衛さんが王太子殿下のものらしい上等な服を持ってきた。
「お借りして良いのでしょうか?」
「予備の衣装室にあったものです。お気に召さなかったのでしょう」
では良いか。試しに着てみると少し大きい。裁縫道具を見つけ出し、ルカは直し始めた。
「申し訳ありません。護衛失格です」
夕食を食べながら詫びられた。
「いいえ。食事の支度をしてくださった。助かりました」
「チーズを切っただけで…」
宰相閣下がすぐに食べられる物を差し入れてくれた。明日には使用人を送るそうだ。食べ終わるとルカはサイズ直しの続きをした。8時になったのでお祈りをして就寝した。ちょっとした騒動はあったが、美しい写本を心ゆくまで見られた。良い1日だった。