◆ 第六章 王太子はお飾り寵妃を溺愛する(6)
その晩、アルフレッドは夜更けに姿を現した。
「待たせたか?」
机に向かって翻訳作業をしていたベアトリスの手元を見て、アルフレッドは小首を傾げる。ベアトリスの手元に何枚もの原稿用紙が積まれていたからだろう。
「いえ。大丈夫です」
ベアトリスは首を左右に振る。
「そうか?」
アルフレッドは少し訝しげな表情をしたが、それ以上深く追求することもなく部屋のソファーに座る。ベアトリスもアルフレッドの隣に座った。
「ランスの件、まだまだ時間がかかっているが、ようやく片付きそうだ」
「そうですか」
ベアトリスは相槌を打つ。
「殿下、大丈夫ですか?」
「何が?」
「いえ、その──」
ベアトリスは口ごもる。
ランスはアルフレッドにとって、元々の婚約者候補の兄であり、自身の側近であり、古くから付き合いのあった最も信頼していた人物だったはずだ。そんな人に裏切られ、傷つかないはずはない。
アルフレッドは、ベアトリスの態度から考えていることを大体察したようだ。
「では、お前が慰めろ」
「慰めろって……!」
一体何をすればいいのだろう?
よくわからないのでおずおずとアルフレッドの頭を撫でると、さらりとした金髪が指先からこぼれ落ちた。
「俺は子供か?」
アルフレッドが呆れたような顔をする。
「ごめんなさい」
この慰め方がイマイチだったことは、自覚している。
「まあ、いい。お前らしいな」
アルフレッドはソファーの背もたれに背中を預けると、ベアトリスの髪の毛をもてあそぶ。
ふたりの間に沈黙が流れた。
ベアトリスはアルフレッドの横顔を窺い見る。疲れてはいそうだが、機嫌は悪くなさそうに見えた。
(言うなら今しかないわね)
ベアトリスは膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめる
「あの……、殿下」
「なんだ?」
「実はお願いがありまして」
「城下なら、護衛を付けてなら行っていいぞ」
「いえ、その件ではなく」
ベアトリスはすうっと深呼吸する。
「わたくしと離縁してくださいませ!」
「……なぜだ? 理由を言え」
その瞬間、アルフレッドの声が一段低くなった気がした。口元は微笑みを湛えているのに、こちらを見つめる目は全く笑っていない。
「実は、殿下が正妃を娶ろうとしていると噂に聞きました」
「ああ、そうだな」
アルフレッドは鷹揚に頷く。
その反応に、ベアトリスは少なからず傷ついた。
その噂は嘘だと言ってくれることを、心のどこかで期待していたから。
「お飾りとはいえ、わたくしのような寵妃がいると正妃様が面白くないと思うのです。ほら、昼間ずっと一緒にいて、夜もこうして話していることが多いですし──」
ベアトリスは目を伏せる。
本当はベアトリス自身が、アルフレッドが正妃といる姿を間近で見るのが嫌なのだけれど、それは言いたくなかった。
一方のアルフレッドは、目を瞬いた。
「なんだ。もしかして、妬いているのか」
「や、妬いてなど──」
いません!
そう言おうと思ったけれど、それよりも先に口を開いたのはアルフレッドだった。
「俺はお前の能力を非常に高く買っているが、お前は自分のことに関してはてんでダメだな」
「な、なんですか。突然!」
どうしてこんな、突然けなされなければならないのか。
文句を言おうとしたベアトリスの手首を、アルフレッドが引く。
突然引っ張られたベアトリスは咄嗟に反応できず、アルフレッドのほうによろめく。体勢がぐるりと変わり、ベアトリスはアルフレッドに囲い込まれるような格好になった。
「何をなさるんですか!」
キッと睨むと、アルフレッドの薄紫色の目としっかりと目が合った。
「相変わらず、キャンキャン煩い子猫だな」
「子猫じゃありません!」
アルフレッドはベアトリスを見つめ、ふむと頷く。
「確かに俺が間違っていたかもしれない」
(あれ?)
ベアトリスは意外に思う。
この人が自分が間違っていたと認めるなど、どんな天変地異の前兆だろうか。そんな殊勝なところがあったなんて。
しかし、その考えは次の瞬間に霧散する。
「この煩さは、子猫じゃなくて子犬かもしれない」
「なっ!」
「一度しか言わないから、しっかりと聞いておけ」
アルフレッドはソファーに預けていた片手を外し、ベアトリスの頬を撫でる。鼻先が触れそうな距離で、見つめられた。
至近距離に美麗な顔が迫り、ベアトリスの胸は早鐘を打つ。
「ベアティ。お前を愛している。俺の正妃になれ」
「……え?」
ベアトリスは大きく目を見開き、アルフレッドを見つめる。
「嘘……。もう一度──」
「ふざけるな」
「お願い!」
だって、聞き間違いかもしれない。それくらい信じられなかったのだ。
「一度しか言わないと、言ったはずだ」
アルフレッドは冷たく言い放ち、ベアトリスの願いはあえなく一蹴される。ベアトリスは頭を抱えた。
「ああー。もう一度聞きたかった!」
「本当に煩い子猫だな」
アルフレッドは笑いを漏らした声で呟く。
「ベアティ」
「え?」
少し強引に顎を掬われ、唇が重なった。
〈fin〉
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