◆ 第一章 この度、お飾りの妃に任命されました(6)
(そんなこと、やるわけがないでしょ!)
しかし、今ここで反論するのは悪手だ。醜聞を広げるだけで、何の得にもならない。非常に不本意ではあるが、ここは大人しく引き下がって後日抗議するのが得策だろう。
(ああ、もう! 最低っ!)
ベアトリスはぎゅっと目を瞑る。
「きゃっ!」
前をよく見ていなかったせいで廊下の正面から歩いて来る人にぶつかってしまった。突然襲ってきた衝撃にベアトリスは悲鳴を上げる。
弾みで尻餅をついたベアトリスは、慌てて立ち上がろうとする。
「悪い。大丈夫か?」
スッと目の前に手が差し出された。
見上げると、目の前にはひとりの男性がいた。緩くうねる短い黒髪は無造作に掻き上げられており、その黒髪の合間から覗く瞳も髪と同じ黒。
きりっとした目元が印象的な、凜々しい雰囲気の男性だった。
羨ましいほどに整った見目は、王宮内の庭園のところどころに飾られている彫刻を思わせる。黒い騎士服を着て腰に剣を佩いているところから察するに、どこかの騎士なのだろう。
「申し訳ございません。前をよく見ていなくって」
「いや、こちらこそ悪かった。俺も考え事をしていて前をよく見ていなかった」
男性は、ベアトリスの手をぎゅっと握ると、力強く体を引き起こす。
「怪我はないか?」
「大丈夫です」
「しかし、目に涙が浮かんでいる」
眉を寄せた騎士は、心配そうにベアトリスの顔をのぞき込んでいる。
「涙?」
そこで初めて、ベアトリスは自分の目に涙が浮かんでいることに気付いた。
婚約破棄されたことがショックなんじゃない。信じていた人達に裏切られたのがショックだった。
ブルーノは幼いときからの婚約者で、恋情はなくとも親しみはあった。それに、ローラのことも友人として好きだった。
それなのに──。
「これは何でもございません」
ベアトリスは咄嗟に顔を背ける。
「そうか? では、何かあれば王宮の者に伝えてくれ」
「はい」
ベアトリスが頷くと、男性はすぐにベアトリスに背中を向けてスタスタと歩き始めて、あっという間に見えなくなった。きっと、急いでいたのにベアトリスがぶつかったせいで足止めしてしまったのだろう。
「はあ。婚約破棄されるわ、友人は失うわ、人にぶつかって尻もちつくわ、今日は散々ね」
ベアトリスはスカートを叩いて埃を落とし、ため息をつく。
自分も帰ろうと歩き出したそのとき、廊下の床に何かが落ちていることに気付いた。さっきまではなかったように思う。
「ん? 何かしら?」
拾い上げると、手紙のようだった。鷹を象った赤い封蝋が押されており、封は開いていない。
「わあ、珍しい! これは、ヒフェルの古代文字ね」
宛名欄に書かれている文字は、セルベス国からは遠く離れたヒフェルという島国の古代文字だ。しかも、ヒフェルは何百年も前に滅亡しており、まさに失われた言語といって過言ではない。ベアトリスが言語オタクでなかったら、ただの記号だとしか思わなかっただろう。
「さっきの方が落としたのかしら? えっと、ジエ……ううん、違うわ。ジャン……ジャン=アマール?」
宛名には、ヒフェル古代文字 で『錦鷹団 ジャン=アマール団長閣下』と書かれていた。送り元を見ると、『カイル=ベイツ』という文字が書いてある。そして、封筒には金色の鷹のようなマークが刻印されていた。




