◆ 第一章 この度、お飾りの妃に任命されました(2)
◇ ◇ ◇
ときは数カ月ほど前に遡る。
※
──いよいよだ。遂に、このときが来た。
震える手を上げて、翡翠色の玉石をティアラの枠に嵌めた。
突如発せられた目映い閃光の眩しさから逃れようと、両手を顔の前にかざし目を隠す。やがてその光が徐々に落ち着いてきたのを感じ、俺は恐る恐る目を開ける。
「……っ!」
目の前の光景に、思わず息が詰まる。
そこには、ひとりの少女がいた。
まっすぐに筋の通った鼻梁、滑らかな顎のライン、優しげな目元、そして、こちらを見つめる瞳は吸い込まれそうなアクアブルー。
彼女は俺がずっと恋い焦がれていた──。
「助けてくださり、ありがとうございます。マルコ様」
その女性、西の魔女の魔法によりティアラへと姿を変えられていた王女リリアーナは今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げる。俺は彼女の頬をそっと指で撫でた。
「きみなんだね、リーア」
※
ベアトリスは持っていたペンを止め、自分の書いた文章を読み返す。
「……うーん。原文のままだと『きみなんだね』なのだけど、ここは『やっときみに会えた』のほうが、場が盛り上がるかしら? もしくは溜めを作って『……きみなんだね、リーア』がいい?」
文書翻訳の仕事は難しい。直接的に訳するのは言葉が分かれば誰でもできるけれど、作者がそのシーンで伝えたかった事柄やキャラクターの心の機微までも考慮すると、どの言葉を使って訳するのが一番いいのかいつも悩んでしまう。そして、そのセンスこそが翻訳家の一番の腕の見せ所であると、ベアトリスは考えていた。
「お嬢様。そろそろお支度をしないと間に合わなくなりますよ」
ベアトリスが机に向かってうんうんと悩んでいると、背後から声をかけられた。振り返ると、侍女のソフィアが心配そうにこちらを見つめている。
「え? もうそんな時間?」
ベアトリスは大きな水色の目を瞬かせる。
「ええ。そろそろ四時でございます」
「えっ、いけない。準備しないと!」
ベアトリスは慌てて立ち上がる。その拍子に、机の端に置いたインク瓶の水面が大きく揺れた。
今日は大切な舞踏会があるというのに、ついつい仕事に夢中になってしまった。
「ブルーノ様より本日はお迎えにいらっしゃれないと、先ほどご連絡がありました。舞踏会には参加されるようです」
「あら、そうなの? どうしたのかしら?」
「理由は伺っておりません」
ソフィアは首をかしげる。
「そう。分かったわ」
ベアトリスは頷く。
ブルーノとは、ベアトリスの婚約者の名前だ。コールマン侯爵家の嫡男で、ベアトリスよりも三つ年上の現在二十三歳。ずっと昔に家同士が決めた婚約者なので特に愛だの恋だのという関係はないけれど、貴族同士の結婚なんて大抵そういうものだとベアトリスは割り切っていた。
(まだ全然準備が整っていないから、直接行ってくれて助かったわ)
自分のせいで舞踏会に遅刻しては申し訳がない。ベアトリスはふわふわと広がる栗色の髪の毛に櫛を通す。その間も気になるのは、執務机に広がっている原稿だ。
(翻訳作業が終わってないけど、仕方がないわね。また今夜続きをやりましょう)
ベアトリスは気を取り直すと、原稿を揃えて机の端に寄せた。