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18話 余波

 私は今、バーで一人の男を待っていた。

 私は普段こんな所には来ないので、落ち着かず終始そわそわしていた。

 店内に流れるジャズ風のお洒落な音楽や明かりのトーンを落とした間接照明、それら全てが私がここにいる事を拒んでいるようであった。

 

 しばらくすると、その落ち着いた雰囲気を壊すように一人の男が荒々しく速歩きをしながら、私に近づいてきた。

 その男、西村直樹にしむらなおきは私の目の前まで来て、挨拶もなしにすごい剣幕で問い詰めてきた。

 「あの新聞の記事はどう言う事ですか!和彦かずひこさん!」

 

 あの記事とは先日行われた全日本学生音楽コンクール、通称『毎コン』の東京大会、本選の結果のことだろう。


 私は予選に続き本選の審査員を務めた。

 そこで前代未聞のことが起きた。

 そう佐藤蒼という小学一年生が本選を一位で通過したのだ。

 その事について彼は、審査員であった私を問いただしたいのだろう。

 

 「まあまあ、落ち着いて、直樹くん。君の気持ちも分かるけど、一旦落ち着いて話しをしよう。」


 そう言って私が周りに目を向けた。

 それにつられて、彼も周囲を見ると言葉の意味を理解したのか、大人しく私の横に腰を下ろして、慣れた口調でお酒を注文した。

 私もそれにならって、同じ物を頼んだ。

 それが終わるや否やまた彼は言ってきた。

 今度は少し声のボリュームを下げて。


 「で、本当にどういう事なんですか?小学一年生が例え小学生の部だとしても、一位を取るなんてあり得ないでしょう。」


 私は少しため息混じりに返した。

 「そのあり得ないことが本当に起きてしまったんですよ。」

 

 「そんな!どんな不正をしたんですか!」

 

 「いや、不正ではないよ。本当に実力で一位を勝ち取ったんだよ。私も最初、ステージに上がる小さな少年を見た時はふざけているのかと一瞬思った。でも、彼がピアノを弾いた途端、そんな気持ちは何処か遠くに飛んでいき、その少年の演奏に呑まれてしまったんだよ。」


 「そんなこと本当にあるんですか?他の参加者より小さかったから、少し贔屓目で見てしまったんじゃないですか?」


 私は首を横に振る。

 

 「そんなことはないよ。私もピアニストの端くれだからね。小さいという事だけで贔屓するような甘い世界じゃないという事を教えるつもりで、厳しく見ようと思っていたさ。」


 「そこまで分かっていて、どうして!」

 

 「それほどまでにあの少年の演奏が圧倒的だったからだよ。」 

 

 そう言っても彼はまだ信じられない様子で、私にあれこれ言っている。

 

 そもそも、なぜ彼がこんなにこの話題について関心があるのかというと、彼も私と同じコンクールの審査員なのだ。


 しかし、私は東京大会で彼は大阪大会で審査員を務めている。


 以前、一緒に審査員を務めたことがあるが、彼は人一倍ピアノに対する情熱が強く審査に妥協を許さないような男だった。

 だから、今回の東京大会の結果を聞き、わざわざ私の所まで話を聞きに来たのだろう。

 

 しかし、私はもう彼の声などあまり耳に入ってきていなかった。


 あの少年、佐藤蒼の話をし始めてから私の脳内では彼のピアノの演奏が鳴り出して、他のことが頭に入らなくなっていた。

 それに酒の力も手伝い私の意識は先日の本選の彼の演奏に向けられていた。

 

 

 


 私は彼、佐藤蒼の出番を落ち着かない気持ちで待っていた。

 予選での圧倒的な演奏で、私はもうすでに彼の虜になってしまっていた。

 

 今回はどんな演奏をするのか楽しみで仕方なかった。

 

 彼がステージの袖から出てきた瞬間会場はざわめき立った。

 しかし、彼はそれに臆することなく綺麗に一礼し、椅子に腰を掛けた。


 数十秒の空白の後、彼はピアノに手を置き弾く体勢に入った。


 私はその瞬間、全身が得体の知れない恐怖に苛まれ、硬直した。

 しかし、硬直した身体とは別に頭は今までにない程冴えていた。

 その頭が彼の様子が明らかに予選時とは違うことを告げていた。


 それは彼がピアノの音を発した瞬間、全身がその違いを感じとった。

 いや、感じとったと言うより、強制的に感じさせられたと言った方がいいかもしれない。

 

 彼の出す一音一音はここにいる観客全員の心を掴んで離さないと言うより、握り潰そうとしてくる。

 ここまで、音が聴いてる人に干渉してくる演奏を聴いたことはなかった。

 どんなに凄い演奏でも、心をそっと撫でる程度だ。

 そんな演奏でも聴いた人は涙を流し、感激して褒め称える。

 

 しかし、彼の演奏は全く次元が違う。


 もう我々観客は自発的に感情を動かすことができない。

 演奏に感動したから泣くのではなく、感動させられ、涙を勝手に流させられる。

 そう、私たち感情の制御の舵は彼がとっている。

 

 私たちは彼の演奏にただただ身を任せるしかないのだ。

 

 音はホールを震わせ、全身を痛いくらい叩く。

 まるで、和太鼓を目の前で演奏されているような圧倒的なまでの音風。

 

 あのピアノはあそこまで音を出せたのか。

 彼の演奏がピアノの本領だとしたら、今までの演奏者は二割程度しか出せていない。

 

 そこまでの差が彼と他の演奏者とではあった。

 

 この演奏を他の演奏者が聴いていたら絶望しか浮かばないだろう。

 実際私も絶望を味わっていた。


 いや、違うこれは彼が意図的に絶望感を覚える演奏をしているのだろうと冴えた頭は言っている。

 

 その意図は分からない。

 しかし、彼の演奏の前に私たち一般人が勝手に感情を動かすことはできない。

 出来たとしたら、それは彼がそう言う方向に舵を切ったからだ。


 そんな絶望を覚える程圧倒的な音がホール全体を自由に動き回る。


 そして、ホールを暗く染めていき、何かを創造する。

 私はその正体がわかった。

 

 地獄だ。


 彼はもはや、悪魔にしか見えなくなっていた。

 地獄など、実際には見たことなどない。

 しかし、ここは地獄だと直感でわかった。

 

 ここにいるだけで、息は詰まり、体は鉛のように重い。

 体からは滝のような汗が噴き出る。

 早く逃げ出したい。 

 そう思うが、全く体は動かない。

 それはこんな地獄にも抗い難い魅力があるからだ。

 

 しかし、そんな暗闇が突如として、明るくなる。

 空気は澄んで軽くなり、辺りを美しい音色が包む。

 

 ステージ中央のこの空間の創造主に目を向けると、彼は天使のような神々しい光を全身から放っていた。

 

 その光は音が創り出した物なのだが、それは私に安心や心地良さを与える。

 

 今までの演奏でズタズタにされた心を癒し、幸福で満たしていく。

 

 これは天国だ。

 

 私はそう確信した。

 彼の演奏は私たちに天国と地獄を両方とも見せた。

 

 もしかしたら、これは彼がピアノを弾きながら見ている景色なのかもしれない。

 

 美しく、透明な風が吹く。

 今まで体中を覆っていた汗が乾いていく。

 辺りにはのどかな草むらが広がり、小鳥が気持ち良さそうにさえずる。

 

 そんな日常の幸せな風景を彼の音は見せてくれる。

 

 そんな日常でありながら非日常的な景色は彼の演奏が終わったのと同時に辺りに霧散し、跡形もなく消えた。

 

 ホールの中を静寂が支配する。


 しかし、その静寂は観客が我にかえったことで破壊される。

 観客は顔を上気させて拍手をし、立ち上がり、叫んでいた。

 それは彼がステージ袖に消えても続いた。

 

 観客は今の演奏が夢でなかった事を互いに確認するように拍手を続けた。

 

 ホールは凄い騒ぎとなった。

 

  

 

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― 新着の感想 ―
[一言]  今までここまで、音が聴いてる人に干渉してくることはなかった。 違和感が有る…ここまで、音が聴いてる人にでいいと思う
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