一七 復活
白湯山急襲作戦の失敗を機に、政府は俄かに臨戦態勢を整え始めた。
土御門晴栄による西郷復活の予言から八年。当初十年を見込んでの計画であったが、水面下での暗闘の末見込みは前倒しとなり、もはや一刻の猶予も許されぬ段階に達していた。
前年秋までに、主戦場となる那須野が原の整備はほぼ完了していた。
西は、関谷活断層を利用した天然の擁壁が立ちはだかり、崖上に並ぶ祠は修復され、そこからの眺望を阻む木々はすべて伐り倒されていた。背後には輪王寺を要する日光山が控え、那須野が原を見下ろしている。東には当初の予定経路を大きく西にずらした新陸羽街道が南北に走り、等間隔に結界石が埋め込まれ東の備えを成す。
双方の間を流れる水路工事が本格的に始まったのは、その年の四月からであった。起工式は、奇しくも六年前に印南と矢板が、伊藤と松方に運河建設の構想を説いた烏ヶ森の丘の頂上で挙行された。
水路建設については、建設費用の捻出が難しいため松方が先延ばしにしていたが、最も費用がかかる西岩崎の隧道工事を、印南が先行して自主掘削することで了解に至った。印南が請け負った隧道開削は前年七月に始まり、七八〇間の距離を抜くまでに半年を要したが、そこから先は那須野が原を南下するばかりのため、およそ四ケ月で残る八三〇〇間を掘り終えていた。
開拓地と周辺村落には、天皇統監による陸軍秘密大演習が近日中に実施される予定であるため、域内全住人はあらかじめ疎開先を決め、演習開始の知らせと共に速やかに避難するよう戸長役場を通じて命令されていた。
肇耕社の移住人の避難先は権藤が手配し、箒川南岸の宇都野村に決められていた。
長瀬の小屋から宇都野村までは一里半ほどの距離がある。駒子は、八ケ月目に入った腹を擦りながら、いざ避難となったときのことを考えて不安になっていた。あと一月の間に演習があるなら自力で歩いて行けるが、もう少し遅れれば臨月に入り、途中で産気づくかもしれないし、もっと遅くなれば、生まれたばかりの赤子を抱えていかなければならない。なぜ、はっきりと期日を決めてくれないのかと、ぶつけどころのない怒りを覚えていた。
弥彦は、二月の白湯山急襲作戦に従軍したきり行方が知れなかった。多くの兵が無残な遺体となって帰ったが、その中に弥彦の遺体はなかった。弥彦の子どもを宿していることに気づいたのはその直後だった。竹造は、駒子と腹の子を不憫がり消沈したが、不思議とハツが正気を取り戻し、駒子を励ました。駒子は、きっとどこかで弥彦が生きていることを信じて帰りを待ち続けていた。
七月初旬、演習準備の名目で各部隊が那須野が原に集結し始めた。
おもな体制は以下のとおりである。
肇耕社を参謀本部とする正面に陸軍卿大山巌自ら指揮する一個師団、右翼には蛇尾川左岸下中野村付近に乃木希典少将率いる一個旅団、左翼には高林村付近に西郷従道中将率いる一個旅団。最前線となる那珂川右岸、細竹村から小結村にかけて、山川浩大佐と、元黒羽藩士大沼渉少将が率いる二個連隊が合流した。参謀本部長山縣有朋は、箒川南岸に位置する伊佐野の高台に一個旅団を指揮して控えた。最終防衛線である那須基線より一里ほど後方である。余談ではあるが、後にこの布陣を聞いた松方正義は、山縣らしいと笑ったという。
那須岳から降りてくる毒を孕んだ風は日に日に強くなっていた。
瘴気の源泉である殺生石は、もはや石の形を失うほどに煮えたぎっていた。
石の中に、西郷隆盛は眠り続けていたが、四方から呪いに満ちた巨大な力が絶え間なく注がれ、揺り起こし、永い眠りから引き剥がそうとしていた。眠りを妨げるものに、西郷は怒りを覚え、怒りは毒となって辺りの空気を汚して行く。毒の煙幕を張り再び深い眠りに就こうとする西郷を、巨大な力はなおも揺り動かす。耳元に繰り返される呪文は、西郷の記憶を呼び戻し、一点に収束して行く。記憶の輪郭が鮮明となり、怒りが首を擡げる。もはやこれ以上眠り続けることは許されそうになかった。
半ば覚醒した西郷を取り囲み、黒い影が続々と集結していた。石が放つ瘴気に負けぬ腐臭をまき散らしながら、屍人の群れは憑代となって呪文を唱え続ける。これまでにない強烈な怨念が波打ちながら石の面を叩き、それに応じて石は赤々と煮えたぎった。
やがて中央に小さな罅が入り、そこから猛烈な毒を放つ熱気が吹き出した。辺りは濃い闇に覆われ、暗闇の中で石は赤く輝き、やがて音を立てて崩れ去った。
崩壊した石の中から、巨大な人型の炎が現れた。赤い炎は両手を広げ、周囲に傅く黒い影を掴み上げ、次々に自身の懐へと取り込んでいく。影は立ちどころに蒸気となって消滅し、炎は次第に輪郭を獲得していく。取り込む影が尽きるころ、炎は人の姿を取り戻し、大地に立ち上がっていた。
明治一〇年九月二四日以来およそ八年の歳月を経て、陸軍大将西郷隆盛はここに復活した。
生前、五尺九寸八分と言われた巨漢は、今はその五倍の身の丈を有し、体から発する熱は周囲の木々を燃え上がらせた。一歩を踏み出せば大地が割れ、息を吐けば生けるものすべて命を落とした。いま西郷の胸には忘れ得ぬ怒りと悲しみだけがあった。帝への忠誠を誓うべく発した行軍は反逆ととられ、朋輩たちは銃弾に倒れ、血の海に沈んで行った。その無念と怒りが現在の西郷を形作っている。膨れ上がった体躯は薩摩兵士の怨念の現れであった。
西郷は、見慣れぬ景色に戸惑い空を仰いだ。
空を覆う厚い雲の所々で黄金色の閃光が瞬き、遠くで雷鳴が鳴り響いた。
「お前は何者だ」
と西郷は訊ねた。
雲の切れ間から、聞き覚えのある声が西郷に囁きかけた
「我はお前を呼ぶもの。そして、お前が呼んだもの」
「お前を呼んだ覚えはない」
「嘘をつけ、無念だと言った。恨みがあると言った。それは。我を呼んだということ」
西郷は、朧気な記憶を探り一つの欠片を拾い得心した。
「確かに。あれがそうなら仕方がなかろう」
「なら行くとするか」
「何処へ」
「決まっておろう。帝のもとへ」
西郷は、我が耳を疑った。帝にお会いできるのか。
西郷の心を見透かすように、声が囁いた。
「勿論。今のお前に出ぬことはない。さあ、行くがいい」
雲の切れ間から一条の光が差し込み、金色の影が横切った。空を駆ける巨大な狐には九本の尾があった。
西郷は大きく頷き、地面ではなく空に向かい一歩を踏み出した。階段を上るように西郷の体は中空に舞い上がった。その出で立ちは、いつの間にか陸軍大将の正装に包まれていた。西郷の願いは、その姿での帝への拝謁であった。
西郷が右手を上げると。背後の瘴気を含んだ雲が寄り集まり数体の人型を形作った。それらは西郷に従いながら、次第に人の姿を取り戻した。一つは桐野利秋に、一つは篠原国幹に、一つは別府晋介に、一つは村田新八に、一つは辺見十太郎に。彼らは無言で西郷大将に従った。
「今、西郷大将が目覚めました」
大きく喘ぎながら、土御門晴栄は川上操六に告げた。
暦は七月三〇日に変わろうとしていた。
この時より、この国の存亡をかけた戦いが始まった。
伊藤博文宮内卿が参内したのが深夜零時。帝に拝謁した伊藤は深々叩頭し、これより戦闘態勢に入ることを言上した。
西岩崎村の那珂川に面した岸壁に、丸い穴が穿たれている。那須野が原に水を引き込むための取水口である。隧道工事が始まったのは前年の七月。水路の全長はそこから四里に及ぶ。工事は一部の石積みや仕上げを残しほぼ終了しているため、水を流そうと思えばいつでも水門を開くことが可能である。水路の上には電線が走り、取水口の管理事務所に繋がっている。開門の指示は電信で送られてくる。
その夜、水路に沿って点々と立ち、警備に当たっていた兵たちは、聞きなれた蛙の声に混じって到来する水音を耳にした。地上から二間あまり掘り下げた溝に敷き詰めた石の上を迫りくる水の音は、大地を揺るがすほどの咆哮を夜空に向かって轟かせながら駆け降りてきた。水嵩は見る見る膨れ上がり、まもなく足元を洗うほどに怒り狂っている。その光景を呆然と眺める兵たちは、実感が伴わぬままに事態の急変を悟り、一様に北の一点に目をやった。見上げる北の空には満天の星が輝く。しかしその下の地上に盛り上がる山塊の一角に夜目にもはっきりと禍々しい黒雲が蟠り、ゆっくりと南下するのが見て取れた。
同じ時刻、東京紀尾井町の北白川宮能久親王宅離れに寓居する松平容保のもとを、大山捨松が訪れていた。
捨松の出で立ちは、見慣れぬ洋装で、絹のシャツを羽織り、藍色に染めた厚手の生地の細袴を履いてる。髪は頭の後ろで細紐を使って一つに束ねてあり、遠目には男のように見えた。
「面白い恰好をしておるな」
と、容保は言った。
「米国で買い求めた品にございます。ワークパンツと申します。炭鉱で働く者たちが履くために作られたとか」
「動きやすいのか」
「はい、それにとても丈夫でございます」
捨松はそう言って笑った。
「その格好で、どこに行くつもりだ」
「那須野が原に行ってまいります」
答える前から分かっていたのであろう。容保は、冷ややかに捨松を見詰め、やがて言い捨てた。
「何故お前が行かねばならんのだ。あそこは男たちが大勢行っておる。足手まといになるだけであろう。戊辰の時とは違うぞ」
「あの戦でも、わたくしは濡らした布団で砲弾を包んで、爆発を食い止めておりました。戦うことを恐れはしません。でも今回は、戦で傷を負った方々の手当てをさせていただきます。わたくし、米国で看護婦の資格を取得してまいりました」
容保は、呆れたという風に目を瞑った。
「どうしても行くというなら止めはせんが、なぜわざわざここに来たのだ」
捨松は束の間言葉に詰まったが、やがて遠慮がちに言った。
「お殿様にもう一度お願いに参りました。お殿様の一声で、まだ兵は集まります。一言一緒に戦うと言ってはくださいませんか」
「大山のためにか」
「いえ、この国のためです」
「もう遠慮することはなかばい」
突然、部屋の外から男の声がして、捨松は驚いて声の方に振り返った。
「何者です」
「怪しかもんやなか」
障子を開いた男は、そう言って部屋の中に入ってきた。
捨松は、すかさず立ち上がり容保を守るため男の前に立ちはだかった。その後ろから、容保の穏やかな声が制した。
「大丈夫だ、咲。その男の言う通り、怪しいものではない」
捨松は容保を振り返り、もう一度侵入してきた男に振り返った。まだ二十歳そこそこに見える男は、よく見れば涼し気な目をしたなかなかの美男子だった。が、その身なりはお世辞にも小綺麗とは言えない。しかも久しく風呂に入らないのか、臭い。開け放った障子の向こうから流れ込む夜気に乗って、何とも言えぬ臭いが部屋中に漂った。
捨松は、怯む気持ちを悟られまいと言葉強く訊ねた。
「何者」
「申し遅れた。明石元二郎と申す」
そう言うと、明石はぺこりと頭を下げた。その太々しいまでの素直さに、捨松は一気に気が抜けていくのを感じた。
「明石・・・さん」
「明石少尉だ」
容保が助け舟を出す。
「さようですか」
そう言いながらも、捨松はどこか胡散臭そうな目で元二郎を眺めた。そもそも夜更けにずかずかと他人の屋敷に上がり込む神経が疑われる。容保は、この男を少尉と呼んでいた。では、この男も西郷復活の知らせを受け、自分と同じ目的でここに駆け付けたのだろうか。
「それで、このような時刻に、何の御用でございますか」
明石は、晴れやかな笑みを受けべて、捨松に言った。
「中将殿には、これ以上我慢されることばなかと言いに来ました」
そう言って、明石は遠慮なく部屋の中に進み、捨松と容保の脇をすり抜けて背後の襖を開け放った。
次の部屋は、六畳ほどの板の間で、窓がないため月明かりさえ入らない。わずかに元二郎の背中越しに差し込む灯りのお陰で、何とか中の様子を窺うことができた。
部屋の中央に真竹が四本立ち、各々が荒縄で繋がれている。荒縄からは白い紙垂が下がり、闇の中に浮き上がって見えた。四方を囲まれた中央には、三方の上に水器が置かれているだけで、ほかには何もない。
「それは何です」
捨松は、どちらにともなく訊ねた。
「こん下に、東京ば守る最強ん結界石が埋まっとーばい。あんたの殿様は、黙ってここしゃぃ座っとったわけじゃなく、ずっとここでん石ば守っとったばい」
「確かに、ここは紀州、尾張、井伊が代々守り続けてきた場所。天海大僧正が江戸守護の要石をこの下に埋めたところだ」
容保は穏やかな口調で捨松に説明した。
「宮様は、そのことを存じ上げないようなので、わしがお守りしてきた」
捨松は、自分の及ばぬ次元で容保が静かに戦い続けていたことを知るとともに、自分の浅はかな行動を恥じて頬を赤らめた。そして、床に膝をつき両手を揃えて深々と頭を下げた。
「とんだご無礼を申し上げました」
「よい」
容保は捨松を宥め、言葉を継いだ。
「わしが、声を掛けるまでもない。すでに藤田が諸藩の者たちを掻き集めて一個大隊拵えおった。今ごろは、那珂川を挟んで西郷と睨み合っとるはずだ」
捨松は、顔を上げて容保を見あげた。その本心を知った安堵の涙がこみ上げ、容保の顔が滲んで見えた。
「さようでございますか。では、捨松も早速現地に向かわせていただきます」
「どうしても行くというのか」
「はい、お殿様の真意を知ることができ、清々しい気持ちで行くことができます」
そう答えると、捨松は涙を拭って立ち上がり、満面の笑みを見せ「ごきげんよう」と言って、部屋を出て行った。
捨松の後姿を見送った元二郎は「よか女子ばい」と呟いた後、おもむろに容保に振り返った。
「さてお殿様、そろそろけりばつけよう」
容保は、静かに頷いた。
北白川宮邸の正面に、二頭立て馬車が横付けされていた。
捨松が、那須野が原に駆け付けるために用意したものだった。
門を出て、馬車に乗り込もうとする捨松を、遠くから呼ぶ声がした。
捨松は、暗闇に目を凝らして声がした方を見つめた。人影が二つ、一つは大人の女性に見える。そして、もう一つは小さな女の子・・・。
「ハナ?」
捨松は、思わずそう呟いていた。
「今晩は、奥さま」
青木ハナは、流暢な日本語で捨松に挨拶した。
捨松は、ハナのもとに駆け寄って訊ねた。
「どうしたの、こんな夜遅くに」
ハナの手を取っているのは、青木周蔵公使婦人エリザベートだった。
「Bitte.Bitte nehmen Sie dieses Mädchen mit(どうかこの娘をご一緒させてください)」
「Nein! Das ist ein sehr gefährlicher Akt(とんでもない、そんな危ないことできませんわ)」
捨松は、エリザベートの申し入れを正気の沙汰とは思えず答えた。
しかしエリザベートは、真剣な面持ちで捨松を見つめ、なおも懇願した。
「Meine Tochter will es tun(娘が望んでおります)」
「Auch wenn Sie so sagen(そうは言われても)」
その時、ハナが捨松の袖を引いて言った。
「大きくなったら、森に連れて行ってくれるって約束したじゃない」
「森?」
「そう、あの時から二つも大きくなったから、あたしはもう森に行ってもいいのよ」
「Das ist der Wille Gottes(これは神の思し召しです)」
捨松はその真意を問い質すようにエリザベートの眼を見つめた。捨松を見るその眼は真剣だった。胸の前に置かれた手は銀の十字架を握りしめ、小刻みに震えていた。
エリザベートは小さく頭を振って、もう一度これは神の思し召しだと呟き、あなたを信頼しますと捨松に訴えた。なぜかこれ以上は抗えないと捨松は思った。この母は、愛情よりも娘の使命を尊重している。命より大事なはずの娘の運命を年若い異国の娘に託そうとしている。この信頼に応える以上に自分に何ができるというのか。
しばしの沈黙の後、捨松は決意した。
「Ich werde suf jeden Fall mit deiner Tochter nach Hause gehen(必ずお嬢様を連れて戻ります)」
捨松はそう言うと、ハナの手を取り馬車の扉を開けて招き入れた。
「長い旅になります。へこたれないでね」
「大丈夫よ。あたしそんなに小さくないから」
ハナは答えると、捨松の手を放して母親のもとに駆け戻りきつく抱擁を交わした。そして、母親から離れると、晴れやかな顔で戻り馬車に乗り込んだ。扉を閉めて振り返る捨松に、エリザベートは深々と頭を下げた。
元二郎は、離れを辞して本邸の中に入った。
廊下の奥にある扉は、初めてここを訪れたときに通された座敷に繋がる応接室だった。元二郎は躊躇うことなく進み、扉を開けた。
部屋の中には灯りがあり、正面のソファに北白川宮が腰を下ろしていた。夜中にも拘らず、軍服に身を包み葉巻を燻らせている。
「少将、参謀本部から命令が出ているはずです。行かんでよろしいのでしょうか」
「大事ない」
そう言うと、北白川宮は顔を背け暗がりに煙を吐いた。
元二郎は後ろ手に扉を閉め、ゆっくり歩きながら続けた。
「左様ですか。では少しばかり自分にお付き合い願います。自分は、特命により幸徳井景昭という男の行方を探っておりました。ご存知でしょう。今年三〇歳になります。宮様が輪王寺に入る直前に三千院の附弟にいたはずです。貴方の若衆だったのではありませんか」
「知らんな」
短く冷たい返事が返った。
「左様ですか。しかしこのまま納得して帰るわけにはまいりません。
西郷大将復活に備える政府の一連の動きは、なぜか相手方に漏れることが多かった。内務省内のごく限られた情報でさえ筒抜けだったことがあります。そこで、川上大佐は発信する情報の中に時たま嘘を紛れ込ませるようにした。なかなか尻尾は掴めなかったが、長年続けていると情報の漏洩元は自ずと絞り込まれてくるものです。
話を戻しましょう。幸徳井景昭はその後名を変え、西南戦争に従軍しました。退役後は肇耕社の移住人募集に応募して開拓農場に入りました。なかなか大胆な男です。そして今晩、奴は宿願を果たした。
教えていただけませんか。景昭のやったことは、自分のためだったのか、それとも貴方のためだったのか」
北白川宮は凍り付いた表情を崩そうとはしない。元二郎は続けた。
「貴方は、戊辰の年、本当は仙台で天皇に即位されたのではありませんか。当時はただの噂でしかなかった。たとえ本当だとしても、奥羽越列藩同盟に利用されただけで貴方は被害者だと誰もが思っておりました。しかし、本当に即位を望んでいたのは、貴方ご自身だったのでは」
「それ以上言うな。わしを誰だと思っておる」
「望まぬ神輿に担ぎ上げられるのは、辛いものよ」
そう言って、明石は拳銃を抜き次の間に通じる扉の鍵穴を打ち抜いた。
扉が、力なく開いて部屋の内部が垣間見えた。
部屋の奥には祭壇が設けられている。白木の簡素な祭壇の中央には鏡、左右に瓶子が置かれ、背後に掛け軸が下がっている。そこに描かれたものには見覚えがあった。赤い染料で押された火炎模様の中に記された梵字。そして、火炎の下には、九本の尾を持つ狐が、あの時と同じく禍々しい目で元二郎を睨みつけていた。




