第七章 「悪夢となった現実」
ルナの左手には、中身がたくさん詰まった紙袋。右手でポケットから端末を取り出し、プロダクションに帰還のメッセージを打つ。「買い出し、完了しました」「帰還します」送信。
四日後に迫ったオーディションの最終審査を兼ねたアヴァロン・プロダクションの遠征。そのために必要な日用品などを買い出しに街に出た。
最近はオーディションの準備で忙しくて遊ぶ暇がなくて、ストレスが溜まっていた。だから、久しぶりに出かけた街はとても楽しかった。
外出可能な時間は限られている。必要なものを買ったあとは自由時間。
気になっていたコートやロングブーツ、新しいファンデーション。自分のアッシュグレイの髪色に合うか試してみた。
色鮮やかにデコレートされたスイーツ。行列に並んで、写真を撮って。クリームの素朴な甘さとベリージャムの甘酸っぱさが口の中で混ざるとき、幸せを感じた。
柔らかな日差しが注ぐ公園。ベンチで感じた優しい風。散歩中の元気いっぱいなコーギー。手を振ると、笑い返してくれた。こちらも自然に笑顔になった。
本当に楽しい時間だった。……次に遊びに行けるのはちょっと先になりそうだ。
遠征がある。それに、もしオーディションの最終審査に合格したら、自分はキャメロットの一員になる。そうなったら、もっと忙しくなってしまう。
でも、そんな忙しさなら歓迎だ。
オーディション……このままなら絶対アタシが合格する。なんといっても、実技審査で唯一キャメロット・メンバーに勝ったのはアタシだ。このアドバンテージは大きいはず。
それにしても、あのときの爽快さは忘れられない……。
ルナの相手は、キャメロットのダンサー、クレア・アトロンだった。
おもしろいくらいに自分の戦術どおりに事が運んだ。
紅い半透明のバイザーに覆われたヘルムに隠れて、はっきりと表情を読み取れなかったが、クレアが明らかに焦っているのがわかった。
彼女がぐっと踏み込んでくる。予想外の動き。
ダメージを覚悟して、彼女が長大な槍を突き出す。
逃れられない。しかし、彼女も、もう逃れられない。
ルナのコンクエストスキルをまとわせたナイフが、彼女の左肩に傷をつけた。
そして、彼女の槍が、左肩を貫く、はずだった。
槍の切っ先は肩の表面でひしゃげている。さらによく見ると、少しずつルナがまとっているアドミレーションに溶け出していた。
これが、ルナのコンクエストスキルの特性だった。クレアの槍は、今や、自分のアドミレーションと同質になっている。
自分のアドミレーションは、自分を決して傷つけない。ルナは勝利を確信した。
何が起きたかわからず、クレアは戸惑っている。
ルナは、左手で槍をつかみ、引き抜くように肩から外して、ぐいっと引っ張った。
彼女がつんのめるようにして、倒れてくる。
そこに合わせるように右手のナイフを構える。
クレアの脇腹が、ナイフの前に。
音もなく、突き刺さる。
「う、ぐぅ……」
クレアのうめき声が聞こえる。
そのとき、マーリンが立ち上がり、時間切れを伝える。
ナイフを引き抜く。クレアが苦しむようにお腹を抱えて床に膝立ちになった。
ルナのコンクエストスキルによって、からだ中に灰色のしみがじわじわと広がっている。
びしっ、と彼女のヘルムにあるバイザーに亀裂が入る。そこから紅い光が漏れ出していた。
ルナは先輩を支配し、勝利することができた歓喜に浸っていた。
「クレアさん、聞こえていますか? 時間切れです。ルナさんの勝利です。」
マーリンが改めて勝敗を告げた。ルナを改めて称賛する声だった。彼の声は、どことなく焦っているような感じに聞こえたが、気にならないほど誇らしかった。
ルナが輝化を解除する。クレアのからだにあった、灰色のしみが消えていく。
クレアは慌てるようにヘルムを脱ぐ。彼女と目が合った。彼女は視線を外してうつむく。そして、恥ずかしさに耐えるようにして舞台から足早に退場していった。
キャメロットに勝てた! ルナは心の中で叫んだ。今振り返ってみても、一週間前のような突き上げるような喜びを感じることができる。
きっとアタシだけだ。六人の中で勝てるのは、きっとアタシだけだ。アタシはすごい、アタシが一番、アタシが正しいんだ!
昨日のマーリンやキャメロットの三人とのミーティングでも、遊撃手としての動き方、特殊な輝化スキルの活かし方をしっかり話し合った。それに、マーリンからは、必ずうまくいく、とお墨付きまでもらったのだ。
ルナが輝化するときに、灰色のアドミレーションを「黒に近い」色だと思ったやつらにあっと言わせてやる。灰色は「白に近い」のだ。それが理解できない方が間違いなんだ。
自分がオーディションに合格する根拠を並べては、それを振り返って期待に胸を膨らませていたとき、きぃんと耳鳴りがした。
耳をすますと、さっきまで聞こえていた街中の喧騒がなくなっていた。
ここは街の東のはずれにあるバス停通り。そんなにうるさくなるような場所ではない。しかし、こんなにも静かなのは少しおかしかった。
突然、自分が向いていた東の方からこつこつという靴音が聞こえてきた。
黄昏の空。東の空から、紫色の空がせまり、その奥からゆっくりと夜がやってくる。その夜とともに、誰かがやってきた。
その誰かは、大きなフードが付いた真っ黒なローブをまとっていた。フードをすっぽりとかぶり、開口部から黒く長い髪が出ている。ちかちかと灯りだした街灯の光が、かすかに見える顔の白さと、なまめかしい紅い唇を照らす。
大人の女性だろうか。黒のローブの女性とすれ違う。この街には不釣り合いなファッションに気後れして、顔をそらす。そのまま通り過ぎようとしたとき、彼女が言葉を発した。
「あら……あなたは、アイドルね」
ルナは、その言葉にただならぬものを感じた。紙袋を歩道の端に投げ捨て、彼女から飛びのく。自分の聖杯連結力で彼女を探査すると、彼女からかすかにイドラ・アドミレーションを感じた。
ルナは自分の輝化武具であるナイフを両手に生成する。
「人型イドラ……なのか?」
言葉とは裏腹に、黒ローブの女性は本当の人間にしか見えない。
彼女が悠然と振り返る。相変わらずフードに隠れて顔は見えない。
「ルナというのね。アヴァロン・プロダクションの……。ちょうど探していたの。運がいいわ」
「なんで……アタシの名前を」
「キャメロットのオーディション……。あなたは、その候補生。他の候補生は……」
気味が悪かった。ルナのことを次々と言い当てていく。
「アタシの質問に、答えろ!」
両手のナイフを構える。
「私は、マリア・レイズ。『ノヴム・オルガヌム』というプロダクションに所属する『黒のアイドル』です。
マリアが、ルナの目を覗きこむ。
「あなたは、アヴァロン・プロダクションのルナルクス・アルグレイス。『白のアイドル』ね」
「黒……、白……?」
「あら、知らないのね。こんなことも教えないなんて、どうかしているわ」
マリアがフードをおろす。豊かな黒髪がこぼれ落ちた。
穏やかな瞳と微笑を浮かべた表情、ふくよかな体つきに、隙の無い所作。余裕のある不思議な雰囲気で、彼女がただ者ではないことがわかる。
「簡単よ。白のアイドルは、あなたたちのようなアイドル・アドミレーションを生成する聖杯を持っている者です。そして、黒のアイドルは聖杯をイドラに侵された者、イドラ・アドミレーションを生成する聖杯を持っている者です」
「聖杯を侵される……」
「そう。イドラ化は知っているわね。その最終段階が、黒のアイドルになることです」
「命を失うんじゃないの?」
「イドラ化した場合のほとんどが命を失います。しかし、まれに黒のアイドルになることがあります」
知らなかった……。そんなこと……。
ぼう然としていたルナは、いつの間にか、両手首をつかまれていた。
大きく垂れ下がったローブのすそ。そのかたちが崩れ、大きな黒い手となった。ナイフといっしょにルナの両手が、彼女が操る黒い手に飲み込まれる。拘束されてしまった。
「もう一つの質問に答えましょう。私は、聖杯連結がとても得意なんです。連結した相手の表層記憶から深層記憶まで自在にアクセスできます。この力を使って、白のアイドルの記憶を読んで、その子が所属するプロダクションの情報を得ているの」
「記憶を読む? そんなことが……」
そのとき、マリアが何かに驚いたように目を見開く。
「あなた……そう、だったの……。今日、この場で会えて本当に良かった。ぜひ、あなたとお話ししたいわ。あなたのこと、あなたの友達のこと、あなたのプロダクションのこと。もっと知りたい」
黒い手が背中にまわる。退路がふさがれた。
「離して! アタシはあなたと話したくなんかない!」
「ごめんなさい。私は、あなたとどうしてもお話しがしたいの」
マリアの生身の両手も背中にまわり、マリアに抱きしめられるかたちになった。彼女が右手で、やさしく柔らかくルナの頭をなでる。彼女の手の温かさを感じたとき、ルナの意識がすうっと遠のいていった。
ルナが目を覚ましたのは、街灯の灯りに照らされたベンチの上だった。
西の空が微かに赤い。日没直前だ。気を失ってから時間はあまり経っていない。それに、遠くの景色もあまり変わっていない。ここは、マリアと出会った場所の近くにある公園だろうか?
「気がついたみたいね」突然、左から声がかかる。マリアだ。ベンチから立ち上がり、彼女から離れる。
「アタシに、何をしたの!」
「あなたの聖杯と、記憶を探索したの」
「そんな……アタシ、どうなるの。その、黒のアイドルになっちゃったの? もうプロダクションにはいられないの!」
「いいえ。あなたの記憶を読んだだけよ。あなたは何も変わっていない。でも……」
ここまで微笑をたたえていたマリアが、真摯な表情でルナを見つめる。そして、ルナにとって驚愕の言葉を発した。
「あなたは、十二歳の頃、記憶を改ざんされているわ」
「なによ、それ……」
ルナがつぶやく。まったく理解ができない言葉だった。そんな言葉を自分の身の回りで聞くことにリアリティを感じない。
十二歳。伯母様、今のお義母様のところに引っ越したときだ。いきなり義理の家族として、名家の一員となったとき。生活の変化が激しくて、戸惑っていた記憶がある。
そのエピソードを思い出すと、脳裏の情景がざらざらとした質感になった。
「改ざんって、誰に?」
「……本当のお母さんよ」
「そんな……母様は、その頃からからだが弱くて床に臥せっていたわ。そんなことできない」
マリアが立ち上がり、ルナに近づく。
「灰色のアドミレーション。そして、巨躯の人型イドラ」
ルナがびくっとからだを震わせる。
この人はアタシのすべてを知っているの?
「あなたを悩ませる、二つの事柄の答えが、あなたの本当の記憶の中にある。取り戻してみる気はない?」
「……記憶が正しくないのは、イヤ。でも、怖い……。それに、あんたは敵じゃないの? どうしてアタシを助けるようなことをするの?」
マリアが真剣な顔して、切々と語る。
「出会ったとき、あなたを利用してアヴァロン・プロダクションの情報を得ることだけを考えていたわ。でも、記憶を読むうちに、私には、あなたに対する罪があることがわかった。それを償いたいと思っているの」
「罪を償う……? じゃあ、アタシが悩み苦しんでいるのは、あんたのせいだっていうの!」
「少なくとも無関係ではない」
マリアの真っ直ぐな瞳に、にらみ返す。
「……そこまで言うなら、償わせてやるわ。アタシの記憶を元に戻して。アタシを正しい『アタシ』に戻して!」
「わかった」
そう言うやいなや、マリアが再びルナを抱きしめ、右手で頭をなでる。
脳裏に浮かぶイメージ――白く美しい手を左右ともに灰色の海に浸す。底に溜まっているものを手探りでより分けていく。固く冷たい手触り。これがアタシの本当の記憶……。すくい上げる。灰色の厚い氷の中に輝く光が閉じ込められている。何色なのか判然としないまま、急激に氷が解ける。爆発するように光が広がった――
ルナの全身に悪寒が走る。マリアに抱きしめられたまま、からだをかきむしる。嗚咽するようにえづき、がまんできずにマリアの胸の中で嘔吐してしまった。マリアはルナの背中をさすりながら、だいじょうぶだよ、とつぶやきながら抱きしめ続ける。
「……かはっ……うぅ、な、に、これぇ……」
のどの異物感、全身のかゆみ、お腹の気持ち悪さ、手足の倦怠感。津波のように襲ってきた。
そして、今度は波が引くように頭の中がすっきりと整理されていく感覚がやってきた。記憶が、かちゃかちゃと音を立てて積みあがっていくようだ。
「さぁ、私といっしょに語りつくしましょう。あなたが十二歳だったときの真実の記憶を……。逃げず、ひるまず、正面から向き合って」
ルナは、戻ってきた記憶が自分の望まない結末を迎えることがわかっていた。しかし、思い出さずにはいられなかった。
ルナの意識が薄れていく。目の前にいるマリアの柔らかいからだに包まれている感触がなくなる。代わりに目の前に現れたのは、今の自分より幼い自分。きっと十二歳の自分。
幼い彼女が、灰色の解けた氷の中にある光をつかむ。光は、より強くなった。今の自分をかき消すように光が押し寄せてくる。やがて、自分の輪郭がなくなった。
気がついたとき、ルナは輝化を始めていた。自分の胸からアドミレーションがあふれる。
薄緑色の光に包まれて、ルナが輝化防具をまとっていく。都市迷彩柄の迷彩服、首と顔半分をすっぽりと隠すストール、タクティカルベルト、ひじやひざのプロテクタ、ブーツ。そして、左右それぞれの手に集束した光から、彼女の輝化武具であるナイフが生成された。
気持ちの集中を解いて、ひと息ついたとき、横から歓喜の声がした。
「ルナ……やったわ! ついに輝化ができるようになったのね。ママ、うれしいわ……。ようやく夢が叶ったのね」
まるで自分が輝化に成功したかのように、泣きながら喜ぶ母親。彼女を見ていると、自分が何をしているのかがわからなくなる。
ルナはアイドルになんてなりたくなかったのだ。アイドルについて知れば知るほど、そう思う気持ちが強くなっていった。
人類の天敵として、世界中を恐怖に陥れるイドラ。その怪物に対抗できる唯一の存在がアイドル。輝化ができるのは女性のみであり、アイドルになれるほど聖杯が成長する女性は限られている。つまり「選ばれた正義のヒロイン」だ。
アイドルそれぞれの個性を輝かせて、人類の共通の敵を討つ。否応なく世界中から注目される存在だった。十年ぐらい前から、アイドルとしてイドラと戦いながら、「アイドル」として芸能活動をする人が出てきた。
ルナは、そういう人前に出て目立つことに興味がないし、嫌悪していた。それにイドラと戦えば、イドラ化のリスクがある。正気を失ったり、心を壊されたり、死んでしまう危険がある。そんなことはやりたくない。
イドラが怖い。戦場が怖い。心の消失が怖い。死ぬのは、もっと怖い……。
だから、アイドルになんてなりたくなかったのだ。
「これから、きらきらした場所でたくさん活躍できるわ! ルナ、がんばりましょうね」
母親にとって、アイドルはこの程度の認識なのだ。
彼女は子どもの頃、アイドルに憧れていた。芸能活動のアイドルだ。オーディションで選ばれる直前に、父親の強い反対で白紙になったらしい。
この話がどれだけ本当かはわからないが、アルグレイス家は、この国の軍の重要なポストを代々任せられてきた名家だった。「父親の反対」というのは真実味がある。
それが原因なのかもしれないが、母親は家を出ている。ルナの父親と駆け落ちし、新たな生活を始めたが、ルナが生まれてすぐ父親が病死してしまったらしい。
自分の愛した人と死に別れ、露頭に迷う。しかし、家には戻りたくない。
そんな母親のことを心配した彼女の姉が、生活を支援してくれている。ルナが十二歳になった今でも、母親とルナが普通に生活できているのは、伯母のおかげだった。
「でも、衣装が……なんだか軍人さんみたいね。まるで、あたしの……父親みたい」
母親の顔がくもる。
ルナは慌てて輝化を解除した。「衣装は少しずつ変えることができるみたいだから! 本に書いてあった。だから、ママの好きなかたちにもなるよ」
「そうなの。じゃあ、どんな衣装がいいかしら……」
母親の思考の矛先が別のものに向いた。彼女の不興を買わずにほっとする。
ルナが十一歳になったとき、聖杯がアイドルに適していることが判明した。偶然にわかったことではなかった。ルナが生まれた直後から毎年続けていた聖杯の有無を調べる検査で、わかったことだった。
母親は、ルナがお腹の中にいるころから、自分の子どもを必ずアイドルにすると、自分の夢と理想を託していたらしい。母親が言うアイドルは、イドラと戦うアイドルなのか、芸能活動をするアイドルなのかはわからない。彼女の言動からすると、両方だと思っている。
ルナの聖杯にアイドル適正があるとわかってから、母親は自分の姉に連絡し、フリーのプロデューサーを紹介してもらい、彼と契約した。プロダクションに入所せずとも、ルナがアイドルとして充分に活躍できるようになるまで、レッスンするという契約だった。
レッスンを始めて一年が経った今日。ようやく輝化することができるようになった。
母親にとっては自分の夢と理想の種が芽吹いた瞬間だった。それはそれは大きな喜びなのだろう。しかし、ルナにとっては、イドラと対峙することが決まった恐怖の始まり。そして、母親の理想を押し付けられる我慢の日々の始まりだった。
恐怖を抑えつけ、アイドルをすること自体への嫌悪感もねじ伏せて、ルナは、プロダクションに所属しないローカルアイドルとして、イドラを倒すアイドル活動を続けていた。
主な活動内容は、契約したプロデューサーを通してISCIから依頼される案件を受注することや、ネットワークで飛び交っているイドラの目撃情報を解析して、現地に駆けつけ、イドラを退治することだった。
やる気はまったくないが、我慢強さと器用さによってここまで大きな失敗なくアイドル活動ができている。
普段のアイドル活動で、心を抑制することは簡単だった。母親との十二年間の生活で慣れている。今の状況もその延長でしかなかった。しかし、イドラとの連戦で負ったからだへのダメージや疲労が重なると制御しきれないときがある。
前の戦いで油断した結果、身体的なダメージを負い、家で安静にして治療に専念していたとき、イドラ発生のニュースがネットワークを駆けめぐった。
母親が出撃しなさいと命令するが、ルナは動きたくなかった。普段は思いもせずに抑えつける「どうしてアタシが」という言葉が、のどまで上がってきた。何とか必死に飲み下していると、母親が正論でルナを諭しはじめる。
「命が危うい人がいるのよ! 助けられるのはアイドルだけなの。行ってあげないと!」
ルナはからだの痛みを抱えたまま、その「命が危うい人」がいるという場所に向かった。イドラはいた。しかし、周囲の人たちはすべて安全な場所に避難していた。「命が危うい人」なんていなかった。イドラを退治できたが、からだのダメージはさらに大きくなってしまった。
そんなある日、ルナが住む街に、巨大なイドラが侵入してきた。それは、神話型イドラと呼ばれる個体で、偶然に出会うことは滅多にないというイドラだった。
八階建ての大きなマンションを横倒しにしたような体躯で四足歩行。からだ中が複雑に隆起する筋肉のかたまりだった。顔は、巨岩を引き抜き、黒く塗ったあと、そのまま据え付けたようにごつごつしていて、凶悪なかたちだった。頭頂部には根本が太く、前に突き出すように曲がりくねり、先端をとがらせた角がある。
とてつもなく巨大な黒い雄牛のようなイドラだった。
襲来の前日までの様子から推測すると、特別な意図のない襲撃のようだった。そのイドラにとっては気の向くまま、好きなように行動していたら、そこは街だったということだろう。
街に住むものにとっては迷惑極まりなかった。言わば発生率が極小の自然災害に見舞われたような感じ。運がなかったと一言でかたづけられるのは納得できなかった。街のあちこちでがれきに巻き込まれたり、イドラ化によって心を壊されたりして、死んでしまった人がいる。
あんな巨大なイドラは、高ランクのアイドルでないと対処ができない。街の行政機関が速やかに近隣の大手プロダクションに応援要請を行ったという速報があった。
近所の人といっしょに、街の郊外にある避難所を目指している途中、ルナが異変に気付く。
あの黒くて巨大な雄牛が歩く方向を変えて、自分たちを追いかけていた。
ルナたちのグループはパニックになっていた。ばらばらに方向を変えて、逃げまどう。
イドラに近づいた聖杯が弱い人は、怪獣が常に発しているイドラ・アドミレーションに侵されて、走りながらイドラ化した。その場にばたばたと倒れていく。混乱がさらに増していた。
走りながら、母親が真剣な顔でルナを見つめていた。いぶかしみながら母親を見つめ返すと、彼女が力強くうなずき、変なことを言いだした。
「みんなを守らないとね」
なんのこと? と聞こうとしたとき、母親がいっしょに逃げている人たちに向かっ声を張り上げた。
「皆さん! 安心してください! 『あたしの』娘が皆さんを守ります」
「えっ! ママ?」
突然の言葉にとてもびっくりした。母親が周囲の人々に勇気づけるような言葉を伝えて、もっと速く走るように促す。
ルナが母親を捕まえて、問いただす。
「ママ! 何言っているの? 早く逃げないと、あのイドラに巻き込まれて死んでしまうよ!」
「ルナ、あのイドラと戦って、私たちの避難所から遠ざけなさい」
ルナには、目の前の見上げるほど巨大な黒い雄牛がどれほど強敵であるかか、がわかっていた。自分が相手をしたところで何の役にも立たない。ただ死んでしまうだけだ。そんなことしたくない。
必死に母親に説明した。神話型イドラは、高ランクのアイドルがチームを組んで、事前準備をしっかりとしてから、勇気を振り絞って立ち向かう相手。アタシのような駆け出しには奇跡が起こっても勝てる相手じゃない。
「そんなことママだってわかっているわ。今回は勝たなくてもいいでしょ。あの怪獣を別のところに連れて行けばいいの。それくらい、あたしのルナだったらできるんじゃない?」
「それくらいって……あんなのを誘導なんてできないよ。死んじゃうよ……」
「これまで、できていたじゃない。きっと大丈夫よ」
この人には「これまでのイドラ」と「今、目の前にいるイドラ」との区別がついていないのか……。世間知らずなのか、無知なのか、それとも本当にそう信じているのか。
いずれにしても、アタシの気持ちが伝わっていないことに腹が立った。
「アタシ怖いの! 嫌なの! やりたくないの!」
声を荒げて、母親をにらみつける。
黒い雄牛が向こうのブロックまでやってきた。
母親の顔が今まで見たことがない鬼のような表情となり、地響きの震動にも負けない声で怒り狂う。
「早くやりなさい! やらないと怒るよ! 家に入れないし、ごはんもあげない! 街のみんなに約束したんだから、ルナがやらないと信用されなくなるの。どうせ、あたしを困らせようとして、駄々をこねているだけなんでしょ? ほんっとうに自分勝手な子ね! あたしは親だよ! 親を何だと思っているの! 親を馬鹿にして……許さないよ! さっさと言うことを聞きなさい! そんなの正しくないでしょ! いつも言ってること忘れたの? 正しいことしないと、愛してあげないよ!」
彼女の言葉に唖然とした。そして、彼女のことが信じられなくなった。
これほど圧倒的な怪獣を目の前にして、十二歳の一人の子どもに対して、何とかしろと言う。母親の思考は正常だろうか? どう考えても無理だと思うのが普通の人なんじゃないか?
彼女の真意がわからない。アタシが奇跡の力に目覚めて、怪獣を退けて、街を救うとでも信じているのだろうか。それとも、自分たちが助かるために、アタシを捨て駒にして逃げようとしているのだろうか。
……黒い雄牛の恐怖と同じくらい、母親のことが怖かった。きっと、いくら考えたところでわかるはずがない。もう考えるのをやめよう。いつも通りのことをしよう。
こうなった母親には、何を言っても通じない。だから、従っておけばいい。抵抗すれば、嫌な気持ちになるだけ。自分が我慢して、目の前の「子どものような」彼女よりも大人になればいい。我慢するのは一瞬で、ノーリスク。お手軽だ。
右手をにぎりしめる。いつもより強く。自分で自分の指を折るくらい激しく。これが我慢する痛み……なのかな。涙があふれてきたけど、うつむいて袖でぬぐう。涙を見せれば母親の言葉がさらに激しくなる。
「ママ……、ごめんなさい。アタシやります」
にぎりしめた右手を胸にあて「輝け」と輝化を宣言する。薄緑の光に包まれて、ルナの武具と防具が現れた。
「ルナ! いい子ね。さぁ、街を救いましょう」
「はい。ママは早くここから逃げて」
「わかったわ。向こうからルナの活躍を見ているわ」
輝化をしたあとの会話は、退屈なBGMと意味のない独り言だった。後ろを振り向いて、向こうからやってくる怪獣と向き合う。背中の方から焦るように駆けていく足音が聞こえた。
あの怪獣の鼻先にアタシの全力の攻撃を当てて気を引く。それから怪獣を引き付けながら全速力で街の郊外に離脱する……。これくらいなら何とかなるかもしれない。
地響きとともに迫ってくる黒い雄牛。もうあんなに近い。地面の揺れとは関係なく、恐怖で振るえる手足にぐっと力を込める。目からあふれていた涙も止まった。
さぁ、行くぞ。
突然、視界にノイズが走る。夕焼け空を背景にして照り映える、がれきだらけの街。ところどころで燃え上がる炎、黒い煙を上げる廃墟を駆けて黒い雄牛に立ち向かうところだった。
ノイズが大きくなる。すべての感覚にざらつきを感じたあと、ぶつりと音を立てて、視界がブラックアウトした。
宙に浮いていた。
眼下に灰色の氷をすくい上げた海が広がっている。見上げると、雲ひとつない灰色の空が広がっていた。その海と空の色はアタシのアドミレーションの色と同じだ。
幼いアタシの思い出……。これで最後なのか?
声が響く。灰色の世界のすべてに伝わってきた。マリアの声だった。
「このあとに続く、時間にして二時間ほどの思い出は、すくい上げることができませんでした。途中でこぼれてしまったみたいです。あなた自身が強く厳重に抑圧している思い出です」
このあとアタシはどうなってしまうんだ?
「ルナは、あの神話型イドラを誘導することに失敗しました。そして、そのイドラに聖杯浸食されてしまったのです」
そんな……それってイドラ化ってことでしょ。それじゃアタシは……、アタシは……?
考えることができなかった。マリアが現れる。彼女も宙に浮いていた。
「今、この場で、『出来事の意味』を考えてはいけません。それが記憶に刻み込まれてしまいます。それは、あなたにとって悪いことしかありません」
マリアに手を取られて、ひざ枕で寝かしつけられる。彼女が手を開くと、薄緑色の光の粒が現れた。ルナの手にそっとそれを移す。
「あなたが聖杯浸食されたあとの記憶です。しっかり、にぎりなさい」
マリアのひざに頭をあずけたまま、幼い小さな両手で受け取る。
最初と同じように、光が強くなり、光が押し寄せる。自分の輪郭が再びなくなっていく。
気がついたとき、ルナは自分の家の床に寝ていた。そばには顔を覗きこむ母親がいる。
からだ中にダメージを負っていた。指先を動かすだけで痛みが襲ってくる。
「ア、タシ……あれからどうなったの……」
とてつもなくひどいことがあった気がする。でも、何が起こったのか具体的に思い出せない。
「ルナ! 気づいたのね」
「ママ……、アタシどうしてここに?」
「街の外で倒れていたルナを拾ったと、鎧を着た女性が訪ねてきたの。いっしょに行動していたんじゃないの?」
覚えていない。母親を逃がして、あの巨大なイドラに立ち向かった後のことをまったく思い出せない。記憶が欠落している……のか?
「あの巨大なイドラは、どうなったの?」
「あの怪獣なら街から去っていったよ。あなたがやったんでしょ? 覚えていないの?」
ルナは無言でうなずいた。
「……もしかしたら、ルナを運んできたあの女性と協力して、怪獣を追い出したのかも」
「そう、なのかな……そのひとは何か言ってなかった?」
母親が迷うような、困るような表情でルナを見て、言った。
「ええ、言っていたよ。ルナが『聖杯浸食』されているって……」
聖杯浸食……そんな、まさか。
「うそ、よ。だってアタシ覚えてない! さっきと何も変わっていない!」
「そうなの? でも、からだ中に浮かんできている黒い斑点はなに? ママ、詳しくはわかんないけど、今日見た怪獣みたいな色をしているよ」
ルナが慌てて両手をかざす。母親の言う通り、手のひらに黒い斑点がある。手首にも浮き出していた。それは、からだ中に広がっているようだった。
この症状は見たことがある。イドラ化の初期症状だ。自分の聖杯を確認してみた。聖杯の中が黒いアドミレーションで満たされていた。真っ黒だった。
ルナが手をおろし、顔を覆う。
こうなることを恐れていた。しかし、自分が本当にこうなるとは思っていなかった。いろんなことを我慢しながら上手くやっていけると思っていた。アイドルのことや、母親とのことを。でも、それは甘い考えだった。
これからどうなるんだろう……。イドラ化すると、発狂したり、心が壊れたりして、最終的に死んでしまうと言われている。死ぬのは……怖い。
けれども、どうなってもアイドルは続けられないだろう。それに、この母親のことを気にすることもなくなりそうだ。もう我慢しなくていい……。それは素敵な状況かもしれない。
母親が涙を流していた。すすり上げる声が小刻みに続く。
「聖杯浸食されたというのは、本当なんだね。ルナ、がんばったんだね。自分を犠牲にまでしてあの怪獣を追い払うなんて……」
彼女にしては珍しい、娘のがんばりをねぎらう言葉だった。鼻声のまま、しゃべり続ける。次の言葉は、いつもの彼女にふさわしい言葉だった。
「ママ、少し知っているわ。聖杯浸食されちゃうと、アイドルが続けられないんだよね。それはダメなの。ルナはあたしの夢と理想なの。実現してもらわないと、あなたを産んだ意味がないわ。せっかくここまで来たのに、ここであきらめたら、もったいない」
何が悲しいのかと思えば、自分の夢や理想の身代わりがいなくなることに対してだった。
この人の考え方はどのくらい異常なんだ? 他の親を知らないから、まったくわからない。
もう、いやだ。アタシは、このひとのお人形じゃない!
彼女が懐からピルケースを一つ取り出す。その中には、何の変哲もない一粒の白い錠剤が入っていた。慎重に、とても大事そうにピルケースから錠剤を取り出した。
「ルナ、このお薬を飲んで」
「それは……なに?」
「これを飲むと、イドラ化の進行を止めて、イドラ・アドミレーションを排出するんだって」
「それって……」
「たしか『セル・フロス』っていう名前だったわ」
知っている。イドラ化に対抗する即効性のある薬だ。飲めばたちまちにイドラ・アドミレーションを排出し、イドラ化の進行を止めて、聖杯を洗浄することができる。しかし……そのやり方が問題だった。
「副作用が……」
「知っていたんだ。あたしも知ってるよ。もしものときのためにって教えてくれたの。あなたのプロデューサーにね」母親がピルケースに入っていた成分表を取り出し見つめる。
「いや! 飲みたくない!」
「また? 今日はわがままばっかりだね。ママ、また怒るよ! いいの? もう、しょうがないでしょ? アイドルは貴重なんだから、失えないのよ。みんなの平和を守らないといけないの! わかるでしょう。副作用なんか気にしてられる状況じゃないの!」
彼女が成分表を読み、つぶやいている。
「『記憶障害』って記憶喪失のこと? うぅん、しょうがないよね? あたしの夢と理想と、世界平和のためなら。
それから……『人格障害』、何のことかしら、性格が変わっちゃう、みたいなことかな。まあ、これもしょうがないよね。アイドルとして成功するには、なりふり構わず強く生きなきゃならないんだから。
……これ、高かったのよ? せっかく大金を使って買ったんだから、使わないとね」
「待って! 記憶がなくなるとか、人格が変わるとか……いやなの。やめて! このまま、アタシのまま死なせてよ!」
「なんてこと言うの! 死ぬなんて口にしてはいけません! イドラ化が治るのよ? またアイドルが続けられるのよ! こんなにいいことないわ」
「もういや! 離れて! あなたの夢は、あなたが叶えたらいいじゃない! アタシはあなたの身代わりじゃない! アタシの聖杯はアタシのものよ!」
身動きできないルナが必死に抵抗する。左手で口をふさぎ、右手で母親を突き飛ばす。寝返りを打って、右手と両脚で床を這う。家の玄関へ。母親から逃げる。イドラ化によって死ぬ。そのための時間稼ぎだった。
「ルナ、待ちなさい! 早く薬を呑みなさい」
母親が立ち上がってルナのところまで歩き、見下ろす。
足を振り上げて、ルナの左肩を思い切り蹴った。
激痛にうめくルナ。左腕を上げられない。
彼女がルナを仰向けにひっくり返す。
同時にペットボトルを取り出した。ふたを開ける。
痛みに耐えながら見上げた彼女の顔はどんなイドラよりも醜悪だった。
うめきをこぼすルナの口に、薬がねじ込まれる。
舌を使って吐き出そうとするが、彼女の指が入ったままで上手く動かせない。
ルナの開いた口に、彼女がペットボトルの水を乱暴に流し込んだ。
そのまま手で口をふさがれる。
水が気管に入る。むせて、せきが出た。それでも彼女は口をふさぎ続ける。
彼女の手を外そうとして、右手を振り回して彼女を殴る。
ルナの反撃に対して、彼女は、残りの水をルナの顔に浴びせた。
目をつぶった拍子に、口の中のものを呑み込んでしまった。
肌色をした人間そっくりの怪物が、笑った。
「……呑んだ?」
口に指を入れて錠剤を探す。ない。のどに力を入れて、せきをしても錠剤は出てこない。指を奥に押し込んで、吐き出そうと思ったとき、怪物がルナの右手をつかんで止めた。
ルナが、さっきまで母親だった怪物に、呪詛の言葉を浴びせる。
「ぜったいに……お前の思い通りになってやらない! 絶対だ! 必ず聖杯を元に戻して、お前に復讐してやる!」
怪物の左手がルナのほおをはたく。
「親に対して、なんて言葉を言うの!」
「こんなことをするのが『親』か! お前なんて、親じゃない!」
怪物が冷めた目をして、ルナを見る。再びルナのほおを叩いた。
「悪い子は、早く消えなさい……」
ルナが言葉にならない声を上げ、痛む左腕を持ち上げて、怪物に一矢報いようと殴りかかる。
そのとき、ルナの頭の中にビシッと何かがひび割れる音が響く。
激しい偏頭痛とうずくまるほどの胸の痛みが襲い掛かってきた。苦しさに耐え、うめきながら、怪物をにらむ。
やがて意識が混濁を始め、ルナがルナであると思っているものはなくなってしまった。
ルナが、マリアのひざ枕の上で「悪夢」から目覚める。
眠る前にマリアの胸の中で嘔吐してしまった気持ち悪さが残っていた。それに、悪夢の中で暴れていたからか、両腕にも違和感がある。
マリアがルナの顔を覗きこんで、問いかける。
「そのあと、どのように過ごしてきたのですか?」
「……知っているんでしょ」
「はい。でも、あなたが語ることに意味があるんです」
ルナはマリアにからだを預けたまま、目を閉じて、語り始めた。
「十三歳からの一年間。アタシは長く病に臥せっていた。結局、なんの病気かは、あいつから聞かされなかった。からだの調子が次第に良くなると、入れ替わるように、今度は、あいつの方が病気がちになり、入退院を繰り返すようになった。
アタシは、あいつの看病をかいがいしくしていた。でも……
あいつがまったく働けなくなったあとは、介護をしながらの生活が立ち行かなくなり、アタシは伯母のもとに預けられた。伯母が率いるアルグレイス家で、優しく厳しく、大事に育てられたのよ。軍人の資質があったみたいで、将来を期待され、英才教育も受けていた。
十五歳になったとき、アタシにアイドルの資質があることに気づいた伯母は、新たな分野にアルグレイス家の力を見せつけるため、アヴァロン・プロダクションに入所するようにアタシに命じたんだ。そうして今に至った……」
「ありがとうございます」
マリア、と今度はルナが問いかける。
「セル・フロスを呑んで、アタシはどうなったの? 今までのアタシからどう変わったの?」
マリアがしばし考え込んだあと、穏やかに話し始める。
「セル・フロスを呑んだあと、ルナが十二歳だったときの記憶、すなわちアイドルだったときの記憶を、心の奥底に抑圧して、その空白の一年間と関連する記憶は、『十二歳から十三歳の間、病に臥せっていた』ということで改ざんされていたよ」
「イドラ化から立ち直るための期間だったということ……」
「そう、十三歳の一年は、実際にそうだったからね。そして、あなたの……母親の病気はイドラ化によるものだったのでしょう。セル・フロスによってルナから排出されたイドラ・アドミレーションを知らずに吸収して、それが蓄積された結果なのかもしれないね」
「なんで、アタシの聖杯は機能しているの?」
「それは、あなたの悩みの『灰色のアドミレーション』関係しています」
息を呑むルナ。「教えて」マリアがうなずく。
「ルナの聖杯には、修復された跡がありました。それは、セル・フロスの作用で聖杯が壊されたあと、自然に修復した跡でした。
きっと、薬の効き目が弱かったため、聖杯の破損が少なかったのでしょう。だから、二年間で聖杯が修復されたのだと思います。
そして、修復された聖杯から生成されるアドミレーションの色は、なぜか灰色になるのです。ただし、他の色のアドミレーションと比較しても変わりはありません。それに、『イドラに近い』なんてことはありません」
マリアが優しい顔をして、ルナに告げた。
「ああ、よかった……」
ルナは、それを聞いて心の底から安心できた。安心したら、ゆっくりと涙があふれてきた。
マリアのひざ枕から起き上がりベンチに腰掛ける。ルナがもう一つ気になることを質問する。
「マリア、『巨躯のイドラ』の正体も、アタシが経験した聖杯浸食に関係があるのか?」
「はい。ですが、今回すくい上げることができなかった記憶の中にその答えがあります。そして、私のあなたに対する責任もその中にあります。あなたの記憶が戻ったときを待っていてください。時が来れば必ずお話しします。」
「わかりました……」
沈黙が流れる。ルナは今の自分が何をやっているのかを思い出した。
「これからどうしたらいいのかわからない……。今のアイドルになりたい気持ちが本当の気持ちなのかがわからないんです。昔はあんなに嫌っていたアイドルのことを、今ではキャメロット・メンバーになりたいと真剣に思うほど焦がれている……自分が自分であると信じることができないんです」
マリアがルナの手を取って、優しく語り掛ける。
「お腹の中にいるときから、母親が果たせなかった夢と理想を押し付けられて、両手がいっぱいのルナ。生まれたあと、痛みを伴うような我慢を続けて、母親の夢と理想を必死に実現しようと頑張る辛抱強いルナ。今のルナは、どんなルナなの? そして、本当のルナがいるとしたら、それは、どんなルナなの?」
自分の手に触れる温かい手をじっと見つめながら、ルナが答える。
「今のアタシ? 本当のアタシ? わからない……。そんなものなかったと思う。だって、母親はアタシにアイドルであることを求め、お義母様もアイドルになることを求めている。プロダクションでは……『軍人一家で少し裕福で、ナルシスト。器用で、なぜかアイドルに慣れている』みたいに言われている……。すべてが、自分では望まないことだし、誰かが望んでいることだ。それに、『アイドルであり続けないといけない義務感』が常に心の中で渦巻いている」
「ルナは、いつも誰かの声に支配されているという感じがしているの?」
「そうかもしれない」
「それなら、少し前のルナはどんなことを望んでいた? その望みの声は聞こえる? その中に自分の声はある? 母親やお義母様、その他の友人の声は無視して、自分の声を探してみて」
ルナは、目をつぶって、自分の心の中を丁寧に探る。深く考えたあと、ゆっくりと表現した。
「母親への復讐。そして、リンを敗北させることよ。キャメロットになることは……母親やお義母様の声だわ。でも……母親は、去年死んでしまった。」
「それなら、キャメロット・メンバーオーディションのライバルであるリンを倒すことに専念してはどうでしょう? 他の誰でもない、自分の望みに従うのです。そこから始めましょう。自分が何者であるかを探すのです。私も協力を惜しみません」
目と目をしっかり合わせて、マリアが、ぐっとルナの両手をにぎる。
まるで……母親みたいに、親身になって接してくれる人は初めてだ。そして、ここまで自分のことを話すのも初めてだった。
マリアが続きを語る。
「ルナ、リンを倒した後、私たちのプロダクション、黒のアイドルが所属する『ノヴム・オルガヌム』へ来ませんか? そこでルナが望むことを探し、行って、本当の自分を獲得してほしいと思います」
マリアの提案は本当にうれしかった。必要とされたこと、選んでよいと言われたこと、自分であることを許されたことは初めてだったかもしれない。
彼女が言うように、リンを倒すことができれば、自分の世界が広がりそうだった。




