思い出の場所
8月31日、夕刻。
蛍を見に行く約束の日、直樹は一足早くバス停に着いた。
直樹はベンチに腰かけ携帯端末を覗く、待ち合わせの時間にはまだ余裕があるが、いつも篠への返信が遅かった直樹は、今日くらいは早く来て彼女を待ってあげようと、少し早めにバス停に来ていた。
「ちょっと早く来すぎたかな」
直樹は携帯端末を見ながら、一人でにそう呟く、バス停には直樹しかおらず、周りはとても静かだった。
強いて気になることといえば、夏の終わりの夕刻だというのに、やたら蒸し暑いことくらいだろうか。
直樹は暑さを紛らわす為、着ていたティーシャツ襟を引っ張りパタパタと煽ぐ、すると、頬に冷たい何かが当たる。
「冷めてっ…!」
「なぁに一人で黄昏てんの?」
そう言って、直樹は頬に当たった何かを確認する様に、横に視線をやると、そこには屈みこむようにして、缶ジュースを片手にもった篠の姿があった。
おそらく、自分に気を利かせて買ってきてくれたんだろうと直樹は笑みを浮かべ、篠から差し出されたそれを受け取る。
「…ありがと」
「どういたしまして」
ぶっきらぼうな直樹の感謝の言葉に、篠は笑みを浮かべつつ、答える。
こんな風なやり取りを二人でするのも久方ぶりだ。
顔を見合わせた直樹と篠は、思わず可笑しくなって、互いに笑いが出てしまった。
二人が立っているバス停には、周りに人が居ない。
夏の最後という事もあって、蛍を見に行く人が少ないからだろうかはわからないが、空いているバス停には、バス停に二人だけ、という不思議な状況が生まれていた。
「こういうところで、二人っきりって久方ぶりだね」
「確かにな、互いに忙しかったし…」
「それ言い訳じゃん」
篠は不機嫌そうな表情を浮かべ、直樹に告げる。
そんな、篠の表情を横目で見た直樹は最近、メールの返信を彼女にちゃんと送ってなかった事をふと思い出した。
自分の事で精一杯になっていて、彼女に対して少し余裕を持って接してあげていなかったな、と直樹はそう思いつつも、篠のその言葉に何も返すことが出来なかった。
そうこうしているうちに、丁度、蛍が見える川辺行きバスが二人の目の前に停車する。
顔を見合わせた二人は、停車したバスの扉が開くのを確認する。
気まずそうな空気が二人の間に漂う中、目の前に止まったバスに対して先に口を開いたのは篠の方からだった。
「…行こう?」
「あ…ああ、そうだな」
考え込んだような表情を浮かべていた直樹は、篠のその言葉に頷き、ベンチから立ち上がる。
バスには、篠を優先的に乗せるようにして、直樹は後から乗り込んだ。二人で座れる座席を見つけ篠は腰かけると直樹に座るように促す。
「ほら、座りなよ」
気まずそうにしながら、直樹は静かに篠の隣に腰を下ろす。
こうなったのも、そもそも自分の自業自得から始まった事だ。
篠は直樹の様子を見て、覗き込む様に問いかける。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
そういって、篠の問いかけに誤魔化すようにして答える直樹。
首を傾げる篠は、そんな直樹を特に問い詰めるようなことはしなかった。何もないと彼が言うのだから何も無いのだろうと、篠は隣で肩を竦める。そこからは、二人の間に暫しの沈黙が流れた。
いつもなら、こんな風に気まずくなって話をしないなんて事はあまりないのだが、直樹は篠に対して後ろめたい事もあって、なかなか話を切り出せないでいた。
すると、頬杖を付いて窓をジッと眺めていた篠が直樹の隣で急に声を上げる。
「あ…」
「ん? どうした?」
篠の言葉に反応する直樹、バスの外を眺めていた彼女が何か見つけたのだろうかと思わず気になる。
同時に気まずい空気を変えるきっかけになれば、と直樹は思った。それは、声を上げた篠も同じ心境だろう。
すると、笑顔を浮かべた篠は直樹の方を振り返ると笑顔でこう告げた。
「今、タヌキが居た」
「タヌキかよ」
篠の何気ない言葉に直樹は苦笑いを浮かべる。
別に蛍を見に行くために山道を登っているのだから、タヌキの一匹や二匹いるだろうと、直樹は思った。
すると、そう声を上げた直樹に、篠は手を口元に添えて、クスクスと笑う。
「あー…その」
「ようやく、らしくなったじゃん」
そう告げる篠は、人差し指でツンッと直樹の肩を突く。
最近、篠ともあまり面と向かって話す機会も無かったから、こうやって彼女が切っ掛けを作ってくれたのは、直樹にとってはありがたかった。
「篠」
「ん?」
「気を使わせて悪い」
直樹は照れ臭そうに篠にそう言った。
元々、不器用で恋愛経験に関しても直樹は、そこまで豊富というわけではない。
正直な話、こうして話すのは篠くらいである。
不器用な自分に気を使ってくれる篠には、直樹はいつも助けられている。
そう直樹が思っていた矢先、ふと、篠の方からこんな話を振り始めた。
「そういやさ、最近、私に連絡をちゃんと返してくれない時が結構あったよね?」
そう言って、篠はジッと隣の座席に座る直樹の目を見つめる。
「…それは、ごめん」
「どうしたの?」
謝る直樹に首を傾げる篠。
別段、怒っているわけではない、直樹の性格を分かっている篠は、彼に何かあったのかという心配の方が強かった。
そんな彼女の表情を見て、直樹は思わず暗い表情を見せる。
彼女にそのことを話すべきなのか否か、だが、話してしまえば彼女を今日、蛍を見に行く事が、意味のない事になってしまうかもしれない。
そんな事にはしたくない、篠には、篠の人生をよりよく歩んでほしい、と直樹は思っていた。
だが、彼女の心配そうな表情を見ていると、自分が決めた固い意志が揺らぎそうになってしまう。
「それは…」
何か言葉を掛けようとした直樹だったが、口から零れ出そうになった所で、バスの扉が音を立てて開いた。タイミングが果たして良いの悪いのかはわからない、だが、バスが目的地に着いた以上は降りなくてはならないだろう。
「着いたね」
「…そうだな」
篠の言葉に頷き、後に続くようにしてバスから降りる直樹。
先ほどの話がうやむやになってしまい、互いにあまり良い気分ではない。
だからといって篠も無理強いして直樹から聞き出そうという事はしたくはなかった。
蛍が見える川辺まではここから歩きで向かう。
まだ、直樹から話を聞く機会はたくさんあるだろう。篠は密かにそう思っていた。
そんな中、直樹はふと、隣で歩く篠に対して、ポツリポツリと話をし始めた。
「…あのさ、篠、ごめんな?」
「何が?」
「いや、なんていうか、色々」
直樹は照れ臭そうに、篠から視線を外し、頬を掻きながら告げる。
こんな話を、今更するのも気恥ずかしいが、直樹は篠に伝えておかなければ後悔するだろうなと思っていた。
直樹の口下手な言い方に、篠は笑みを浮かべると、顔を覗き込むようにして、わざとらしく直樹に問いかける。
「んー? なんだってー?」
「なんだよ」
「聞こえないじゃん、はっきり言いなよ」
篠は悪戯じみた笑みを浮かべる。
篠はこうやって、いつも直樹をからかう。
直樹が口下手なのは篠は知っているし、それを分かった上で篠は直樹をからかっていた。
「…だから、悪かったって、連絡もそうだけど…」
「そうだけど?」
「お前にたくさん迷惑かけたなって思ってな」
直樹は今度は真っすぐに篠の方を見て、面と向かって告げた。
篠と付き合い始めて色々な思い出はあるが、篠にはたくさん迷惑を掛けてきた。
篠は直樹の話を聞いて呆れたように首を左右に振り深いため息を吐く。
これまでの事を振り返れば、確かに腹立つ事もたまにあったし、連絡が付かなかった事だって何回かあった。
「今更でしょ? 何年、幼馴染やってきてると思ってんのよ」
「…まあ、そうなんだけどな」
「だから気にすんなバカ」
そう言って、篠は乱暴に直樹の背中を、平手でパンッと強く叩く。
こういうところは、本当に幼馴染らしいと、背中を叩かれた直樹は苦笑いを浮かべた。
篠の口から今更気にする仲でもないだろう、と言われれば、確かにそうだろう。
直樹は少しだけだが、気が楽になったような気がした。
二人がバス停から川辺に向かい歩くこと数分、次第に川の音がうっすらと聞こえてくる。
蛍は綺麗で流れがゆるやかな水場に生息している。また、強い光を嫌うので、懐中電灯や携帯端末のライトもなるべく使わないように、気を遣わねばならない。
川辺への道が整備されているとはいえ、夜の山道は危険だ。直樹は転んだり、はぐれないようにするため、篠の手をさりげなく強く握ってやる。
「あ…」
「ほら、こけるだろ」
直樹からいきなり手を握られ、動揺している篠に直樹はぶっきらぼうにそう告げる。
直樹の言葉に、篠は少しだけ顔を紅潮させて、静かに頷く。
自分の手を力強く引っ張って、先導してくれる直樹の背中が、篠にはいつもより逞しく見えた。それからしばらくして、開けた場所に、二人は辿り着く。
「わあ…」
篠は目の前に広がる光景に思わず声を上げた。
川の宙を舞う蛍達の姿は、辺りに光がないので、光が映えてより幻想的に見える。例えるなら、いつもは、夜空を見上げないと見えない星が、目の前で踊っているようであった。
篠の手を握っていた直樹は、力を緩めて、その手を離す。
夜道を歩く際は、篠が転ばないようにと、気を配っていたが、ここまでくれば、その心配もないだろう。
「すげーな…」
篠の手を離した直樹も、目の前に広がる綺麗な蛍達の姿に、思わず声を上げてしまう。
小さな蛍の光が溢れた川辺には、前に来た時のように、篠と直樹の二人しか居ない。
前に来た時もこんな風な綺麗な蛍が、宙を舞っていた事を、篠は思い出していた。
「懐かしいね」
「そうだな」
篠の言葉に頷く直樹。
今までの篠との思い出が、蘇ってくる。
小さい時からずっと一緒に育って、中学校、高校といつも隣には、篠が隣にいてくれた。そして、大学生となった今でも、自分の傍には、こうして彼女が立っている。
だからこそ、彼女をこれ以上、自分が縛り付けてはいけない、と直樹は決心して、ここに来ていた。
「なあ、篠」
「ん?」
隣で直樹から声を掛けられた篠は、首を傾げる。
問題は確かにあったけれど、。こうして言葉を交わして、一緒に過ごして、自分は改めて、直樹の事が心の底から篠は心の底から好きだと、改めてそう思っていた。
篠の目をまっすぐ見据えたまま、直樹は、ゆっくりと口を開く。
「別れよう、俺達」
「……え?」
篠は、直樹の言葉に、思わず固まった。
 




