ラブ・フォー・セール
年明けから女に振られたオレは現実逃避から映画館ばかりに行っていた。 デートで牛久大仏を見に行ったのだが道に迷ってイラつき喧嘩したことが原因だった。 いつもこうだ。大した理由ではないことで振られる。女はとっくに気持ちが冷めていて、別れたかったのかなと考えてしまう。だから深追いをしない。
「しかし、こういう時に限ってクソみたいな映画しかやってないのな」
家に帰って郵便箱を開けると回覧板が入っていた。その中に1枚のチラシが気になった。
『文化センターで懐かしの映画ショー 雨に唄えば 前座 イバラキジャズオーケス トラ』と書いてある。
ジーン・ケリーよりドナルド・オコナーのタップが好きだった。女 に振られた親友を慰める時に踊るタップが最高だった 。
「『雨に唄えば』をでかいスクリーンでみたいなー」
これを見れば気持ちが救われるかもしれないと思った。
当日になり『笑点』が行われているような文化センターに行った。50〜60代という 客層の中に20代が一人で座っていた。
映画の前にジャズのビッグバンドが『シンギン・ザ・レイン』を演奏した。
社会人だから嫌なこともあるだろう、その中でも続けているのはすごいなと勝手に感情移入していた。気持ちが落ちている時に生演奏を聴いたからなのか感動してオレもやりたいと思った。
終演後、岡本信人似の係員に尋ねた。
「ビッグバンド素晴らしかったです。オレもやりたいんですけど」
「このコンサートでベースが転勤で抜けるから募集しているよ」
「オレもベースできるので入れてください」
弾けないけれども嘘をついて入った。しかし、弾けなくて幻滅されることもなく暖かく迎え入れてくれた。
秋頃になってバンドリーダーから「来年はプロのミュージシャンがワークショップをうち のバンドのためにやってくれるそうだから課題曲を弾けるようにしといてくれる」と言われた。
楽譜を見ると真っ白であった。
「えっ、真っ白ですよ」
「これは音源聴いて耳コピするんだよ」
耳コピとは音源を聴いて譜面に書き起こすことだ。 普通は譜面に音符が書いてあるのだがベースは難しい曲になると譜面に何も書いてなかったりする。 課題曲はバディ・リッチのラブ・フォー・セールだ。
バディ・リッチは1917年生まれのユダヤ系アメリカ人ドラマーで1歳からドラムを やっているのに楽譜が読めなかったり心臓発作で入院して医師からドラムをやめろと言わ れても退院後すぐさま演奏を始めたり破天荒だった。
経歴を軽く書いていてわかるように曲が優しいはずがない。テンポ200で236小節ある。できるかどうか不安になってきた。とりあえず演奏練習だけして、正月休みに耳コピをやろうと決めた。
年末の仕事が終わり、休暇が始まった。六畳の部屋で真ん中にコタツが置いてある。雑誌などがちらかっている。ベース、ヘッドホンに譜面など耳コピの準備をしてコタツに入った。
「今年の年末は一人だな。まあ、やることだらけだから別にいいけどさ。よし、やるか」
気持ちとは裏腹に全く音が聴こえなかった。ドレミと聴こえず、ボンボンボンとしか聴こえないのだ。
「ぜんぜん聴こえん。どうしたらいいのか。」
『ベース 耳コピ できない』ワードを入力してネットで検索した。
ウェブページには、アプリを使用して原曲を1オクターブ上げて、スピードを下げれば、ベースが聴きとれると書いてあった。
「なるほど、やってみよう・・・まだまだ速くてわからん」
「ドラムソロが最初にあるのね。そりゃ、変態ドラマーのバディ・リッチだもんな」
「あん?トロンボーンが入ったぞ?10秒くらいしたら始まるのね」
「E♭を2小節やって B♭マイナーね」
同じ箇所を繰り返し聴いて楽器で再現する。それを譜面に書く。
「なんでミの音なのにシなの。オレの耳にはここはミに聴こえない。わからん」
ウォーキング・ベースの入門書を開く。
「よくわからないけどミのコードの時にシを使っていいのね。だからここはシなのか」
同じコード進行が続く場合は、繰り返さずに違うコード・トーンを使用することで、野暮ったさをなくす。ラブ・フォー・セールはテンポ200の速い曲だからコードはシンプルな構造だ。しかし2時間かけて8小節しか進まなかった。ベースは特に音が小さく聴き取りづらい。
「これは、道のりが⻑いぞ。大丈夫か?」
耳コピを始めたばっかりの耳では鍛えられてないからすぐに音を聴き分けられないのだ。
「なぜ1秒くらいの音が聴き取れないんだよ」
全身あぶら汗をかいてる。耳コピが苦痛になり、コタツから出て踊り出した。
阿波踊りのような動きを繰り返しながらやりたくないという気持ちをさけんだ。
「うわー、チョー嫌だー、やりたくねー」
「最悪だ、誰かオレを助けてくれー、なんとかしてくれー」
体を動かしたら、冷静になってきてお茶を飲んだ。
「お茶飲んでるうちに耳コピ終わってねえかなー」
ベースを抱えてヘッドホンをしてこたつに入った。
「サクサク進んで欲しいよなー」
E♭m7―A♭9―D♭M7―G♭9の4小節なのだが、ボンボンボンボンと聴こえるだけで全く音がわからなかった。何回も聴いて頭の中で反芻して鼻歌をベースで弾く。
「ミ、ソ、シ、ラね」
なんとか17小節目まで行った。色々な楽器が入ってきて音が厚くなってくる。 ベースが余計聴こえなくなってきた。25小節目をスライド奏法で音を合わせる。
「うわっ、こんな音が高いのかよ。弾けないよ」
うんざりしてきて youtube を見始めた。
『タモリの今夜は最高 オペラ任侠伝』はクラシ ックのメロディーに合わせて任侠ドラマのセリフを歌うコントだ。これが面白くて辛いことがあると見てしまう。
気持ちが落ちつき、何か簡単にできる方法を考えていたら閃いた。小節の最初の音は必ずコード・トーンの3種類だから予想が立てやすい。その音だけを聴いて、譜面に書き一周したら次は2番目、3番目の音を聴いていく。
1周終わって小節の1音目が全て書き終えたら、耳コピに慣れてきた。次は同じテーマ のところを一気に仕上げた。
E♭69―E♭69―B♭m6―B♭m6が12箇所あった。退屈になるから同じには弾かないけれども、ちょっと変えただけだから、聴きとることことができた。何回も繰り返して聞かなければ聴こえない部分は飛ばして次に進んだ。全くわからない部分は自分でフレ ーズを作った。
とうとうラブ・フォー・セールの耳コピ楽譜が完成した。弾いてみるがうまく弾けない。テンポを遅くして練習始めた。
「難しいなー。弾けねーよ。でも初めてオレが耳コピして完成させた楽譜だ。すげー嬉しい。オレってやればできんじゃん」
これからはどんな曲も楽譜に起こせるだろうという自信が出てきた。
「しかし、疲れた。眠い、寝よう。そして起きたら初詣に行こう。」
頭の中がスパークしているからか、なかなか寝つけなかった。
ふと、なんでこんなに頑張 れたのだろうかと考える。
「必要とされているから役に立ちたいということかな。ジャズは麻薬ということか。傷ついた心を癒すためかな。」
考えに導かれて女に振られたことを思い出した。
「振られた悲しさを忘れるためにジャズを始めたんだっけな」
「しかし、オレはあっさりしすぎていたのかもしれないな。本当に好きならもう少し足掻くだろう」
「別れたかったのは実はオレの方だったのかもしれない。なんだかわからないな」
寝返りをうった。
「これからは、すべてがうまくいくさ」