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半透明の無香を落とす

アスファルトに沁みた残暑が、秋雨に浮いてくるようだった。
夏というのは突然すんと消えてしまう。春の去り際は少しずつ若草色が桃色を塗り替えてゆくし、秋は深まって冬になるし、雪は段々解けるのに。夏ばっかりは急に終わるものだから、取り残されていた残滓がこうして雨に浮いてくる。焦げたゴムみたいなかつんとした雨の匂いはその証拠だ。
「ねえ、そう思いませんか」
彼女は空を仰いで、傍らの室外機に語りかける。かびだか錆びだかに汚れた室外機はなにも答えることはない。曇った空は白特有の眩しさでもって、彼女の目を伏せさせる。瞼の上を雨水が滑った。
 アパートの密集する古ぼけた通りには人の姿がない。時折ふたつほど建物を隔てた道路で車のタイヤが水を跳ねる音がするけれど、それだけだった。彼女は傍らの室外機に話しかけ、サドルの抜けた自転車と視線を交わす。背中をつけたアパートの壁にはヒビが走っていた。
「寒いですね」
彼女の言葉は雨粒とともに地面に落ちる。Tシャツはすっかり濡れ、彼女の皮膚に吸いついて一緒くたになるようだ。ただそこにある火傷や痣にひやりと冷気がしみるので、彼女はかろうじて自分の肌と安物の綿の境界を忘れないでいられるのだった。
顔をあげたまま、瞳を押し開く。瞼を流れようとしていた雫は睫の上に露になる。見上げた部屋のカーテンは閉め切られ、部屋のなかはうかがえない。ただ彼女は、その部屋の壁がヤニに薄黄ばんでいることを知っている。ワックスの摩耗したフローリングのことも。その部屋で、カップ麺をすすっているであろう彼のことも。
それを思えば、雨に冷えたはずの彼女の血液は、途端熱を取り戻すのだった。

その日の朝。いや、朝というのは適切ではない。眠気の靄でぼやけた視界のなか、デジタル時計は角張ったPM2:00を表示していた。
彼女は気怠い体をゆるりと起こす。すっかり陽の上っているはずの時刻なのにもかかわらず、部屋はほの暗い。首をひねったところで彼女はカーテン越しの細い水音に気がついた。
「雨が降ってますね」
大した意味を込めて呟いた言葉でもなかったが、予想していた隣からの返事がない。彼女が改めて隣をみるとそこにいたはずの男はいない。あ、と彼女は顔を上げる。
「ねえ」
冷えて皺の伸びきったシーツの隣。そこにあった温度を携え、そこにあった皺を眉間に寄せた声の主。彼はベッド脇に立ち、彼女を見下ろしていた。漂白したような顔色のなかで瞳だけが黒く爛々としている。
「ねえ。聞いてんの?」
唇の隙間から漏れる煙に混ざって、彼の言葉は続く。
「聞いてますよ」 
彼女は答えて、脱ぎ捨てたままにしていた Tシャツをかぶる。襟ぐりが火傷に擦れてちりっと痛んだ。
「おれより長く寝てないで」
「ごめんなさい」
彼は寝癖のついた髪を掻きむしりながら背を向ける。彼が歩くとよれて伸びきったスウェットの裾がフローリングの埃を舞い上がらせた。ピィ、と台所で甲高く7鳴いたのは彼が火にかけていたらしいやかんである。
彼女はベッドの外に足を投げ出して立つ。つま先が冷んやりとしていた。戸棚を開ける。セイロンのティーバッグを取り出し、彼がカップ麺に湯を注ぎ終えるのを待った。
「雨が降ってますね」
彼女は起き抜けの言葉をもう一度口にしてみる。彼は返事の代わりにコンロ脇にやかんを置いた。電気ポットもない家に住む彼はいつも多めに湯を沸かす。洗い場に溜まった食器の山からティーカップを拾い上げ、スポンジと水道水で軽く濯ぐ。そこにティーバッグとお湯を落として、冷蔵庫から牛乳を持ってくる。
「止むんでしょうか」
カップ麺を啜る彼の前の椅子に腰を下ろし、彼女は牛乳パックを傾けた。色と香りをつけ始めたティーカップへ白い筋が吸い込まれていく。たちまち底のほうからぽつ、ぽつと白い斑点が浮き上がってきて、ぽ、ぽわ、と広がって、そして帯状になって溶けて沈む。
「ねえ」
白い斑点。広がって、紅色を薄めていく、なんとなく病的にみえるその様子が好きで、彼女はいつも見惚れてしまう。
「ねえ」
そこにそっとティースプーンを差し込むと、底に沈んでいた白がようやく散っていく。かちゃんかちゃんと金属の触れ合う音。
の、合間に、じっ、と皮膚の焦げる音。
「ねえって言ってんじゃんか」
そんな音は彼女の幻聴に過ぎない。実際のところ部屋に響いたのは彼女の喉が咄嗟に絞り出したかすかな悲鳴。彼が彼女の額に押し付けた小指の爪程度の熱。今はまた彼の手の中で煙を出している。
「あ .. 」
無意識に額に触れようとして伸びた彼女の指を、彼の空いている方の手が捕らえた。
「痛い?」
「え?」
「痛い?って聞いてるんじゃん」
煙草の先から灰がテーブルに落ちる。塗り潰したような彼の黒い瞳は揺れながら彼女を見据えていた。
「痛い .. 」
「雨が降ってるね」 
答えを最後まで聞かないまま、彼の口元が歪んだ。彼女の指を捕らえていた彼の手が、手首までずり下がる。
「降ってますね」
「あきさめ」
彼の親指の腹が、彼女の脈のうえをなぞる。青と紫と黒で水玉になった彼女の腕のなか、そこは無地のままだった。彼の瞳に光は差さない、その代わりにぬらぬらといやに艶めくようだった。彼女がそれを確認するたびに、親指の腹に押さえつけられた鼓動は早くなる。そのうち〝ぬらぬら〟と彼女の脈のテンポは重なり合っていくようだ。
「雨が降ってるからさあ」
彼が笑った。蕩けだした蝋に似て、目じりが下がる。彼女の額のまだ新鮮な火傷はじくじくと痛んでいた。
「雨が降ってるからさあ、きみさあ、外に出てきてよ」

かかえた膝はかたい。彼女はそこに頬をのせてぼんやりとあたりを眺めていた。景色はいつの間にか藍色のセロハンで覆ったようになっている。思ったより時間が経っているのかもしれない。雨の日は一日ずっと「雨」という時間が続いているようで、正確な時刻がわからなくなる。
彼が指差したのは部屋の狭い窓から見える向かいのアパートの側面。足首くらいまでの雑草のなかだった。彼の部屋から外へ出る廊下ですれ違った住人は、彼女の裸の足を見てふいと視線を逸らした。
雨はまだ止みそうにない。水はもう滑ることもなく、濡れきった彼女に吸われていくようだ。藍色に沈む電線がシルエットになってたわんでいる。なにかジジっと頭上で音がしたかと思うと、街灯が点いたところだった。蛍光の人工的な光が満ちて、スポットライトじみて彼女を照らす。
「ねえ」
それとほぼ同時に、起伏のない声が彼女を呼んだ。見惚れるミルクもなかった彼女の鼓膜に今度こそそれは届いて、彼女は一度でその声へと視線を向けた。
「コンビニ行って、かえろ」
ビニール傘を彼女へさしかけて、そこには彼が立っている。

彼はコンビニでまたカップ麺を買った。ずぶ濡れの彼女が自動ドアの前に座り込んでいると、ごみ捨てに外に出てきた店員がびくりと肩を跳ねさせた。どうも人気のない裏通りと産業道路沿いのコンビニとでは感覚が違うらしく、あどけない顔をしたその店員は心配そうに彼女に具合を尋ねたりする。彼女が手を振って大丈夫ですと伝えたところで、彼がコンビニから袋を提げて出てきた。彼が開いた傘に彼女を招き入れたのをみて、店員はほっと安堵のため息をつく。彼女の足はもう裸足ではなく、彼が持ってきたムートンブーツを履いている。
アパートに向かう帰り道に公園がある。ブランコとシーソーしかないその小さな公園脇を通ったときに、ふわりと甘い香りがした。ムートンブーツの爪先を追うようにして歩いていた彼女は、その香りにぱっと顔をあげた。
「金木犀ですね」
 公園に、濃い緑のかたい葉と山吹色のビーズのような花をつけた樹が佇んでいた。彼はぴたりと足をとめる。
「金木犀ってさあ」
かえろ、と。傘をさしかけたとき以来はじめての彼の言葉だった。彼女は見上げるようにしてその表情を伺う。
「あんまり良い匂いがして、気味が悪いよね。花なんて自然のものなのに、人間に媚びてるみたいな、良い匂い」
彼の唇は渇いていて、そこから落ちる言葉も乾いていた。公園の入り口のその花を睨めつける彼の目は、やっぱり塗りつぶしたように真っ黒だった。
「わたしは」
 彼女は彼の傘から抜け出して、金木犀の傍らに寄った。こんもりとした葉のおかげで濡れはしなかったが、代わりに甘い花の香りに浸されるようだった。
「むかし、国語の教科書で読んだフレーズが頭から離れないんです。「雨上がりの空気からは、優しい濡れた土の匂いがする」ってフレーズ」
折り紙をちぎって貼りあわせたような表紙の国語の教科書。そのフレーズに線を引くようにとの先生の指示を今でも彼女は覚えている。鉛筆を滑らせるとへこんでいくような、あの教科書のつやつやした厚い紙が彼女は決
して好きではなかった。
「そんなの嘘じゃないですか。現に今こうして雨が降っていても、東京じゃそんな匂いしないじゃないですか。それなのにそのフレーズがずっと焼き付いているせいで、雨が上がった途端、どこからともなく優しい濡れた土の
匂いがするんです」
細い水音は葉に当たってもっともっと細くなる。
「わたしびっくりしました」
彼女はくるりと振り返って彼と視線を合わす。彼の右手には握られたままの大きなビニール傘。
「あなたがね。傘をわたしにさしかけてくれたとき。あなたはわたしを迎えに来たのに、置いていかれたみたいでした」
彼女は額にそっと触れる。彼のたばこの火がつけた痕の所為でなんとなくそこはざらついている。
「わたしそんなの知らないのに。そんな普通のひとみたいな愛し方しないでよって思いました」
ムートンブーツから伸びる彼女の細い脚にも、腕と同じように傷が付いている。彼のビニール傘に落ちた雨はコツコツと鳴り、金木犀に落ちた雨はさぁさぁと鳴いた。
ふと彼が傘を閉じる。彼に雨は容赦なく注ぐ。その雨は音がしない。
「おれね、晴れ男なの」
薄らと笑って、彼は唐突にそう言った。
「それからおれはね、きみの首を絞めるのが好きなの。一番好きなの」
元々癖のある黒髪が湿気のせいでいっそううねっている。彼はそれを指先に巻きつけては解く。黒髪の巻きいた彼の指。細くて白いのに骨ばって、不器用にごつごつとした指。
「首を絞めてるとね、途中でね、く、て。きみの顔から表情がなくなるのがわかんの。おれ、それが好きなの」
彼の視線がゆるりと彼女の喉元を彷徨う。伸ばし切ったままの爪が視線に交じってそこを掠めていったような感覚に、彼女はぎゅと身を抱いた。
「だからさ、きみが雨の中でひとりで、苦しそうに寒そうに、それでもって愉しそうにしてるのはね、違うんだよ」
 彼は首を傾げた。雨水が顎を伝って落ちる。
「置いてかないで」
塗りつぶしたように黒い瞳は、もう空洞のようにすら見える。
「わたしは置いて行ったりしません」
「おれだって置いて行ったりしてないよ」
言うや否や。ばんっ、と安いビニールの音がして彼の手の中で再び傘が開いた。
「確かめようか」
半透明を張ったステンレスの骨が彼の薄い笑みを切り取る。彼女に向けて開かれたその傘は微妙にひしゃげていた。
「なにを?」
 聞き返す彼女に、彼はその笑みをいくらか濃くした。
「雨上がりの匂い」
 空の中心から垂れる水は不完全な円の上を伝う。
「まだ雨は上がってませんよ」
「知ってるよ。でもあがるよ」
 彼の右手がビニール傘をほうった。
 傘はふわりと上空へ舞って、その軌道にあった全部を飲み干していった。たとえば雨。あるいは音。傘の通ったあとはしんとして、もう水は降らない。それら全てを吸ってもなお、半透明は不完全なりに澄んでいる。彼女の視線もまたそこへと攫われていた。公園の全てを飲み干そうかというところで、傘はふっ
と動きを止める。見開いた彼女の瞳のなか傘はゆっくりと落下へと転じた。確実に始まったそれに抗って少しでも長く空に留まろうとするかのように、傘が吐く。
 山吹色のビーズのような、ちいさな花。
 傘は飲んだすべての代わりに金木犀の花を吐く。山吹色は雨粒にとって変わって降り注いだ。深まってもういっそ黒くなりかけている藍色の背景にその山吹は痛いほど映えて光るようにみえる。傘の吐いた光に公園は埋まる。落ちるそれらを追いかけて、彼女の視線も落ちる。その先には彼がいる。子供のように無邪気で得意げに、けれどすっかり爛れきった表情で彼は彼女を見返した。
「俺、晴れ男だって言ったでしょ」
 傘が落ちた。
 半透明に泥が跳ねる。途端に満ちていた山吹が弾ける。針を突き立てられた水風船じみて弾ける。ぱしゃんと軽い音とともに地面が濡れ、音が氾濫した。けれどそのなかにもう細い水音はない。彼女は何度か瞬きをして金木犀の幹から手を離す。手のひらに空を仰がせるが、もうそこに雨は落ちてこない。
「ほら。雨上がりだよ」
 泥と潰れた花のまとわりついた傘を拾い上げて畳む彼の声はまた平坦になっている。彼女に向けられた視線は純にぬらぬらと、嗜虐の色に艶めく。
「雨上がりですね」
 彼女は復唱する。そういえば不思議に、金木犀の甘い香りがしない。舞ったビニール傘が、彼女を引き揚げたのかもしれなかった。彼の目がホラはやく確かめてみなよと、言葉無く促している。

 彼女はひとつ、大きく息を吸った。
その青、水底編の原案

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