枯れてねえよ
おっさん企画なのに、おっさんか分からない件。
俺は公園のベンチに座り、コンビニで買ってきた菓子パンとコーヒーを取り出して置く。日差しが暑い。午後十二時の太陽は、容赦なく町を照り付けている。
午前中は漫画喫茶で時間を潰した。昨日も同じだった。その前の日も同じだった。そのうち彼を気遣うように、遊びに来ていた婦人がいなくなっていった。遊具は、俺と同じように暇そうにして太陽を眺めている。同じように空を見上げたが、鳥一匹すら飛んでいなかった。まるでテリトリーが出来上がったようで、黒澤の中に不思議な高揚感さえあった。
俺の風貌は決して良いものではない。髭剃りも持っていないため、無造作にはやされたものはファッションとは言えない。カッターシャツもよれよれのもので、傍から見れば卑しいものに見えるだろう。三十を過ぎたせいか、顔に皺も増えてきている。鏡を見るたびに嫌になる。だが、金がないのだから仕方が無い。
「今日もお疲れ様、俺」
四時間ぶりに出す声だったので、少しどもった。そのことに微笑しつつ、パンをかじる。美味くは無いが、不味くも無かった。コーヒーを流し込んだ。かなり冷めていた。
公園に足音が一つ響いた。ジャリッと砂を踏む音が、少しずつ近づいてきている。無視を決め込むつもりだったが、足音は予想通りとも言うべきか、俺の前で止まった。
顔を上げない視界には、黒い革靴があった。二十センチとちょっとしかないそれは、自分のものと見比べて随分と小さい。子どもだな、と一目で分かるものだった。
靴は止まったまま動かない。微動だにしない。誰かが人形を置いて行ったのではないだろうかと疑えるほどに、無機質だった。靴だけではない。その上に覗く白く細い脚も、少し赤みを帯びていてもいいはずの膝も真っ白で、まるで本物の陶器だった。
好奇心よりも恐怖が先行していた。必死に息を押し殺し、出来るだけ顔を合わせないように、空気と同化するように身体を強張らせる。それでもいなくならず、ただそこに佇んでいる。
菓子パンが無くなった。コーヒーも無くなった。それがいなくなるまでの時間稼ぎがなくなったことで、黒沢は一層冷や汗を滴らせる。
靴が動いた。鳴った砂と擦れる音は、何かの始めを予期させるビックバンのように心臓を跳ね上げ、つい顔を上げてしまった。
「……おやじ、不登校?」
北原は典型的な不良少女に見える。制服姿だが、膝上のスカートにセミロングの金髪、ピアスまでしている。学校で何か言われないのだろうかと黒澤は思ったが、教師の苦労を思って無駄だと気づいた。鼻先はすっと筋が伸び、化粧がその整った顔立ちを映えさせている。染めている髪の毛先が意外にも綺麗に纏まっている。素直に美人だな、と思えた。
「この街ってさ、超ヒマじゃねえ?」
何の遠慮もなしに隣に座ってきた北原は、軽い自己紹介だけすると、突然そう言った。大人への尊敬の気持ちなんて微塵も無い口調だった。
「ひ、ヒマ?」
俺はそんな彼女に気圧されているのか、少しどもって言う。
「ロクにゲーセンもねえし、カラオケだって東京と比べたら高いじゃん。寂れた商店街が一個あるけど、あんなとこ遊ぶとこじゃねえし」
「ああ、確かに。でも、だったら東京に行けばいいじゃないか。休日にでも」
「何度も行ってるっつーの。オヤジ、なんかイイとこ知らねえの?」
「遊びになんてあまり行ったことがないから」
「……枯れてんなあ」
言うと、北原は制服のポケットから煙草の箱を取り出した。流石にまずいと思って、手で腕を掴んでそれを制する。
「ちょ、ちょっと。流石にそれはやばいんじゃないか?」
「んだよ、不登校オヤジのくせしてあたしに指図すんの?」
「……っ」
悪気なんてまるでないように、北原は言葉を失った俺を無視して煙草を取り出して、ライターで火をつけた。一度ふかして、中指と人差し指の間に挟んだ。
「弱っちいなあ。まあ、センコーみたいにウザくなくて良いけど」
意味が分からなかった。突然現れた女子高生にあれこれ言われる筋合いが見出せない。いくら会社的に落ちぶれたと言っても、十代やそこらの若者、それも金髪に染めているような女子にここまで言われて黙っていられなかった。
「きみは大人をなんだと思ってるんだ」
半ばまで詰め寄り、少し声を荒げて言った。すると、北原は少しも動じずに答える。
「うーん、大きい人」
にやり、と北原は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。それを見た瞬間、うちに膨らんだものは急速に萎んだ。肩を落として、足元の砂粒に触れた。理由はなかった。
「大人って、何が偉いんだよ」
北原は煙草を再三ふかしながら、俺を見ないで問うた。
「……思春期の定型文みたいな質問だな」
自分にも娘や息子がいたらこういうことを言うのだろうなと、俺は柄にもなく思う。見れば、服装の乱れこそ目立つが、北原は悪いやつではなさそうだった。
元々俺は不良が嫌いではない。先ほどの北原ではないが、にやりと口元を吊り上げた。
「大体さ、みんなしてつまんねえんだよ。センコーもオヤジも。あれやれこれやれってうるせえくせして、あたしが自分でやったことにはやるなって。何様だっての」
「俺そんなこと言ったか?」
「おめえじゃねえって。オヤジってのはうちの親のこと」
「ああ」
きっと北原にとっては俺みたいな人間も、自分の父親も同じオヤジなんだろう。アクセントからそんな意識が取れた。
「でもそれは仕方ないことだ。大人になるために必要なんだからな」
「ならあたしは大人になんかならなくていい」
これもまた定型文みたいなものだ。つまらない大人の現実を目の当たりにした若者は、決まって言う。俺も昔はそうだった。必死に大人になることから逃げてきた。いつまでも夢を追う立場でいたかった。そしてそこから落ちた俺だから言える。
「大人になれないやつは社会的にはゴミだ」
「なっ……」
「社会の歯車だとかなんとか言うやつはいるがな、適応出来ないやつは社会に必要ない」
北原は度肝を抜かれたように呆けている。それはそうだろう。不登校オヤジが急にこんなことを言い出したら滑稽で仕方ない。自分で笑えそうだ。
「……それ、自分のこと言ってんの?」
「うっ」
非常に図星だ。世間を悟ったような人間はほとんど体験談を語る。良くも悪くもだ。今更恥ずかしいとも思わないが、複雑だ。俺はバツの悪そうな表情を浮かべているのだろう。
だが、北原は至って真面目な様子でそれを聞いていた。ふうん、となんとなく頷いているように見えるが、表情は真剣だ。
「……まあ、目の前にいい鏡があるって意味では、説得力あるよ」
煙草をふかしている姿はどう見たって大人を目指している。どうしてか、子どもは背伸びをするくせに、大人を否定するものだ。北原はぽとりと吸殻を落とした。
「あたし、制服着てるけど高校中退してるんだよ」
「……へえ」
意外だった。問題児には見えるが、問題を起こしそうには見えない。
「自由になりてえんだよ。誰にあーだこーだ言われなくて済むようなところに行きたい」
まるで旅をしたがる流浪人。思春期特有のものだ。
「ゴミになるつもりもねえ。社会の歯車ってわけわからないものに巻き込まれもしねえ」
北原は俺のほうを見た。その瞳には確固たる意志が宿っているように見える。若さの力、というやつなのだろうか。思わず見惚れてしまうくらい強烈な光を放っているように見えた。
「って、オヤジに何言ってんだろうねあたしは」
北原は立ち上がる。去るつもりなのだろう。元々暇つぶしでしかなかっただろうし、俺もこの場に長居はしたくなかった。
だが、俺はそんな後姿に向かって言う。
「夢はあるのか……?」
彼女は振り返る。
「バンドをやってんの。きっとそれ関係が夢」
そう言った彼女は、はにかんだ笑顔をしていた。
自己嫌悪で死にそうになる。嘔吐感が胃から喉にのし上がってくる。俺は洗面所で荒い息を絶えず繰り返している。
「……社会的なゴミか……」
夢を追っていただけなのに、どうしてそこまで言われなければならないだろうか。何か悪いことをしたのだろうか。
リストラされたわけではなかった。『元々就職すらしていなかった』からだ。三十代も過ぎても夢を追い続けてフリーター生活を続けていた。しかし、限界を感じた。いつまで経っても叶わないものに、絶望した。
四畳半の部屋には夢の残骸が転がっている。……作家だ。
元々見込みは無かった。作家業はその道だけで進むには厳しいものだと知っていた。しかし、それでも諦めたくないものがあった。必死で続けてきた。だが、何度挑戦しても、成果は出なかった。俺は、心が折れた。
高校や大学の友人は、特別なことはしていない。だが、順調にサラリーマンをしているものでも、人並みの幸せを掴んでいる。結局、普通が良かったんだろう。社会にとってのゴミクズになるくらいだったら、歯車とやらに飲み込まれていれば良かったんだ。そんなガキみたいな理想は、学生の頃に済ませておくべきだった。
北原はどうだろうか。今日会ったばかりの彼女は、世間に絶望している眼をしていた。しかし、最後に教えてくれた夢は本物のように見えた。彼女もいつか、その夢にすら絶望する時が来るのだろうか。
俺の部屋に散らばっているのは、原稿用紙じゃない。就職活動に必要な資料や、雑誌だ。何かを詰め込んだものじゃない。酷く虚しく、とても無機質で冷たい、つまらないものだった。誰が手にとっても面白くもなんとも無い。
「……大人なんて偉くない」
偉いのは、大人になった人間だ。そうすると、俺はやはりゴミだ。週間情報誌と同じ、何も詰まってない、いつかゴミになるようなものだ。
「……鬱だ。外にでも出よう」
ゴミを踏みつけて、俺は外に出た。髭はまだ剃っていない。
夜の街は酷く冷えている。上着を着てくるのを忘れた。身体を抱いて、震えながら街を歩く。
人前に出るつもりはあまりない。いつもの公園で少し風に当たろうと思った。そうして何分かすれば、きっとこの憂鬱も風が流してくれるに違いない。
公園に近づいてくるにつれて、ふと何かが聞こえてくることに気づいた。
「……楽器か?」
腕時計は持っていなかったが、外に出た時は九時を回っていた。そうだとしたら、随分と近所迷惑なことだ。住宅街から離れている公園だが、アパートは並んでいる。苦情が来ることは間違いないだろう。
街灯に照らされた路地を行きつつ、その音に耳を傾けた。お世辞にも上手いとは言えない。まるで、学生の頃に練習した音楽祭のもののようだった。それが少し懐かしくて、立ち止まって数秒聞き入ってしまった。
少しだけ興味が湧いた。こっそりと何をやっているのか見ていこうと思った。
公園の前まで来た。やはり楽器だ。アコースティックギターを持っている少年が二人に、ボーカルと思われる女性が一人いる。三人ともパジャマのようなラフな格好だ。とても練習する光景には見えない。少なくとも、ここでライヴをやろうとか、そういうことではないようだ。
少年が一人、ギターを弾き始めた。コードも覚えたてなのか、まったく音に乗れていない。リズムの取り方もどこか不安定だ。合わせてハモリを出すように二人目が弾きはじめる。こちらもお世辞にも上手いとは言えない。合っているところは良い。だが、少しでも外れるとただの不協和音に聞こえる。一音一音を確かめるようにして弾いている彼らは、素人目に見ても初心者だと分かった。
ふと、ボーカルが控えめ気味に発生をし始めた。相当練習した成果なのだろうか、出し切れていない声は少ししゃがれていた。あれ、といった様子で首をかしげている。それを聞いて、少年が二人とも笑っている。
「……若いな」
自分にはあんな時期があっただろうか。こんな時間に外に出て、自由に……。
「あたしらはゴミになんかならねえよ」
ボーカルが唐突にそう言った。俺は驚いて、つい声を上げそうになった。
「な、なんだよ急に」
ギターの少年の片方が苦笑いして言う。しかし、ボーカルはいたって真剣な様子だ。まるで、北原のように。
「センコーが今日言いやがったんだ。音楽で食べていくなんて夢物語だから止めろって。未来のことを考えずに行動するやつは、ゴミみたいなやつだって」
「クソだなそいつ。いくらなんでも言いすぎだろ」
流石に同意す……る。
していいのか?
「クッソ。死んだオヤジのくせしやがって、ケチつけやがって……」
「ははっ、違いねえ。枯れてんだろそいつ」
ギャハハハハと下品な笑い声が飛ぶ。不思議と不快には感じない。やはり、不良は嫌いじゃない。
「さて、練習しようぜ。来週の学祭、盛り上げないとな」
「いっちょやるかー」
オヤジのことなんて関係無しに、彼らは楽器を構える。
うるさい音が鳴る。下手糞で、聞くに堪えない音が鳴る。俺の後ろでおばさんが嫌そうな顔を向けていた。それが一番不快だった。
俺はおばさんのほうに向き直って、吐き捨てるように言った。
「いいじゃないですか。若いうちにしか、出来ないことですし」
俺はそれだけ言い残すと、公園を後にした。おばさんの驚いた顔が、面白くて仕方が無かった。
帰宅した俺は、部屋に乱雑に落ちている原稿用紙を拾い上げた。もう半年以上も前のものだ。ざらっと内容を適当に読んでみる。悪くない。いける。
三十路だってやれるときはやれるはずだ。
もうちょっと、もうちょっとだけ大人になるのを待って欲しい。床に散乱している就職情報誌を端のほうによけて、俺は机の前に座る。
オヤジは、枯れてなんかいねえよ。
どうも蜻蛉です。読んでいただいてありがとうございました。
やっつけ仕事です。プロット無し、構成時間一時間半、考えも無しにスーパースピードで仕上げたため、粗だらけです。突っ込みは入れないで!!
名誉挽回のために、また短編作ります。。。