入浴と思考
脚を伸ばし得ぬ狭い浴槽は備え付けであった。其処で両脚を組んで湯に沈む私の上に、恋人が座る。此れが私達の常であった。
一一貫程の体重である小柄な彼女は、水中に於いて尚更に軽い。然う為て、私の組んだ両脚の上で、彼女は湯に温められると私の膝部へ重心を移す。其方の方が高く、彼女が幾らか湯から露出為るからであった。
宛ら岩礁の海鳥だと私は思って居る。
然様な空間で私は呆然と思考為る。軽く感じる恋人の身体を通して、斯う思い考えた。
海底に於いて人間は高く跳躍為る。月面に於いて人間は高く跳躍為る。浮力を加えられて高く跳び、重力を除かれて高く跳ぶ。
此れは少し、巧い事を云えそうだ。
海底に於いて人間は浮力を与えられると同じく、水圧を与えられる。月面に於いて人間は重力を除かれると同じく、気圧を除かれる。
何れの環境も、人間が裸身で臨むには限界を余りに超えて居る。
何の故に高く跳び得ると分かるか。其れは何れも、人間が相応の装備を与えられ、其処へ踏み出した為である。
例示為よう。
得た跳躍を自分に置換為、加わる圧力を社会に置換為る。
海洋に於いて、人間は如何なる装備が有らずとも少し許りの浮力と水圧を味わい得る。其れから人間は深みへ歩み出す。其処で大きな浮力と水圧を感じ始める。既に遊戯を外れ、容易に浮き上がる事は許されない。
人間は海底で水圧に抗い、潰され溺れぬように苦しみ乍らも散策を怠らぬ。然う為て何時か、自分が高く跳べる事を忘れる。
何時か沈んだ財宝や、未だ知られざる生物を其の深海で見付けられるかも知れないが、其れは余りに稀有である。
海面は常に眩しく乱れ輝き、其の底面に数多の溺死を抱え乍ら、岸辺の人間を蠱惑為る。
天体に於いて、人間は装備が有らざれば忽ち死ぬ。呼吸は叶わず、肉体は崩れ、体液は消える。人間が天体で自在に振る舞う事は極めて難い。其れ故に気圧は非ず、高く跳び得る。
地球に居る人間は見上げる太陰へ易く往き得ぬ。緻密な計算と莫大な費用と高度な技術を寄せ集め、漸く触れられる。月面へ至って尚も断たざる努めに苛まれる。
其処で拾った石礫は希少な価値を持つ。果たして其の石礫の真価を見出し、認め知らせる事は誰が行うであろうか。
羨望が絶えぬ此の世界は、地球に住まう数多の人間が結実為せた物である事を、人間は頻りに忘れる。
私は海洋に此の体を沈めるであろう。然し乍ら、高く跳ばずとも構わない。生命に危機を齎す水圧を被りたくは無い。万人が沈み行く其の光景を見送り乍ら、私は陽光が届く海底で慎ましやかな生活に任せたい。
其処で私は思考を止める。私に乗る恋人を見遣り、自身は宛然たる碇である事を思い出した。
私は恋人、或いは奥妻と云う船舶に、より美しく広い海洋を見せる為、より深い海底に碇と為て沈まねば成らぬ……。




