ツーリング その1
北の大地からの寒気団が南下してきた。
空の色が夏の鮮やかな青から、秋の淡い青へと変わっていく。夏の積乱雲や綿のような雲も、ハケではいたような薄い筋雲に置き換わっていく。
トリポカラ大陸にも秋がやってきた。大陸性気候なので、夏の景色が数日間で見る見る秋色づいた景色に変わっていく。
コスモスなどの秋に咲く花が咲き誇り始め、落葉樹の森の緑が急速に勢いをなくし、代わりにちらほらと赤や黄色に染まった葉が日陰の枝に見られ始める。
夏の草いきれに包まれた空気も、秋のかび臭い空気になっていく。
空を見上げると、一度に数種類もの渡り鳥の大群が数多くの波のようになり、空を真っ黒に覆って南下している。1つの波だけで軽く数千羽はいるようだ。
さらに上空には数十羽ほどの猛禽が旋回して、時折、黒い大群の中へ突撃をしている。
巨大な虫たちも飛び回っているが、その勢いは夏の間ほどではなくなってきていた。遠くの落葉樹の森の上空には、数万ものバッタのような虫の大群が南に向かって飛行しているのが見える。
この土地の住民も南下の支度を始めたようだ。最北の地では、最後まで残っていた住民10名余りが我慢比べを止めて、今日になって南下を始めたというニュースが流れた。じきにこの辺りの住民も一斉に南下を始めるだろう。
落葉の時期まで待てば、鮮やかな赤や黄色の錦に染まった世界を堪能できるのだろうが……その頃には気温がかなり低下している。寒さを嫌うエルフたちは、紅葉が始まる前までにさっさと南下してしまうものだ。
ここ、トリポカラ王国の都バクタプルも、シュナ内海からジャムナ内海へ南下する時期に入っていた。
この都は、冬はジャムナ内海南岸まで南下して、赤道に近いローツェ高原を源流とするティスタ河の河口周辺で越冬するのが伝統である。他のパタン王国などでも、首都は同様に南北への動きをしている。
喫茶店でお茶をしているコラールとラウトも、この数日間で変わり始めた対岸の風景を眺めていた。
風が涼しくなり、木々の緑にも落ち着きが見られ始めた。脇に鎮座している守護樹も寄り集まって何かザワザワやっている。
セリアは図書館司書長の雑用を仰せつかって近くの商店まで買出しに向かっていて、ここには同席していなかった。ちょうどティータイムの休憩時間なので、喫茶店には何組かの客が入っていてくつろいでいる。
喫茶店の外にも空中ディスプレーがある。そこでは南半球のブトワルやウダヤギリ王国で新酒の発表が行われ、下り酒のレースが開始されたというニュースが、現地の映像とともに流されている。
それを流し見していたコラールが濃いストレートの紅茶を1口飲んだ。小皿のツマミはバッタのような虫の甘露煮が3つ。
「今年も、いい新酒ができたって評判よ。私はここのちょっとだけ発酵したブドウジュースのようなワインも好み。クラッカーなんかに合うのよね」
ラウトもニュースを見てうなずいた。
「うん。僕もその食べ方は好きだな。僕の場合はクラッカーにたっぷりと発酵クリームを乗せるけどね」
「クリームだと甘くなっちゃうのかしら」
コラールが抱いた危惧に、ラウトが微笑んで手を軽く振った。
「甘くないクリームだから大丈夫だよ。トリポカラに一番近いのがブトワル王国だね。確か貨物船で1週間ちょっとの距離だったかな。もう少し待たないといけないね」
コラールがちょっと胸をはって、お澄ましする。
「私も、ブトワル産のワインとリキュールを2ケースほど注文したの。港へ入港するのが楽しみだわ」
ここでラウトが軽く咳払いをした。
「ごめんね、コラールさん。やっぱり仕事が多くて休暇が取れなかったよ」
「そう、残念ね」
コラールも顔を曇らせた。
「でも、コピーは同行できるんでしょ?」
「うん、それは大丈夫だよ。仕事の合間にお邪魔させてもらうよ」
コラールに笑いかけたラウトが東の空を見上げた。白い筋雲がいくつか並んで浮かんでいる。
「楽しみだなあ。シュナ内海より東へは、上空から見たことがあるだけなんだ」
「ふふふ」と、コラールも笑う。
「きれいよー。風景もどんどん変わっていくし、何より特産品が多いのよ」
キラキラと目を輝かせるコラール。
「大森林から大草原に変わっていくのっ。そうだ、チーズの産地でも有名なのよ。ラウトさんに何か買ってきましょうか?」
ラウトがちょっと考えた。
「うーん、そうだなあ……じゃあ、臭くて申し訳ないけど、羊の青カビ発酵チーズがあったら買ってきてくれるかな? あれは、なかなかここじゃ手に入らないんだ」
「あんまり臭かったら、買わないわよ」
クスクス笑って冗談めかしてコラールが言う。
「7泊8日か……寂しくなるなあ」
ラウトがミルクティーを口に運びながらつぶやく。半分以上がミルクなのでかなり色が白い。ツマミはフレッシュチーズに粉末バニラをかけたようなものだ。
「『フェアリーテイル ツーリングチーム』っていうんだね。何名で行くの? コラールさん」
「今回は長期間だから、予定が合う人が少なくて3名だけ。魔法研究所と大学の事務員やってる人とよ。私やセリアと同期なの」
レモンティーをすすりながら、早くもにやけているコラールである。ほとんど心ここにあらず、のようなコラールにラウトが一応念をおした。
「ツーリングは慣れているだろうけど、安全には気をつけてね」
翌朝。夜明け前の薄明かりの中、都の港に3隻の1人乗りツーリングボートが水面に浮かんでいた。
完全に趣味のために建造された船で、仕事でラウトが使うような貨物運送能力は皆無だと一目で分かる。1人乗り専用なので船の長さは3メートルちょっとしかない。
その代わりにスピードと小回りを効かせるために船体は非常にスリムで平べったいつくりである。海魚のアジを横倒しにしてプレスして平たくしたような感じか。
そばには3人の人影と3本の守護樹の影も動いていた。守護樹をそれぞれのボートの運転席の後ろに鎮座させている。その後で長旅用の荷物を、ボートの前後にある合計200リットル程度の容量がある、小さな船室に詰め込んでいる。
「ふう……こんなもんかな」
コラールが船室に荷物を詰め終わり顔を上げた。
服装はいつもの地味な司書服ではなく、赤白青のストライプな柄のレーシングスーツに変わって、防水グローブにブーツとサングラスを身につけて、腰まである長いふわりとした金髪を湖面の風に遊ばせている。やる気満々である。
首にはきれいな石が縁に散りばめられて装飾がついている、手の平サイズの鏡がかかっていた。
コラールがそれをつついてみるが、反応がない。
「もう。まだ寝ているのか、ラウトさんは」
「コラールの彼氏は、まだ寝てるの?」
メンバーの1人が聞いてきた。彼女も白黄緑のパッチワークがたくさんついているレーシングスーツ姿で、同じくサングラスをかけ、腰まである銀色が少しかかった金髪を風になびかせている。
「ええ、日の出を見ながら出発するっていったんだけどね、ステリカ」
コラールが答えて、もう一度鏡をつついた。
「えい、起きろ」
「そろそろ時間よ、コラール」
もう1人の、これも白青黒の色が細かく入り組んだデザインのレーシングスーツ姿のメンバーが、空中に時計を表示させて告げた。彼女もサングラスをかけて、腰まである癖のない金髪を風に遊ばせている。
「うん、私も準備いいよ。じゃあ、起動させましょうか、ラーサ」
コラールがスーツのベルトに引っ掛けていた杖を取って、星をチカチカさせて術式を詠唱していく。
3人とも同時に同じ動作をして杖を振り「起動」と命令する。と、それぞれの守護樹の基礎岩が黄色にぼんやりと光り、ボートが水面から数十センチほど浮かび上がった。
「運行前点検、開始」
3名がこれも同じ動作で杖を振る。と今度は、湖面からバケツ1杯分の水がポンと飛び上がった。その水がボートを前から包み込みながらスキャンしてチェックしていき、そのまま後部からまた湖面に落ちる。どうやら異常無しのようである。
不意に湖畔の大森林から小鳥の群れの大合唱が始まった。今日が始まる。
「さあ、行こう」
コラールが合図をすると、水しぶきがバアッと数メートルの高さに上がり、3隻のボートが加速をつけて港を飛び出していった。
岸辺で休んでいた数千羽のカモらしい水鳥の群れが驚いて、一斉に夜明け前の空に羽ばたいていく。
まだ低速なので防御障壁は展開しておらず、そのために皆、豊かで長い金髪を風になびかせている。
それぞれが杖をあちこちの方向に向けて、共鳴してくれそうな精霊を探していく。コラールの杖の先に3つ星が弾けるように光った。
「よおしっ。水の精霊さんゲット。お先にーっ」
コラールが仲間の二人に元気な大声で知らせると、杖の先が指す水面が青く光りだした。同時にボートが急激に加速していく。
あっという間に、コラールのボートが仲間のボートを追い抜いて先頭に躍り出て、そのまま数百メートルも引き離した。
「私も樹木の精霊さんゲット。負けないわよーっ」
今度は銀色がかった金髪のステリカが満面の笑みで宣言して、杖の先の星をきらめかせる。と、対岸のナラの大木が緑色に光った。
同時にステリカのボートがヒュウンと風音を切って加速して、コラールとの距離をどんどん詰めていく。
「何の、今度も水の精霊さんゲットよっ」
コラールが笑うと杖の先の星が弾けて、進行方向の水面が青色に鈍く光りだす。同時にさらに加速していくボート。
「うひゃ。防御障壁展開」
時速が80キロを超え始めたので、コラールが杖を振って風防の防御障壁を展開した。
その時。
「大物ゲットーっ」
後方からラーサが猛追してきて、そのまま2人を抜き去った。
「きゃあ、何をゲットしたのよお」
驚くコラールとステリカに、さわやかな笑みで「ニンフよおっ」と答えるラーサ。
見るとボートのへさきに水の精霊の壮年ニンフがちょこんと座って、こちらに手を振っている。そのまま水煙を巻き上げて加速しながら二人を引き離していくラーサ。
水平線から真っ赤な太陽が昇り、水面が赤く染まった。
「うわあ、まぶしいっ」
歓声を上げて杖を太陽に向けるコラール達。たちまち光の精霊がそれぞれのボートを包んだので、さらに加速が加わる。そして、そのまま水平線の向こうに消えていった。
「うわあ……」
コラールが首からかけている鏡には、ラウトの顔が映し出されていて、その顔が驚いている。後ろには、おなじみの薬師部のゴチャゴチャした風景が見える。
「おはよう、コラールさん。すごいね。今、どの辺り? 水面がすごく青くてきれいだよ」
「おはよう、ラウトさん」
コラールも元気よく返事した。
「シュナ内海の中央よ。すごいでしょ、周り全部水平線だけっ。今日は本当に良い天気だわ」
高速で疾走しているボートをドリフトさせる。途端に真っ白い水煙の壁が数メートルの高さで生じて、それが朝の光に乱反射する。そのままボートを360度回転させてから、また東へ直進させるコラール。杖にまた星が弾ける。
「ふふふっ、ゲット」
同時にボートがグウンと加速する。楽しくてしようがないという顔をしているコラールだ。
「おう、ラウト。ん、何だそれ」
ミンヤックがやって来て、ラウトが見ている空中ディスプレー画面をのぞき込んだ。便秘薬の原料の様々な鉱物を入れた大皿を片手で3段重ねで持っている。
「ほう、コラールさんかい。おうおう、ずいぶん飛ばしているな」
「おはようございます、ミンヤックさん」
コラールが挨拶を返した。
「今、6体の精霊と共鳴しているんですよ。すごいスピードでしょ。爽快ですよー」
ミンヤックがラウトと顔を合わせた。
「出しすぎじゃねえかい?」
ボートの背景が高速で流れていっている。時速200キロぐらいはあるかもしれない。
「多分……これは飛行艇と同じくらいの速度、では?」
ラウトも目を点にさせてミンヤックに聞く。ラウトを横目で見るミンヤック。皿がカチャカチャ鳴った。
「うむむ、そこまでは出ていないが、都でやったら水上警察に危険行為で捕まる速度ではあるな」
そこへ、仲間のラーサとステリカのボートがコラールのボートに接近してきた。
「ねーねー、ドリフト回転何回できる?」
「15回転やってみようよ、コラール」
目でお互いに合図して「それー」と、3隻のボートが横並びで一斉にドリフト回転を始めた。
ブアアアッと爆発したように立ち上がる水煙の中をキャーキャー騒ぎながら、グルグル回っていく。そのまま、上空の衛星の送受信エリアを抜け出たらしい。ノイズが大きくなって映像が消えた。
ミンヤックが、それを見て一言。
「暴走族だな、これは」
「やっぱり、そう思いますか。先生」
「まあな。こいつを粉末にして、電磁炉で焼いてくれ」
手に持っていた大皿をラウトに渡した。ずしりと重いので、思わずよろけてしまうラウト。
「お、ととと。ずいぶんありますね」
「ああ」
肩をすくめるミンヤック。
「成分含有量が少ないんだよ。焼いた後、比重差で薬効成分のある鉱石をより分けるぞ」
「はい」
その後も仕事の合間を見て、衛星の送受信エリアに入っていれば、コラールのかけている鏡を通じて様子を見るラウトだったが……見るたびにドリフトしてたり、スピード競争してたり、ジグザグ走行で遊んでたり、果てはチキンレースまがいの、岸壁にどれだけ接近して停止できるか競争までやっているので呆れてしまった。
「図書館にいる時と、かなり雰囲気が違うなあ」
それでも夕方になる頃には、さすがに遊び疲れたらしい。シュナ内海の東海岸に上陸した。
ボートから食料とテントなどを引っ張り出して、ちょっとした砂浜に設営を始める。気温も徐々に下がってきているようだ。
砂浜はせいぜい数メートルの奥行きしかなかった。その先は広大な落葉樹混じりの大森林が、高さ20メートルの壁になってそびえ立っている。夕方になって、森全体が真っ黒な影に沈み始めていた。
乾燥果物と、木の実やナッツ類、蒸してから乾燥させた虫をかじりながら、お茶を飲んで談笑するコラール達。
それぞれの守護樹が彼女たちを囲んでいて、守護樹が根で抱えている大きな岩が黄色や青にぼんやりと輝いている。それとは別に、枝にいくつかランタンみたいな灯りもあるので明るい。
ラウトも職場近くのレストランで食事を済ませながら参加したが、30分もしないうちにコラールが大きなあくびをした。他の2人にもあくびが伝染したようで、続けてあくびが2つ。
コラールが目をこする。
「ラウトさん。明日は、メグナ内海とシュナ内海をつなぐ運河と湿地帯を走るのよ。また違った景色になるから楽しみにしててね。おやすみー」
そう言って、守護樹の根元で丸くなってしまった。せっかくテントを設営しているのに利用していない。他の二人も同様におのおのの守護樹の根元で丸くなる。
感心するラウト。
「うーん、健康的な早寝早起きなんだなあ。さて、自分も帰って寝ようかな」
間もなく守護樹の枝のライトも小さく暗くなっていったので、鏡を通じて参加していたラウトもディスプレーを消した。そのままレストランを出て、家に帰宅する。
秋の夜空が空いっぱいに広がっていた。虫の鳴き声もかなり秋のそれに近くなってきている。




